第2話
小学校というのは、前世の記憶と照らし合わせても、一種の「牢獄」だと思う。
コンクリートの壁に囲まれ、チャイムという名の号令で管理され、規格化された集団行動を強制される場所。
それが僕――六式 虚(ろくしき うつろ)が通うことになった、公立小学校の偽らざる感想だった。
「はい、それじゃあ次は『あ』の字を練習しましょうねー。みんないいですかー?」
担任の若い女性教師が、黒板に大きな『あ』の字を書く。
教室には三十人の子供たち。
彼らは鉛筆を握りしめ、拙い手つきでノートに向かっている。鼻水を垂らしている奴もいれば、消しゴムをちぎって投げている奴もいる。
(……虚無だ)
僕は頬杖をつき、窓の外を流れる雲を眺めていた。
中身が三十代の元社畜、かつ現役の国家公認能力者(エージェント)である僕にとって、この時間は拷問に近い。
ひらがな? 足し算?
そんなものは前世で終わらせた。今の僕の脳内メモリは、昨晩コピーした『妖魔の酸生成プロセス』の最適化と、八咫烏(ヤタガラス)から支給されたタブレット端末のセキュリティ突破(ハッキング)手順のシミュレーションで忙しいのだ。
「六式くん? 書いてますかー?」
先生が僕の机を覗き込む。
僕は無言でノートを見せる。そこには、教科書体と寸分違わぬ完璧なバランスの『あ』が並んでいる。ついでに暇だったので、行書体と草書体の『あ』も書いておいた。
「えっ……す、すごいわね六式くん! とっても上手!」
先生が目を丸くして褒める。
周囲の子供たちが、「すげー」「うつろくんあたまいいー」と純粋な称賛を送ってくる。
だが、僕の心は凪(なぎ)のように静かだ。
アリの集団の中で、「君は大きな砂糖を運べてすごいね」と褒められているようなものだ。嬉しいわけがない。
友達? いるわけがない。
休み時間、校庭でドッジボールをしている彼らを、僕は教室の窓から眺めるだけだ。
彼らが投げ合うボールは、僕にはスローモーションに見える。
もし僕が混ざれば、手加減したつもりでもボールは音速を超え、受け止めた友達の腕ごと肋骨を粉砕してしまうだろう。
レベルが違いすぎるのだ。
象はアリの群れとは遊べない。踏み潰してしまうから。
「さようならー!」
「せんせーさよならー!」
ようやく下校のチャイムが鳴った。
僕にとっては仮釈放の合図だ。
ランドセルを背負い校門を出る。
そこには既に、漆黒の高級セダンがエンジンをかけずに待機していた。
「お迎えに上がりました、虚様」
黒服の運転手が、恭しく後部ドアを開ける。
周囲の保護者たちが、「あらまたあのお家……」「六式さんのところよね、やっぱり普通じゃないわね」とヒソヒソ噂しているのが聞こえるが、どうでもいい。
僕は革張りのシートに身を沈め、重いランドセルを放り出した。
ネクタイを緩め、ようやく息をつく。
「出して。いつもの場所へ」
「御意」
車が滑るように走り出す。
日常(たいくつ)は終わりだ。
これから向かうのは、僕のような「化け物」たちがその牙を研ぐための檻。
放課後の遊び場へ、レッツゴー。
*
都内某所。
寂れた雑居ビルの地下駐車場にある隠しエレベーターで、地下50メートルまで降りた先に、その空間はある。
八咫烏(ヤタガラス)・首都圏第三能力者待機所。
通称『鳥籠(バードケージ)』。
無機質なコンクリートと強化魔導樹脂で覆われた、東京ドーム二個分ほどの広大な地下空間。
そこには、漂うオゾンの臭いと、何かが焦げる臭い、そして濃密な闘気が充満している。
「――ッラァ!!」
ドォォォォォン!!
