二十九本目:『夢』の時間は脆く淡く
「さぁ、稽古を始めようじゃないか」
保健室から戻ってきた八咲が、解散しようとする僕と刀哉の首根っこを捕まえた。
「いや、稽古って、今日はミーティングだから無いじゃんか。道着とかはあるけど」
「五代部長から最終下校時刻までは良いと許可を取った。もう私たちを止めるものはない。さぁ稽古をするぞ。あのゲームの大敗の雪辱を晴らしてくれる。なぁ達桐?」
八咲の満面の笑みを見て、僕も刀哉も何も言えなくなる。
「どうした二人とも。防具を着けたまえ。早く始めようじゃないか」
当の八咲は、僕ら三人で稽古をすることがよっぽど待ちきれないのか、おあずけをされている犬のように目を輝かせて急かしてくる。
いつになくハイテンションな八咲だが、それも当然だろう。待ちわびた瞬間が今目の前にあるのだ。
僕が中学時代、刀哉とベスト16でぶつかったことを思い出す。あの白線の向こう側に刀哉が立っている姿を見た時は興奮して心臓が加速したものだ。それと同じ気持ちなんだ。なら、とやかく言うのは無粋だ。
「うん、やろう」
三人だけの道場。僕たちが床を踏む音と、防具の擦れる音で満ちる空間。
この場こそが八咲の求めた桃源郷だ。
「勝ち残りだ。順番待ちの一人が審判。一本勝負。時間は……まぁ三分でいいだろう」
「そうだな。巡りを良くするのもあるし、体力的にもな」
一瞬、刀哉の発言は八咲の体調を慮ったものだろうと思い、心臓が跳ねた。しかし、八咲は軽く「うむ」と肯定するだけで別段気にしていない様子だった。
「じゃーまずは俺と沙耶で行くぜ! 剣誠、審判頼むな!」
二人が白線の内側に入る。抜刀から蹲踞の動作だけで、二人が遊園地のアトラクションを前にした子どものようにワクワクしているのが伝わってきた。
始め、の声と同時に、二人が全く躊躇なく飛び込んだ。刀哉は上段に構えながらそのまま。八咲は飛び込んでくるのが分かっていたかのように合わせにいった。三十センチ以上の身長差があるはずなのに、相殺するあたりやはり八咲の打突の強さには舌を巻く。
鍔迫り合いで互いの視線が交差した。僕の見間違いじゃなければ、二人は笑っていた。
「っりゃああああ!」「サァアアアアアッ」
それは歓喜の気勢だった。刀哉が体重を利用して八咲の矮躯を弾こうとする。
だが、その力の流れからすり抜けるように八咲の体が力の向きとは逆に動いた。刀哉が驚いて体勢を入れ替えながら面を守るが、八咲はその防御の動きまで読んでいたらしい。
「コテェェッ」
気持ち良いくらいに乾いた炸裂音が響く。文句なしのコテアリだ。
「だぁーっ! なんで俺の動き読めるんだおまえは!」
「はっはっは、分かりやすすぎるんだよ刀哉は。ほら、交代だ」
ちくしょー、と唇を尖らせながら正座して面を外す刀哉。僕から審判の旗を受け取った。
僕もすぐに面を着けて、八咲の正面に立つ。
そういえば、八咲と防具を着けて向かい合うのは初めてだ。鉄格子の向こう側に、黒い道着を纏った、一人の侍が佇んでいる。
しかし、その姿は決闘に臨むというものではなく、どこか友人と団子でも食べに行く、町娘のような。
「さぁ、剣誠。逢引きをしようじゃないか。五代部長を打った一撃を見せ給え」
逢引き。まったく、八咲が好きそうな言葉遊びだ。思わずドキッとするが、僕の反応を見て揶揄っているだけだ。
でも、そうかもな。青春ど真ん中の高校生にとって楽しいことと言えば、そりゃあ男女のデートだ。街に買い物に出かけたり、遊園地に行ったり、ご飯を食べに行ったり。世間一般ではそれがデートなのだろう。でも僕たちは違う。僕たちにとっては。
「おぉおおおおおおおッ」
お洒落の欠片もない道着と防具を身に纏い、色気の欠片もない竹刀を振りかぶり、可愛さなんて微塵もない動きでぶつかり合い、百年の恋も冷める気勢の声を上げる。
それでいい。それが僕たちの──デートだ。
一瞬も気が抜けない。一回でも瞬きをしたら斬り落とされる。息が続かなくなりそうだ。
苦しいはずなのに、どうしてだろう。八咲から笑顔が消えない。
「はは、ははは! なんだ剣誠、良い笑顔じゃないか! 楽しいか?」
「え? 笑ってる?」
「ああ! 心の底からな! 私もだよ!」
八咲が中段から動く。技の起こりが見えた。面を狙ってくる。ならば相面で勝負に──、
と、思った瞬間だった。八咲の微かに浮いたと思った竹刀がまっすぐ伸びてくる。面打ちじゃない。最小限の動きで僕の動きを誘導する、身の毛もよだつ高等技術だ。
「突いたァッッ」
視界がブレる。喉に衝撃が走る。首を貫通したかと思った。思わず片膝をついてしまう。
突き。最短距離で進む、剣道における最速の打突だ。全く見えなかった。
「突きアリ! おら代われ剣誠! リベンジだ沙耶!」
「ちょっと水を飲ませてくれよ。二人でやっていいぞ」
「あん? しゃーねぇな。剣誠立て! 打たれたら自己申告な!」
「ゲホ……分かったよ、ちょっと待って」
早く立て! と言いながら刀哉が僕の首根っこを引っ張り上げる。さらに苦しい。
「しゃーっ! 行くぞ! あの日の再戦だ!」
「……それはちゃんとした舞台で、じゃないのか?」
「おっと、それもそうか。じゃあいいや前哨戦だ!」
刀哉が上段に構える。ようやく突きのダメージが抜けた僕も構えて刀哉と相対する。
──瞬間。
どぐん、と心臓が慌てふためくのを感じた。
かつてのトラウマが発症する時と同じような感覚で。
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