第6話 ハッピーバースデー
「真珠、改めてだけど誕生日おめでとう」
中ジョッキを突き合わせて、お互いに一口ずつ呑んでから、駿はあっけらかんと口にした。数秒前にも言った言葉の復唱に、私は頬を緩める。テーブルからじわじわと炭火の熱が昇ってきて、店内には肉の焼けるいい匂いが漂う。土曜の夕食時とあって、どのテーブルからも賑やかな声が聞こえてくる。
駿が予約したのは焼肉チェーンだった。それは私の要望だったり、駿の懐事情だったりしたけれど、誕生日だからと言って変に気取らない態度が、私には好ましかった。
「うん、ありがと。今年の誕生日も、またこうして駿と迎えられて嬉しいよ」
私が本心を口にすると、駿は照れくさそうにはにかむ。口元にかすかに寄る皺が愛おしい。
「今年で二四だよな。どうだよ、二四歳を迎えて今後一年の抱負は」
「ちょっと、年あんま大きな声で言わないでよ」
「そうだな。悪かった。でもさ、二四って大事な年なわけじゃんか。来年には四捨五入したら三〇代になるわけだ
し」
「うわー、嫌な現実ー」
「ごめんごめん。でもさ、だからこそ、この一年どうしたいっていうのはあるわけじゃん。なんか目標とかないのかよ」
「うーん、目標か。あまり考えたことなかったなぁ。でも、まあまずは身体を崩さずに、一年過ごせればいいかなぁ。仕事にもなんとか食らいついていきたい。あとはまた趣味で漫画を描けるぐらいの余裕があれば、言うことなしだね」
「堅実だな」
「いや、堅実にやるのが一番大変なんだから。駿だってそれは分かってるでしょ?」
「そうだな。一歩一歩着実にやってくのが一番難しいよな。まあとりあえず、これから一年また頑張ろうぜ。俺もお
前も」
そう確かめるように言った駿に、私も頷いた。
二四歳をどうにか乗り切って、また来年の誕生日を駿と過ごせたらいい。私はそれ以上を望まなかったし、欲を出したらバチが当たりそうな気がした。
駿に続いてビールをまた口に運ぶと、店員が注文したチョレギサラダとタン塩を持ってやってくる。肉を焼くのもサラダを取り分けるのも、今日は駿が進んで引き受けていて、何もしないでいいのは楽だったが、それでも私はどこか手持ち無沙汰な思いを抱いてしまう。
でも焼き目がついていい匂いがしているタン塩を見ているのは、子供のようにワクワクしたし、レモン汁をかけて口に運ぶと、凝縮された肉の旨味がした。掛け値なしに美味しく、私はまた中ジョッキを傾ける。駿が微笑みながらピッチが速くないかと心配してきたけれど、私はお酒は普段呑まないだけで特別弱くはないから、笑って返した。
私たちは気兼ねなく会話をしながら、焼肉を楽しんだ。カルビ、ロース、ハラミ、ピートロ。どのお肉も美味しくて、私たちの気分を盛り上げる。二杯目からはアルコール度数の低いサワーが中心となったものの、お酒も進んでいく。駿のバイト先での体験談や、こんな動画があるといった話は私にとっても面白かった。美味しいご飯を食べて、好きな人と一緒にいる。たとえ形に残るプレゼントはなくても、これ以上は望めないだろう。
私は二三歳の一年を頑張ったご褒美を、心ゆくまで堪能していた。
「どうする? 肉、まだ頼む?」
私たちがテーブルに着いて、一時間ほどが経った頃。メニューを見ながら駿がふと訊いてくる。テーブルの上にはいくつかの空いた皿。網は少し黒く焦げついている。
「いや、いいよ。もうお腹いっぱい。これ以上はちょっときついかも」
「そっか。じゃあ、肉はこれで終わりにして、もうデザート頼んでいいか?」
「何、デザートあんの?」
「ああ、誕生日サービスでバースデープレートってのがあってな。それ予約してあるから」
「そういうのって、大体内緒にしとくもんじゃない?」
「あっ、そっか」
とぼけたような声を出す駿に、私は頬を緩めた。アルコールも大分回って、気分がいい。店員を呼んだ駿が、「デザートお願いします」と言う。返事をした店員が空いた皿を回収して、厨房に戻っていく。ずいぶん広くなったように見えるテーブルに、私は視線を落とす。
それを見計らっていたかのように、駿が口を開いた。
「あのさ、一個話してもいいか?」
