恋人枠の距離が近すぎる

第2話 お揃いがいい

 "駅着いたけど、何か買って帰るものある?"


 ぎゅうぎゅう詰めのむさ苦しい電車から降りて、蒸し暑いホームで、ノアの家に向かう前に短いメッセージを送る。


 ブブッと携帯が震えて、すぐに返事が来た。予定より少し遅いから、待っていてくれたのかもしれない。


 悪いことしちゃった。


 おつかいは頼まれなかったけど、駅でドーナツを買って行こう。ノアは甘いものが好きだから。

 

 駅の下にあるテナントの1つ。全国チェーンのドーナツ屋さんに入り、4つ選んで会計をする。


 生クリームが挟まった白いやつと茶色い生地にチョコレートでコーティングされたやつを選んだ。ずっと前に一緒に来た時、食べていたような気がして、選んだ。あとの2つは、それと似たようなやつにした。


 喜んでくれるかな。


 くたびれたスーツ姿の人や制服の人たちと同じく、駅から住宅街を目指す。


 駅からノアの家までは繁華街を抜けて、さほど遠くない。

 

 1週間ぶりに会える。

 そう思うと仕事の疲れも吹き飛ぶ気がする。

 

 早くノアに会いたい。


 きっとドアを開ければ、くしゃっと笑って出迎えてくれるはずだから。あたしの大好きな、あの笑顔に会いたい。



 春が終わったら梅雨が挟まって夏になるはずなのに、今年の梅雨はストライキを起こしたらしい。梅雨らしい雨もろくに降らなくて、もう7月も半分過ぎたのに梅雨明け宣言はまだなくて、ワーカーホリックな太陽が休日返上で働くから夜になってもずっと暑い。


 太陽って損してる。


 北風がいないと太陽の優しさがちっとも伝わらない。そんなに仕事ばっかしてないで、プライベートも楽しめばいいのに。



 夜になっても暑苦しいけど、そんなの、今のあたしの敵じゃないのよ。だって、今から恋人の家に帰るんだから。



 実は、帰りが遅くなったのは理由がある。


 仕事の帰り道、デパートに寄っていた。


 あたしはキーケースを探している。キーホルダーじゃなくて、キーケース。来週からあたし達が新しく住む家の鍵を大切に包み込んでくれる物がほしい。


 自分だけの家なら、ぷらぷらとぶら下がるだけのキーホルダーでもいいと思う。


 ずっと前に買ったブランドタグのついたリングにつながれた鍵は、いつもバッグの内側のチャック付きポケットに入れる。かさばらないし、出し入れしやすくてちょうど良い。

 


 でも、今度の家は違う。


 あたし一人の家じゃない。


 人生で、初めて、恋人と暮らす家。


 恋人。


 ふふふ、恋人かぁ。


 響きだけで甘くて、あたしはずっと浮かれている。



 ノアとは大学で出会ったのに、社会人になってだいぶたった今頃になって、結ばれた。


 春の夜風が少し冷たい桜が散る夜。あの夜がずっと動かなかったあたし達の距離を変えた。


 振り返ると、出会った時から特別でずっと恋愛対象として好きだったんだと思う。


 ボブヘアがよく似合うクールで飄々としている女の子。




 女同士の好きって、あたしには難しい。


 好きだと言えば好きだと返ってくる。


 手を繋いで、抱き合って眠るくらいの関係は、友達の延長線上にあって、決してそれ以上には進まなかった。

 

 カテゴリー分けできない『好き』をはっきりさせたくて追いかけたこともあった。その度に何かを怖がるようにスルリと離れて距離をとるノアのことが、ずっと分からなかった。そのくせ、離れた分の距離を恨めしそうに見てた。


 あたしだって怖かった。


 大事な人だから、怖かった。


 関係がなくなるのが怖かった。


 友達の枠におさまった距離感が苦しくなって就職を言い訳に離れた。追いかけてこないだろうなって、なんとなく分かっていても選んだ。


 あたしは生きるのに理由が必要で、楽に生きるために普通の幸せが必要だった。漠然と刷り込まれてきた価値観は、独りになった途端、強迫観念のように迫ってきてあたしは仕事に没頭した。