爆音と共に、訓練場の隅で炎の柱が上がる。
別の場所では、目にも止まらぬ速さで刀剣が打ち合う金属音が響き、中央のリングでは巨漢同士が肉弾戦で衝撃波を撒き散らしている。
ここには任務の待機中であるエージェントや、非番の能力者たちが集まっている。
下は僕のような6歳児(といっても僕以外に子供はほぼいないが)から、上は80歳の隠居老人まで。
彼らはここで酒を飲み、チェスをし、そして何より――『力』をぶつけ合うことで暇を潰している。
「おいーっす」
僕はアルマーニのスーツ(子供用)のポケットに手を突っ込み、気怠げに挨拶しながらフロアに入った。
その瞬間。
ざわ、と場の空気が変わる。
「……おい見ろ。あれだ」
「六式家の……『最高傑作』か」
「先週Tier 3の妖魔を瞬殺したって噂のガキだな」
畏怖、嫉妬、好奇心。
様々な視線が突き刺さるが、僕はそれを柳のように受け流す。
視線で人は殺せない。
もし殺せる奴がいたら、その能力(スキル)をコピーするだけだ。
僕はラウンジのソファにドカッと座り、無料のドリンクバーでメロンソーダを注いだ。
炭酸の刺激が喉を潤す。
さて、今日はどう遊ぼうか。
昨日の任務でコピーした『強酸』のテストもしたいが、あれは設備を溶かすから怒られるんだよな。
「誰か模擬戦しようぜー?」
僕はストローを噛みながら、声を張り上げた。
子供特有の甲高い声。だがそこには、明確な挑発が含まれている。
「暇で死にそうなんだよ。僕の遊び相手になってくれる親切な『先輩』はいないわけ?」
シーンと場が静まる。
大人たちが顔を見合わせる。
僕の能力『万象模倣(オール・ミミック)』の情報は、ここに来るような連中なら知っている。
戦えば戦うほど、自分の手の内を盗まれ、逆に利用される。
僕と戦うことは、自分のコピーロボットと戦うよりもタチが悪いことを、彼らは理解しているのだ。
「……ケッ。生意気なガキだ。おむつは取れたのかよ」
「コピー能力なんざ、借り物の虎の威だろ」
陰口は聞こえるが、誰も名乗り出ない。
あーあ、つまんない。
やっぱりここも、レベルの低いモブばかりか。
「ワシと遊ぶか? 坊主」
その時、野太く錆びた鉄のような声がかかった。
人垣が割れる。
現れたのは小柄な老人だった。
白髪の頭に丸いサングラス。作務衣のような服を着て、手には杖……ではなく、ジャラジャラと音を立てる「鉄球」を二つ、手遊びのように回している。
「……誰?」
僕が首を傾げると、周囲の職員が青ざめた顔で耳打ちしてきた。
「虚様、あれは『鉄塊(てっかい)の厳造(げんぞう)』さんです! 元Tier 2、引退済みですが、歴戦の猛者ですよ……!」
厳造。80歳。
なるほど、枯れ木に見えてその実、中身は鋼鉄よりも硬そうだ。
彼が纏うオーラ(魔力)は、派手さはないが密度が違う。
長い年月をかけて練り上げられた、職人のそれだ。
「おいじーさん。やめとけよ」
僕はメロンソーダを置き、ニヤリと笑った。
「そっちは引退した身だろ? 怪我したら骨がくっつかないぜ? こっちは六式家の最高傑作、おまけに能力コピー持ちだ。悪いこと言わないから、ゲートボールでもしてた方がいいんじゃない?」
僕の煽りに、爺さんはサングラスの奥の目を細めた。
「ほほう……そそられるじゃないか。最近の若いのは、口だけは達者のようじゃな」
「実力もセットだよ」
「ならば証明してみせよ。……戦うか、坊主」
ジャラッ。
爺さんの手の中で、二つの鉄球が火花を散らす。
その瞬間、フロアの重力が歪んだような錯覚を覚えた。
ただの鉄球じゃない。あれは彼の「領域」だ。
「いいぜ? ルールはどうする? どちらかが『参った』と言ったら終わりでいい?」
「構わんよ」
「じゃあハンデとして――」
僕は立ち上がり、指をパチンと鳴らした。
その瞬間、僕の「眼」が爺さんの能力を捉える。
(プロセス解析。対象:物質操作系・金属操作(フェロキネシス)。及び高密度の念動力。……インストール完了)
「この勝負、じーさんの能力(それ)だけで戦ってやるよ」
場がどよめく。
相手の土俵に上がり、相手の武器を使って勝つ。
これ以上の屈辱(ナメプ)はない。
「ほう? ワシの『念鉄(ねんてつ)』をコピーしたか。……後悔するなよ?」
「しないね。劣化コピーだと思って油断してると、痛い目見るよ」
「じゃあ審判よろしく!」
僕が近くの職員に声をかけると、彼は慌ててタブレットを操作し、訓練フィールドの結界強度を最大に設定した。
「り、両者構え!!」
僕と爺さん、距離は10メートル。
爺さんは懐からさらに四つの鉄球を取り出し、空中に放り投げた。
合計六つの鉄球が、まるで衛星のように彼の周囲を浮遊する。
「始めッ!!」
ゴウッ!!