改まったような駿の態度に、私も視線を上げる。アルコールに緩められていた駿の目は、それでも真剣な眼差しになるように努力していた。私が相槌を打つと、駿は一つ息を呑む。
「よかったらさ、俺たち一緒に住まねぇ?」
駿の言葉は私が抱いていたいくつかの予想を軽々と飛び越え、私の脳を揺らした。意味は分かっているのに、突然の展開に心がついていかない。アルコールも、一気に吹き飛ぶほどだ。恋人と一緒に住み始めるタイミングは人それぞれで、そこに速いも遅いもない。でも、何の前触れもなく言われたから、心の準備はまったくできていなかった。
「何、いきなり。冗談だよね?」
「いや、冗談じゃねぇ。俺はマジで言ってるから」
「とか言って、お酒が入って気が大きくなってるだけなんじゃないの? 今までそんな素振り全然見せてなかったし」
「いや、前々からお前と一緒に住みたいなとは思ってたよ。なかなか踏ん切りがつかなかったけど、言うならこのタイミングしかないと思って」
「……本当にマジなの?」
駿はしっかりと私の目を見て、頷いていた。先ほどまでのどこかへらついた笑みはどこにもない。ごまかすことすらしていないその姿に、私は本気だと悟る。
どうしよう。一緒に住むことを意識しなかったとは言わないけれど、それはまだ先のことだと思っていた。私の仕事が落ち着いて、駿のチャンネルもある程度軌道に乗ってからの話だと思っていた。でも、好きな人と一緒にいたい思いに、時期はまったく関係ない。むしろもっと早く切り出したかった。そんな思いを、駿の表情から私は察しとる。
「えーと、なんだろ。もちろん嬉しいことは嬉しいよ。駿がそこまでの気持ちを向けてくれていることが、私には嬉しい。でも、本当にいきなりだったから、まずびっくりしたというか。それが率直な感想かな」
「そっか。やっぱいきなりすぎたか。もっと電話とかラインでも一緒に暮らしたいことを、それとなく醸し出してた方がよかったよな」
「いや、別にいいよ。そこまで考えなくて。むしろそうされてたら、じれったいとか思っちゃったかもしれないし。それにこのタイミングで言う判断は、何も間違ってないと思うから」
遠回りをするかのように言葉を並べる私を、駿は相変わらずじっと見続けている。早く返事を知りたいと言うかのように。私は一つ意識的に呼吸をした。頭はまだ明確な思考回路を保っている。私は酔った勢いではなく、はっきりと自分の意志を持って口にした。
「そうだね。私も駿と一緒に住みたいと思う。今は人が一人抜けた影響もあって、仕事がバタバタしてるから、今すぐにってわけじゃないけれど、いずれ仕事が落ち着いてきたら、同居ていうか同棲? 前向きに考えるよ」
「同棲」という言葉を改めて口にして、頬が赤らんでいるのが自分でも分かった。今まで経験したことのない言葉の響きに、体温さえ上がっていきそうだ。それでも、私は今言った言葉を取り消さなかった。駿と一緒に暮らしているところは、容易に想像できた。
「マジか。ありがとう。俺も家賃とか生活費を少なくとも半分は出せるように、今以上に頑張るから。だから、いつか絶対二人で暮らし始めような」
「うん。そう遠くないうちにね」
私が付け加えると、駿は安堵したかのように表情を綻ばせた。その子供みたいな笑みに、私も顔を緩める。私たちは、同じ未来への第一歩を踏み出そうとしていた。
清々しい雰囲気がテーブルに流れる中、店員が誕生日のプレートを持ってやってくる。テーブルの上に置かれたそれは、シュークリームと二種類のアイスが並び、周りをクリームやラズベリー、クランベリーが彩っている。極めつけにチョコソースで「Happy Birthday」と書かれていて、私の胸は溢れんばかりの喜びに包まれる。スマートフォンで写真を撮ると、画面越しでもチョコソースがキラキラと光って見えた。
でも、私はかなり満腹に近かったので、いくらささやかな量でも全部は食べきれない。駿に「抹茶アイス食べていいよ」と言うと、駿は遠慮深げに、それでも目を輝かせる。抹茶味は駿の好物だ。誕生日プレートを食べ始める私たち。バニラアイスは優しい味わいで、この一年頑張った私を、温かく労っていた。
(続く)
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