十三本目:乙女の秘密を暴こうとするなよ、この助兵衛め

 ──三回。昨日、僕が道場で吐いた回数だ。まともな稽古なんかできなかった。


 あまりの救いのなさにがっくりくる。いや、最初から分かってたんだけど。それにしてもここまで酷いと克服なんか夢のまた夢ではないか。


「はぁ……」


 すっかり現実の厳しさに打ちのめされてしまった僕は、道場の倉庫の中で部の備品を整理している。埃の舞う汗臭い倉庫の奥に手を伸ばし、息を止めながら古ぼけた道具を引っ張り出す。カビの生えた胴だ。紐を握っていたらいきなり千切れて、僕の爪先に落下した。


 痛い。反射的に跳びはねてしまう。竹刀の元となる竹の入ったドラム缶にぶつかった。耳を塞ぎたくなるような音が部活棟に響く。

 ああ、やらかしてしまった。床を滑る竹を無力に眺めていると、


「……何をしている。私が保健室に行っている間に」


 八咲がいた。一本の竹を片足で踏みながらイラついたように僕を見下ろしていた。


「保健室? どこか体が悪いのか?」

「私のことはどうでもいい」


 ずい、と一歩。八咲が大きく近寄ってくる。


「なぜ稽古を抜けて倉庫の整理なんてやっているのだと聞いている。当番じゃないだろう」


 小さい体から滲み出る圧力に思わず仰け反ってしまう。


「あ、ああ……先輩から言われてさ。じゃあ掃除してろ、って……」

「そうか。その先輩は誰だ? 名を教え給え。斬り捨ててくれる」


 竹刀を腰に佩き、武士さながらの覇気を醸し出しながら踵を返す八咲。

 喉が干上がる気がした。何をする気だこのバカ。


「待て待て。いいんだよ、僕が道場にいたって迷惑かけるだけだ。この一週間で僕が何回倒れたと思ってるんだ。今日も倒れた。そんな僕が部活にいたって迷惑なだけだ。だから僕から先輩に言ったんだ。これ以上は迷惑がかかるから、何か雑用をさせてくださいって」


「……どうして君はそうやって自分を貶すんだ」


 肩を掴んだ瞬間、八咲は眉間に深い皺を刻みながら振り返った。


「──え」

「自分で自分を貶して、何になるというんだ。誰が得をするんだ。いいや、誰も得をしない。君もだ。君の言っていることは、誰も幸せにならない。毒なんだよ、君の言葉は。それを聞かされている周囲の気持ちを少しは考え給えよ」


 八咲は真剣で、必死だった。どこか珍しいものを見たような気がして、呆気にとられる。


「トラウマを克服する気はないのか」

「……ないよ」半ば、ヤケクソで吐き捨てた。「……どうしようもないんだよ、これは」


 一瞬、八咲が口を閉じた。


「昨日と今日で思い知ったよ。もう直しようがない。直し方が分からないんだから」

「達桐」

「第一、どうして刀哉も君も僕にこんな絡むのさ。放っておけばいいじゃないか。刀哉は……決着をつけるんだ、って息巻いてるから僕に剣を握らそうと躍起になっているんだろうが、君はそうじゃないだろう。ついこの前知り合ったばかりだ。僕に構う理由がない」


 僕がそう言い放つと、何故か八咲は一瞬だけ悲しそうな目をして、


「……やはりそう思うのも無理はないか……六年も前だしな……」

「え、どういうこと?」


 よく聞こえなかった。ほんの少しだけみせた悲しそうな表情の真意も兼ねてもう一度聞き直すが、八咲は一瞬でいつもの凛々しい表情に戻り、


「私には君のことを気に掛けるだけの理由がある」


 それは。いったい。自分の目に力が入るのを感じた。

 すると、どこか揶揄うような顔で八咲が笑い出し、


「ふ、女性にやたらとそんな視線を向けるもんじゃあない。体が熱くなるだろうが」

「なっ……だ、誰が」


 顔が熱い。絶対赤くなってる。クソ、やられた。


「おねだりしてるところ本当にすまないが、今は話せない。しかし──私は君の理解者であり、味方であり、君と刀哉に憧れる者だ。それだけは忘れないでくれ」


 憧れ? 耳を疑った。


「僕に、憧れる? 何をどう見たら、そんな感情が出てくるんだ?」

「今は話すべき時じゃない」


 なんだよそりゃ。


「事情は話せない、でも味方であると信じてくれって? 無茶苦茶だな……」

「はは。ごもっともだよ。しかしだね、ここで話したところで君はその話を信じるかな?」


 それは、そう。気持ち悪くてとてもじゃないが信じられないだろう。

 八咲は暴君だ。誰も手綱を握ることができない暴れ馬だ。


 何が何でも自分の思う通りに物事を進めようとする。そして、障害が立ちはだかったら舌と剣を用いて力づくで打ち破る。たとえそれが先輩であろうが、ひょっとしたら、先生でさえ関係ないのだろう。そんな存在を暴君と言わずなんと言う。


「信じ、られないな……」

「今はそれでいい」


 ただ、と八咲が足元の竹を拾ってくれた。


「私は本心で、君にまた剣を振ってほしいと思っている」


 ──それだけは、信じてくれないか。

 八咲はそう言って、僕に竹を渡した。竹刀として完成していない、未熟な竹を。


 その手は、やはりこの前見た時と同じように傷だらけで。

 初めて会った時に言われた言葉を、分け与えてくれた心を思い出した。


「一人が難しいなら、私がいる。刀哉がいる。君の復活を待ち望んでいる人間は少なくともこの世に二人もいるんだ。君は一人じゃない。だから──頑張ってはみないか」


 ……どうして八咲が僕にこだわるのか、その理由は結局分からずじまいだ。

 でも、刀哉だけじゃない。八咲も、僕がまた剣を振ることを願っている。先生は無理することはない、と剣から離れることを認めてくれたのに、どうしてこの二人は。


 分からない。分からない、けれど。先生が僕を慈しんでくれたように、刀哉が僕を望んでくれたように、八咲も僕のことを想ってくれていると、そこだけは、信じてみようと思った。


「ありがとう、八咲」


 まだ、トラウマを克服するなんて大きな声では言えないけれど。


「君は……いったい、何者なんだ? どうして僕なんかに構うんだ?」


 八咲の目を見て、問いかける。謎が多すぎるこの少女を見つめ、


「僕たちは──以前に会ったことがあるのか?」


 僕が忘れているだけで。

 初めて会った時に、仄かに感じていた懐かしさ。手を重ねられた時に、一瞬だけ頭が思い出そうとした映像。結局それが何なのかは分からないまま──。


 八咲は微かに瞳孔を開いたが、それもほんの瞬きの間だけだった。


「さぁ? どうだろうね。乙女の秘密を暴こうとするなよ、この助兵衛め」


 飄々としながら、されどミステリアスに八咲は微笑む。まるで幻のように、掴もうとしては隠される素顔。気になることが多すぎるけど、今のままじゃあ、トラウマを克服しないままじゃあ、教えてくれそうにはなかった。


「分かったよ、こんちくしょう」


 昨日と今日と、現実を突き付けられて気落ちしていたけれど。


「吐いたら介抱してくれよ」

「任せ給え。君を剣道部に引き入れたのは私だ。その責任は取ろうじゃないか」


 八咲が笑った。小さく、可憐に、桜が咲くように。

 その笑顔に見惚れてしまったことは、なんか悔しいから言わないでおこう。



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