二十三本目:ぶっ倒します

 圧巻。その一言に尽きる。三年のレギュラーを瞬く間に撃破した。まさに瞬殺。


「つ、強すぎだろ、八咲……」


 思わず本音が零れた。そう言わざるを得ないほど、八咲の強さは異次元じみていたから。


 しかし、僕の言葉が聞こえたはずの八咲は、どこか力の抜けた目で僕を見て、


「私は、強くなんかないさ」


 と、寂しそうにそう呟きながら脇を通り抜けた。

 ──なぜか、その言葉がやけに重く僕の心に響いた。普通なら謙遜と捉えられる発言だ。いつもの八咲が言いそうな言葉ではある。


 しかし、それを差し引いてもどこかおかしかった。どういうことだ、と尋ねようと振り返ったところで、


「さて、宣言通り君に回したぞ。私たちの試合はいかがだったかな? 少しでも君に発破をかけられたのなら本望だが」


 いつも通りの八咲がそこにいた。さっきまでの寂しげな表情とは打って変わって飄々とした態度に呆気にとられる。


「どうした? まさか今更怖気づいたのかな? また私に臆病者と言わせるつもりか」

「う、うるさい」


 この切れ味。八咲だ。さっきのは僕の気のせいだったらしい。思考を切り替える。副将の負けが確定しているので、スコアは二勝二敗。大将である僕に全てがかかっている。


「これで燃えないワケないだろ」


 刀哉といい、八咲といい、本当に僕の魂を奮わせてくれる。もう失ったと思っていた闘争心が、煮え滾る溶岩のように沸き立ってくる。思わず口の端が吊り上がった。


「ふふ、男らしい良い表情だ。刀哉からも聞いていたが、君は臆病の毛皮を剥いだらそんなにもいい面構えをするんじゃあないか。男前がもったいない」

「なんだよ、急に褒めだして。なんか不気味だぞ」

「本心だよ。さぁ、行き給え。君の努力を、今こそぶつける時だ」


 言われるまでもない。面を被る。頭がきゅうと締め付けられる。耳が圧迫されて、音がぼやけて聞こえる。自分の呼吸と、心臓の鼓動がやけに大きく響いていた。視界を埋める鉄格子。その先には相手だけ。


「何も恐れる必要はない。君は十分に強いのだ──か、ら……」


 面を被り、小手を着けて試合場に向かう僕の背後で、唐突に言葉が途切れた。

 どうしたのかと思って振り向けば、八咲が胸を抑えて喘いでいるのが見えた。


「八咲?」


 僕が声を掛けた瞬間、刀哉が気付いた。


「おい、沙耶ッ!」


 刃のような鋭い声。明らかにただ事ではない声色だった。

 刀哉が正座を崩して八咲の元へ向かおうとしたら、


「大丈夫、だ。ちょっと、息が、しんどくなった、だけ、だ。取り、乱すな」

「でもよ……」

「頼むよ、刀哉」


 脂汗の滲んだ額のまま、ぎこちなく笑みを浮かべる八咲。

 試合場に向かう足を返し、八咲の元に行こうとしたら、


「剣誠ぇッ」


 刀哉が立ち上がって僕の方へ大股で近付いた。勢いのまま僕の胸倉を掴み、僕の面に頭突きをかます。視界が揺れた。面のおかげでダメージはない。むしろ刀哉の方が痛いはずだ。だけど、刀哉は赤くなった額を擦ろうともせず、


「ぜってぇ勝てよ」と僕の魂に喝を叩き込んだ。


 それだけを告げ、刀哉は掴んでいた胸倉から手を離し、八咲の元へ戻っていった。


「ああ──見てろ。ぜってぇ勝つから」


 気合い、入った。

 理屈じゃない。

 理由もない。


 でも確かに魂が奮えた。


 目の前の障害を打ち破れと囃し立てる。逆らうことなんかしない。全細胞に漲るこの激情を、ただ相手へぶつければいい。僕の足元にある白線から内側は、ただそのことのみを求める──、


「部長、よろしくお願いします」

「達桐、逃げねぇ度胸だけは褒めてやる」


 ──戦場だ。


 一歩入って礼。三歩進んで抜刀。蹲踞。静寂が木霊して一秒。主審の呼吸だけが聞こえた。試合場の周りでは、先輩たちが僕を見ている。


 負けろ、調子に乗るな、何もできないくせに──そんな呪詛が聞こえてくる気がする。


 遮断するように目を閉じる。意識を己に向け、精神を統一する。ここは白線で囲われた世界。剣と魂が交錯する戦場。段位も肩書も実績も、この戦場では自分を守ってくれない。恐怖に打ち克ち、相手を打倒するのは、いつだって自分と己の剣だけ。


 行くぞ。僕を縛る鎖を引き千切れ。刀哉と八咲が託してくれた想いを無駄にするな。

 全身全霊を懸けて、この逆境を打ち破れ。


 審判の合図と同時に目を開ける。視界に部長の竹刀が映り──、


「ぐっ……」


 悲鳴を上げる心臓。加速する血流。蘇るトラウマ。全身から力が抜けていく。

 絶対に負けられない戦いであるが故の重圧と、まだ魂を縛っている泥の手が、僕の全身を容赦なく蝕んでくる。世界が曖昧になる。膝が笑って、天と地が逆さまになって、


「達桐ッ!」


 凛、と響き渡る八咲の声。僕の歪んだ視界を一喝し、透き通った波紋で世界を糾した。

 一瞬で意識が冴え渡る。脳と眼球に直接炭酸水を注ぎ込まれたかのような感覚。


 僕がこの戦場に存在している意味を思い出す。

 そうだ。僕はどうしてここにいるのか。竹刀を握りしめて、防具を身に纏って、どうして部長と相対しているのか。八咲の夢のため。僕の存在証明のため。


 ここで折れたら、ここで負けたら、全てが水の泡だ。僕の努力も、八咲の夢も、全てが。


 それだけはダメだ。じゃあどうすればいい。答えは一つだろうが。

 振り絞れ。魂を燃やせ。ここで踏ん張らなくてどこで踏ん張るというのか。

 いつまでも八咲に、臆病者と馬鹿にされっぱなしでたまるかよ!


「あぁあああああッ!」


 跳びかかろうと全身に力を籠める部長に、真っ向から立ち向かう。状況で言えば、刀哉との忌まわしき一件と似た構図だ。

 それでも、僕は前に進む。呪ってくる刀哉の幻を斬り破り、部長と相面勝負に挑む。


 部長が驚愕に目を見開いた。それも一瞬。自動車の正面衝突したような音が響いた。

 互いに打突を潰し合っているため、有効とはならない。それでも気持ちだけは自分が勝ったと主張するように面金をぶつけ合った。


 先輩たちのザワついた空気が防具をすり抜けて伝わってくる。


「剣誠、アイツ」

「ふん、良い打突を放つじゃないか」


 全身が心臓になったんじゃないかってくらい、激しい鼓動が迸る。この体の奥底に宿る魂が天上にまで届くほどの熱を上げて燃え盛っているのを感じる。


 これが完全なトラウマの克服となったかは分からない。

 でも、分からないままでいい。


 今この瞬間だけ己を超克することができているのであれば、他には何もいらない。

僕だけじゃない。八咲の『夢』も背負ってるから。


「達桐、おまえ」


 憎たらしげに五代部長が睨んでくる。よもや互角の太刀を振るわれるとは微塵も思っていなかったのだろう。いつもの穏やかな貌じゃない。


「すいません、部長」


 僕のために、いや、僕たちの『夢』のために。




「──ぶっ倒します」




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