開始の合図と同時、爺さんの鉄球が唸りを上げた。
速い。
肉体的な投擲じゃない。念動力による射出。
初速からトップスピードに乗った鉄の塊が、僕の顔面めがけて殺到する。
「っと!」
僕はコピーしたばかりの『念動力』を発動。
自分自身の体を、磁石の同極のように反発させ、横へスライド移動して回避する。
風圧が頬を切り裂く。
「逃げてばかりか? 坊主!」
爺さんが指を振るう。
通り過ぎた鉄球が物理法則を無視して鋭角にターンし、背後から襲ってくる。
さらに、残りの五つも包囲網を形成するように展開された。
(なるほど、精密動作性(コントロール)はTier 2ってとこか)
僕は思考を加速させる。
僕の『万象模倣』は完璧だ。出力(パワー)なら爺さんと同等か、若さの分だけ僕の方が上だ。
なら、力技で奪えるはず。
「もーらいッ!!」
僕は掌を広げ、爺さんが操作している六つの鉄球すべてに対し、僕の『念動力』を叩きつけた。
ハッキングだ。
爺さんの支配権を上書きし、鉄球の主導権(コントロール)を奪う!
――ガギィン!!
見えない火花が散った。
空中で鉄球がピタリと止まる。
僕の念と爺さんの念が衝突し、拮抗しているのだ。
「ぬうう……ッ!」
「へえ、やるじゃん爺さん!」
僕は脂汗を流す。
重い。
鉄球そのものの重さじゃない。そこに込められた爺さんの「意思」が、山のように重いのだ。
僕が力ずくで引っ張っても、鉄球は爺さんの支配領域から動こうとしない。
まるで長年連れ添った愛犬が、他人の命令を聞かないように。
(取れない……!?)
出力は僕の方が上のはずだ。なのに制御が奪えない。
これが「年季」か。
僕の能力は、術式(ソフトウェア)はコピーできても、それを使いこなすための経験値(熟練度)まではコピーしきれない。
爺さんの念は、六十年の歳月で磨き上げられ、鉄球と魂が一体化している。
今の僕の「即席コピー」では、六つ全てを奪うのは不可能だ。
「どうした坊主? 顔色が悪いぞ?」
爺さんがニヤリと笑う。
拮抗が崩れ始める。徐々に鉄球がジリジリと、僕の方へ押し込まれてくる。
このままじゃ、押し切られて潰される。
「身体能力強化で避けるか? ん? それとも降参か?」
爺さんの挑発。
ここで僕が、元々持っていた『身体強化』や他の能力を使って避ければ、勝負には勝てるかもしれない。
でもそれは「負け」だ。
僕は「爺さんの能力だけで勝つ」と言った。
主人公が一度吐いた唾を、飲み込めるかよ。
(全部取ろうとしても取れないのは理解した。……なら)
僕は思考を切り替える。
六つ全ての支配権争い(綱引き)をしているから、力が分散して負けているんだ。
だったら。
「じゃあ一点突破だな!」
僕はニッと笑った。
次の瞬間、僕は五つの鉄球への干渉を完全に放棄(捨てた)。
「なっ!?」
抵抗が消えた五つの鉄球が、殺意を持って僕に迫る。
だがそのコンマ一秒前。
僕の全魔力、全演算能力、全念動力を――たった一つの鉄球に注ぎ込んだ。
バヂヂヂヂッ!!
