第11話 恋人枠の生活が甘過ぎる
朝、目が覚めると毎朝恋人が隣りにいる。
よくある恋愛ストーリーで、寝ているヒロインのまつ毛が長いとか頬が柔らかそうとかいう描写があって、そんなの物語の中だけだと思ってた。
ノアはあたしより早起きだ。何をするでもなくベッドにいて、あたしが目を開けると嬉しそうにキラキラ笑う。何が楽しいんだろうって不思議だった。
今日はあたしの方が先に目が覚めた。恋人の寝顔を見て思ったこと。
これは、あかん。
中毒性が高すぎる。
この前は顔が近いとかドキドキするとか、そんなことで頭がいっぱいだったけど、少しだけ耐性がついたみたい。
見惚れるって、こんな感じ?
愛おしさが込み上げてきて、全然目が離せない。それから、(まつ毛長い)とか(頬柔らかそう)とか本当にそればっかり浮かんでくる。
遮光カーテンから漏れる透明な光に照らされて、肌はいつもよりも白く儚げに見える。染めた茶色い髪が透き通って綺麗だった。
それから、やけに紅い唇が気になって、何度そらしても視線が向かう。
昨日も一昨日もその前も、好きだと言って押し付けられた唇を食い入るように見てしまう。
手を伸ばして、触れたくなって、また目を逸らすと、長いまつ毛に戻る。
一緒に暮らすようになって気づいた事。
ノアは意外と尽くすタイプらしい。
そりゃ、大学時代も家事は上手かったし、ご飯を作ってくれることも多かったけど、そうじゃなくて、精神的な話というか。あたしのことを気にかけてくれているのが所作で伝わって大事に思われているんだと感じる。
あたしは同じように返せてるのかな…
この生活が始まって、あたしは自分の小ささを実感することが増えた。
仕事して帰るとごはんができてる生活なんて、楽園でしかない。あたしの家事スキルでは到底太刀打ちできないから張り合う気もないけど、そういう所にゲンナリされないか不安だったりする。
それに…
思わずため息が漏れた。
それに、昨日も結局、できなかった。
原因はあたしだ。
引っ越した初日は「片付けで疲れた」から。
翌日の日曜は、「明日が仕事」だから。
月曜の夜は、「平日はちょっと」と言って制止してしまった。
別にしたくない訳じゃない。
語弊を恐れずいうなら、興味しかない。
好きな人に触れたいし、触れられたいし、そう思うのは自然なことでしょ?ひとつになって溶け合う気持ち良さをあたしだって知ってみたいと思ってる。
それなのに…
それなのに!!!
ノアにキスされて、ドキドキして期待するような気持ちの方が強いのに、何度も何度もキスを繰り返すうちにあたしの期待は不安に変わってしまう。
…あんなに色々なキスがあるなんて知らないもん。
ノアはキスが上手いんだと思う。
他の人とはしたことがないから比べようがないけど、唇を重ねると気持ちいい。
柔らかくて温かくて心地よくて、それだけで溶けてしまいそうになる。
ノアの舌が伸びてくると甘くて、痺れるような快感まで重なって、あたしの脳はすぐにキャパオーバーになってしまう。
だから、怖い。
こんなキスをする人はどんな経験をしてきたんだろうって思ってしまって、そんな考えが過ったら、不安でたまらなくなる。
あたしは経験値ゼロだから。
ノアの手は優しくて触れられると気持ちいいから好き。だから、同じように出来ない自分が嫌になる。
身体に伝わるノアの体温を全部知ってしまったら、もう戻れなくなりそうで怖くなってしまう。
手慣れたノアは、あたしなんて相手にして楽しいのかな…
もっと経験豊富な人の方が好きなんじゃないかな…
妄想の中で、ピンクの景色にノアが登場する。あたしの知らない、なんかいい感じのお店で済ましたノアがグラスを傾ける。
そこに、綺麗系やグラマラス系の色っぽい女が現れて、ノアの周りを埋めていく。グラスを合わせ、顔を近づけて、クスクス笑いながらカーテンの閉まった店の奥に消えていくノアとノアガールズたち。
ダメだ!!
未経験のあたしでは理解できないほど、濃厚な夜のイメージしか浮かばない!!
ううう……
経験値ゼロのあたしなんて、一回でも許したらつまんねー女って思われて、飽きられて捨てられるんだ…
なんてね。
半分くらい本気で思ってしまったくだらない妄想をシッシと手で払う。
はぁ。
あたしは未知の領域へ足を踏み込む勇気がない。そんな自分の小ささが嫌になる。
「ノリコ」
名前を呼ばれてハッとした。
目を開けたノアがあたしを見てキラキラと嬉しそうに笑う。そのくしゃっとした笑顔に心臓がドキッと律儀に跳ねる。
「おはよう」
「おはよう」
「もう起きる?」
「そうね、そろそろ起きて支度しなきゃよね」
「じゃあ1回だけ」
ノアの腕が首の下を無理矢理通り抜けて背中に回ると、ギューっと強く抱きめられた。さっき跳ねた心臓は踊るように早くなって、くっついた肌からノアの体温が流れ込んできて、顔が熱い。
空調の効いた部屋で、汗をかく。さっきまでタオルケットに潜っていても平気だったのに。
ドキドキして、仕事に行けない自分になりそうで「そろそろ支度するから」と言い訳をした。伝えるとスルリと腕が解けた。
自分で言ったくせに、離れていく体温が名残惜しくなってしまうからあたしはムクリと起き上がる。
「ノリコが準備する間に、コーヒー淹れておくね」
そう言って恋人も起き上がった。
身支度を整えてリビングに行くと、コーヒーと一緒にトーストが出てくる。
それからお昼の分だと言って、タンブラーとランチボックスに入れられたお弁当を渡された。昨日もそうだった。あたしが身支度をする30〜40分で、モーニングとお弁当だよ?
しかもコーヒーはハンドドリップなんだよ?
ノアって本当に手際が良い。
「ありがとう。でも大変でしょ?あたしに付き合って起きなくていいし、お昼も外食で済ませるから気にしなくていいよ」
「でも、せっかくなら一緒に食事したいし、お弁当は趣味みたいなもんだから。迷惑じゃなければ続けたいけど、ダメ?」
氷の入ったグラスが汗をかいている。
手を伸ばして冷たいグラスをつかむと、口をつけた。ほろ苦くて喉を落ちていった後にチョコレートのような甘い香りが広がって落ち着く。
トクトクと鼓動が聞こえて、もう一口ごくんと飲む。
冷たい塊が熱った身体に沁み込んで混ざる。
「ダメじゃない。…嬉しい」
素直に伝えれば、くしゃっと笑ってくれて、すごく好きだなと思った。
玄関に並ぶお揃いのキーケース。
グレーとベージュの色違い。
ベージュの方をバッグの内ポケットにしまうと、「行ってきます」と声をかけた。
玄関まで見送りにきてくれた恋人が「行ってらっしゃい」と言った。
しばらく見つめ合って、あたし達は触れるだけのキスをする。
パタンとドアが閉まって、一人きりの外廊下をもうすでに熱を帯びた夏の風が抜ける。
甘い。
甘すぎるよ。
恋人枠の生活が甘過ぎてあたしを蝕んでいく。
こんな生活していたら、世界に一人にされた時、生き残れそうにない。
浮かれてふわふわ飛んでいきそうな心を捕まえて、拘束すると、あたしは駅までの道を進む。
空はどこまでも青く晴れていて雲ひとつない。今日も暑くなりそう。
さ、仕事、仕事。
少し重いカバンが歩くたびに弾んだ。
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