虹の欠片

統子

第1話

 ――光の欠片が、世界からこぼれ落ちていた。


 森の奥深く、朝霧の揺れる川辺に、二つの影が並んでいた。

 水面には夜の残滓のような冷たい青が沈み、空はまだ白く目覚めきらない。


 ひとりは金の髪を持つ青年、カミール・セレス。

 柔らかな髪は朝日を受けて薄く透け、緑の瞳は新緑の木々を映したように深い。

 彼の周囲には、森そのものが呼吸しているような静かな気配が漂っていた。


 もうひとりは黒髪の青年、リュタリオン・ヴェルネス。

 黒曜石のように濡れた黒い瞳は揺るぎなく、どこか遠くの出来事まで見通すように冷静だ。

 けれどカミールへ目を向けると、その鋭さはすぐに和らぐ。


 二人は幼いころからずっと一緒だった。

 家も、暮らしも、季節も同じ数だけを過ごし、互いの息遣いがわかるほど近くにいた。


 カミールとリュタリオンが横に並ぶと、まず目に入るのははっきりした身長差だった。


 リュタリオンのほうが十センチ高い。

 その差は“ちょっと高い”なんて曖昧なものではなく、並んだ瞬間に視線の高さがくっきり分かれるほどだ。


 リュタリオンの影がカミールの頭に落ちることもあり、外から見れば自然と“守る側と守られる側”の構図が生まれる。


 体つきも対照的だった。


 リュタリオンは肩幅が広く、胸板から腰までのラインがまっすぐ落ちる。

 筋肉の質が硬く、纏う空気も鋭い。

 戦うために削ぎ落とされた身体という印象を与える。


 一方カミールは、同じく鍛えているにもかかわらず、筋肉のつき方がしなやかで、

 肩幅や腕の太さもリュタリオンよりわずかに控えめだった。

 全体の線がやわらかくまとまり、近くに立つだけで周囲の空気が落ち着く。


 村の者から見れば、カミールとリュタリオンが“鍛えている”という意識はなかった。


 二人が大きく育ったのは、特別な理由でも、戦うためでもない。

 ただ、この村で暮らしていれば、自然とそうなるだけだった。


 山の斜面に建つ家々は、どこへ行くにも坂を越えねばならず、

 川へ出るにも畑へ向かうにも、若者たちは毎日、重い荷を背負って歩く。

 水を汲みに行くだけでも往復でひと汗かくほどである。


 薪割りや伐採は男手の仕事で、村に生える木は硬く、根が深い。

 一度斧を振るえば、腕も肩も悲鳴を上げる。


 家畜の世話、畑の土を起こす作業、季節によっては山へ薬草を採りにも行く。


 ――ここで暮らす者にとって、体を使うのは“鍛えるため”ではなく“生きるため”だった。


 カミールもリュタリオンも、幼いころからその生活に混ざっていた。

 特別に筋肉をつけようと思ったことなど、おそらく一度もない。


 ただ毎日、昨日と同じ仕事を繰り返し、同じ道を歩き、同じように身体を酷使しているうちに――

 気づけば、村でも目立つほど逞しくなっていた。


 「あの二人は、よく働くからなぁ」

 年寄りたちは、そうやって笑っていた。


 本当に、それだけのことだった。

 二人にとっては、ごく当たり前の生活。

 鍛えるつもりも、目指すものもなく、ただ日々の暮らしを積み重ねていっただけである。


 ――この村の若者なら、誰だってそうなる。


 まして、あの二人ほど毎日一緒に身体を動かしていれば、強くならないはずがない。


 歩くときの差も分かりやすい。


 リュタリオンは歩幅が大きく、立っているだけで重心が前に出る。

 カミールは同じ速度で歩くのに、歩幅がわずかに狭く、足音が静かだった。


 二人が並んだ姿は、“大きな影と、その隣に寄り添う光”のようだった。


 川へ向かったのは、昨日のうちに仕掛けておいた魚籠を見に行くためだった。


 けれど、それは“特別な用事”ではない。

 この村では、朝に川へ行くのはただの習慣で、季節の移り変わりと同じくらい当たり前のことだった。


 毎朝、誰かが川へ向かい、誰かが畑に行き、誰かが薪を割り、

 誰もが“今日もそうするはずだったこと”を静かに続けていく。


 カミールとリュタリオンもその一部だった。


 カミールは村の朝餉に使う魚を確かめるため。

 リュタリオンは、「まあ、お前が行くならついでだ」と言いながら、結局必ずついて行く。


 本当のところ、見張りの意味も、危険の意識もない。

 二人とも、ただ昨日と同じ朝を迎え、昨日と同じ川へ歩くだけだった。


 村はいつも通りに静かで、朝霧と土の匂いに包まれ、遠くから鶏の声がかすかに響いてくる。


 二人はそれを“特別だ”と思ったことがなかった。


 ――生まれたときからずっと、こうやって暮らしてきた。


 なにも変わらず、なにを望むわけでもなく、今日も昨日と同じ朝を迎えるだけの生活。

 だがどちらもまだ気づいていない。

 その距離は、ただの幼馴染が許される範囲を、そろそろ越え始めているのだと。


 川底が揺れたのは、そのときだった。


 静寂にひび割れが走り、水面が泡立つ。

 黒い影――水魔獣が、牙を覗かせて飛び出した。


 リュタリオンが咄嗟にカミールを背へかばった。

 その動きは迷いなく、身体より先に心が動いたように自然だった。


 「下がってろ、カミール」


 短く落ちた声。

 それだけでカミールの胸は熱くなる。

 だが返事をするより早く、魔獣の爪が青白い軌跡を描いた。


 水が裂け、土がえぐれ、リュタリオンの肩から鮮やかな赤が散った。


 「リュタ――!」


 呼びかけは震え、空気が揺らいだ。

 視界が大きく開いたように広がり、胸の奥をひどく熱いものが駆け抜ける。


 次の瞬間――

 光が、天へ向けて吹き上がった。


 緑の光。

 本来、この世界には“もう存在しない”はずの光。


 その光に照らされて、リュタリオンの血は止まり、傷口はみるみる閉じていく。


 カミールの手が震えていた。


(……なんで、こんな……)


 自分が何をしたのか、理解していない。

 けれど胸には、ただひとつの事実だけが焼き付いていた。


 ――リュタがいなくなるなんて、考えられない。


 その想いが呼び起こした光は、森を越え、空を越え、遠く離れた中央神殿の塔まで届いた。


 高い塔の上で、ひとりの男が目を細める。


 「……緑の光、か。

  “滅びの兆し”が、ついに目を覚ましたな」


 光を受けて歪む塔の影の奥で、人の形をした“何か”が、低く嗤った。

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