一 春には桜

 うたたねさん、うたたねさん。

 春ですよ。のどかですね。


 それは、やわらかくあたたかなまどろみであった。ひらりはらりと薄紅色の桜の花弁が散って、ちょんとその花弁がひとつ、鼻先を挨拶でもするように掠めていった。

 川べりに、黄色の菜の花が揺れている。やわらかい土のにおいがしている。

 ちんとんしゃんとん、鈴のような音がした。

 春だよ。春ですよ。ほらほらみんな、冬眠から目覚める時間ですよ。そんなことを告げるように、鈴が鳴る。ちんとんしゃんとんと、何度も何度も。

 ゆらりと何かの尾が揺れた。きゃらきゃらと笑い声を立てて、膝小僧を見せた子供たちの草履ぞうりの足が、ただただ地面の砂を蹴り立てていく。


 ちんとんしゃんとん。

 ちんとんしゃんとん。


 春ですよ。春です。春ですね。

 冬眠から目を覚ましましょう。

 地面がぽこりと盛り上がって、何かが顔を出した。ぎょろりとした目が周囲を見回して、それから頭に土をつけたまま這い出して、くあ、と大きな欠伸あくびをひとつ。

 赤白の提灯を揺らして、子供が駆けていく。ひらひらと子供たちの顔を隠すのは、垂れた紙一枚。

 あれは何だっただろうか。そう、へのへのもへじ。

 顔の見えない子供たちが提灯を手に手に駆けていく。鈴の音を鳴らして、提灯を揺らして、春だと駆ける。

 ひらりはらりと桜が散った。

 春ですね。おはようございます。もう目を覚ます時間ですか。お寝坊さんは誰ですか。


 でもね。うたたねさん。

 きみはまだ眠っておいで。きみはお寝坊で良いんだよ。


 まどろみの声が聞こえる。春の日差しに似た声が、ふわりふわりと包み込む。

 柔らかな土の中から、みみずが顔を出していた。もぐらも顔を出していた。土の中から飛び出して、またもぐって、土の竜が柔らかな土を泳ぎ回る。

 春ですよ。春ですよ。

 桜が咲いて、散っていく。赤い蕾が膨らんで、薄紅色の花を咲かせて、そして、ひらりはらりと吹雪のように。


 ちんとんしゃんとん。

 ちんとんしゃんとん。


 玉砂利の上を子供たちが駆けていく。真っ赤な鳥居がいくつも並び、くぐってくぐってその先は。


 ちんとんしゃんとん。

 ちんとんしゃんとん。


 ちらりはらりと桜が散って、白い角隠しの上に花びらがひとつ。白無垢の上にも模様のように、薄紅色がいくつもいくつものっていた。

 春ですよ。お嫁様。春ですね。お嫁様。

 あれ、でもでも、おかしいな?

 桜の木の下で、花吹雪の中で、角隠しと白無垢の姿が佇んでいる。角隠しでも隠し切れなかったものがひょこりと揺れて、その足元を土の竜が駆け抜けた。

 白無垢の裾が薄汚れて、それでも角隠しの下の顔は何も見えない。

 鳥居の果てで、白が待つ。真っ赤な鳥居の向こう、駆け抜けた子供たちが集まって、白の周りで提灯を揺らした。

 風に揺れたのは、へのへのもへじ。

 かつて誰かは言いました。春に桜というものがなかったならば、人の心は穏やかだったのでしょう、と。けれど桜が散るからこそ、人はいっそう桜を素晴らしく思うのだと、他の誰かは返したものです。

 この世に不変のものなどないと、ひらりはらりと散る桜が突き付ける。咲いて、散って、いつまでも同じままではいられない。

 子供たちが駆けていく。子供たちとて、いつかはおとなになっていく。時間の流れは止まらない。

 知りたくないこととて、知らねばならぬ。けれどそれを角隠しの下で、見ないふりをして。それもまた一つの選択なのだろう。

 お嫁様、お嫁様。


 ちんとんしゃんとん。

 ちんとんしゃんとん。


 ねえお嫁様、いつまでそこに立っているんです?

 白無垢の上に桜が降り積もる。積もって積もって、埋もれてしまうまで。何もなくなってしまうまで。


 うたたねさん、うたたねさん。

 お嫁様は桜の木の下で、そのまま朽ちてしまうのかな。

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