空気が爆ぜる音。
六分の一に分散していた力が一点に収束する。
いかに熟練の爺さんといえど、この瞬間的な「出力の暴力」には耐えられない。
「ぬぅっ!? 奪いおったか!?」
六つのうちの一つ。
その支配権(リンク)が、ブチリと引き千切られた。
僕は奪い取ったその鉄球を、即座に自分自身へと引き寄せるのではなく――爺さんに向かって射出した。
「お返ししまーす!!」
キィィィィィン!!
音が置き去りにされる。
僕が操作する鉄球は、爺さんの操る鉄球の三倍の速度が出ていた。
一点集中させた分、加速力が桁違いだ。
「むっ? この速度……一点突破と言ったか!? 速い!」
爺さんが目を見開く。
迫りくる五つの鉄球よりも、僕が放った一個の方が速い。
爺さんは慌てて、攻撃用の五つの鉄球を戻し、防御壁(ガード)を作ろうとする。
「甘いよ」
その鉄球は囮(ブラフ)だ。
爺さんが防御に意識を割いた一瞬。
僕は既に地面を蹴っていた。
『念動力』の応用。
自分自身の背中を、見えない巨大な手で押すように加速させる。
ロケットのような推進力を得て、僕は防御が手薄になった爺さんの懐へ潜り込んだ。
「しまった、陽動か!」
爺さんが気づいた時には、もう遅い。
眼前に6歳児の小さな拳がある。
僕は拳に、残った念動力をとぐろのように巻き付けた。
インパクトの瞬間、念を炸裂させる『念動打撃』。
「らぁッ!!」
ドゴォッ!!
鈍い音が響く。
小さな拳が、爺さんの鳩尾(みぞおち)に深々と突き刺さる。
「ぐふっ……!!」
爺さんの目が飛び出そうになる。
体ごとくの字に折れ曲がり、数メートル後方へ吹き飛んで尻餅をついた。
浮遊していた鉄球たちが、ガラガラと音を立てて地面に落ちる。
勝負ありだ。
静寂。
そして爆発的なざわめき。
「おい見たか?」
「鉄塊の爺さんから一本取りやがった」
「最後のアレ、なんだ?」
「審判どう?」
僕は拳を振り払いながら、審判役へ振り返る。
審判は呆然としていたが、ハッと我に返って手を挙げた。
「い、一本! 勝者、六式 虚!」
「やりー!」
僕はVサインを作って、倒れている爺さんに歩み寄る。
「爺さん、大丈夫か? 骨折れてない?」
「うぐ……うむ……」
爺さんは苦悶の表情で腹をさすりながら、なんとか体を起こした。
その口元には、痛みに歪みながらも微かな笑みが浮かんでいた。
「油断したわい……。ワシの念を奪うだけでなく囮に使い、あまつさえ己の推進力にするとはな……」
「真正面から綱引きしたら負けるからね。工夫させてもらったよ」
僕は手を差し伸べる。
爺さんはその小さな手を握り、立ち上がった。
「なるほど、天才じゃな。六式の最高傑作……伊達ではないわ」
「だろー?」
僕はニカッと笑った。子供らしい無邪気な笑顔で。
でも、目は笑っていない。
「僕、最強を目指してるからな! これくらいやってもらわないと困るよ」
そう。
爺さんの技術(テクニック)、一点集中の極意、そして『熟練度』という概念の重要性。
今の戦闘で全部、学習(コピー)させてもらった。
僕の『万象模倣』は、戦うたびに洗練されていく。
爺さんは良い教科書だった。
「さて、次は誰と遊ぼうかな?」
僕は周囲の大人たちを見回す。
さっきまでの「生意気なガキ」を見る目は消えていた。
そこにいるのは猛獣を見る目。
恐怖と警戒と、そして認めざるを得ない実力への敬意。
心地いい。
やっぱりモブに埋もれる学校より、こっちの方がずっと楽しいや。
僕はポケットに手を突っ込み、次の「餌」を探して歩き出した。
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