 キャリアを築いて、結婚して、子どもを産んで、そうやって普通の幸せが手に入れば、あたしの人生はハッピーエンドで完結する。そう思っていたのに。


 神様がいるとしたら、とんでもなく天邪鬼な存在なんだと思う。


 人生に絶望して全部忘れて、全部無かったことにしたかったのに、そんな時期にノアが上京してきた。


 ありえないことが続いて、ノアは友達の枠から出た。あたしから距離をつめたら逃げて、離れると恨めしそうに眺めるだけだったノアが自分から追いかけて来た。


 そんなの、もう、無理だった。 

 だって、あたしは全部諦めて、楽に生きることを選んで、契約結婚までしちゃってたのに、今更追いかけてくるなんて。



 神様は天邪鬼だ。


 絶望の先がこんなハッピーエンドだなんて知らない。

 

 嬉しくて嬉しくて、そうして付き合って2週間。あたしは今、幸せの絶頂にいる。


 

 キーケースを探しているのは、ノアには内緒。引っ越しが終わったら、サプライズで渡したいと思っているから。


 恋人になってすぐ、あたしは彼女の家の鍵をもらった。


 びっくりするほど嬉しくて、嬉しくて嬉しくて驚いた。


 クリスマスの朝、プレゼントを見つけた子どもみたいな気持ち。子どもの頃にそんなワクワクがあったかどうかは覚えていない。昔、友達の枠にいたときに彼女がしてくれたのは忘れたことがない。嬉しくて、早く使ってみたくてワクワクした。


 2人で暮らす家の鍵も、きっと使うたびに嬉しい気持ちになるんだと思う。



 ただ、まだ決めかねている。

 あたしが使うなら少しくらい甘いデザインでもいいんだけど、せっかくならノアとお揃いにしたい。


 しかも、あたしの恋人は、家の鍵を財布の小銭入れにしまうような人間だ。


 『単体だと忘れるし、失くすから』って言ってだけど、ノアの家はいつも片付いていて無駄な物がない。だから、まだ自信がない。キーケース、渡しても使ってもらえるのかなぁ。



そんなことを考えていたら、あっという間にノアの家に着いた。





____





「ドーナツ、久しぶり。最後に食べたの何年も前かも」


「そうなの?もしかして、好きじゃなかった?」


「好きだよ。だから買って来てくれてすごく嬉しかった。一人だと、なかなか食べようと思わないから。お腹空いてればラーメン屋さんとか入っちゃうしさ」


 好きだって。

 ドーナツのことなのに、思わずニヤけてしまう。


 ノアの家に着いて、食事もシャワーも済ませた。あたしが持ってきたドーナツの箱と2人分の紅茶を持ってソファに腰掛けてからノアが物色するように箱を覗き込んでいる。子どもっぽい仕草も、かわいい。


 楽しそうに指が箱の上で弾んでから生クリームの挟まった白いふわふわの生地をつまむとパクリと食べた。


 あ、やっぱりそれ好きだったんだ。


 もぐもぐと動く口元に白砂糖がついて白くなる。

 

 あたしは紅茶をごくりと飲んだ。


 あたしの戸籍にバツがついて、正式に付き合って2週間。関係は友達から恋人に変化したけど、キスから先には進んでない。


 改めてみると、整った顔だなぁと思う。あたしよりずっと甘くて猫のようなクリクリとした目。今度の誕生日で30になるのに、年齢よりもグッと若く見える。茶色の肩まで伸びたボブヘアは程よい毛束を作って外に跳ねている。


 それから、粉砂糖のついた白い唇を見て思う。あたしはノアとするキスが好き。


 優しくて大切にされているのが伝わってきて、ジンワリ温かくなるから。隣に座って、何でもないことで笑いあっている時間と同じくらい好き。


 だから、気になっている。

 

 この先に進んだらどうなるんだろうって。

 

 

 見ているうちにパクパクとドーナツが口の中に消えていき、あっという間になくなった。もぐもぐと口が動いて、なんだか小動物みたいでかわいい。


「美味しい?」


「うん。ノリコは食べないの?」 


「食べるけど…」


 自分でもこんなベタな展開に驚くけど、考えるよりも先に身体が動いた。


 ノアの肩に手を置くと、口についた白砂糖をペロリと舐めた。


 あたしのじゃない。


 ノアの口についたやつ。


「ホントだ。美味しい」


 こんなにも大胆なことしておいてあれだけど、触れてみたくなっちゃったんだから仕方ないでしょ。今更ながら恥ずかしくなって、耳が熱い。


 ノアも驚いたみたいで目をパチパチしている。それから照れたように笑って「もう一回」と言った。


 ノアの笑顔にドキドキと心臓が動いて、全身に血液を送る。意識しちゃうと途端に緊張してきた。


 ノアの柔らかい唇がくっついて離れる。もう一回角度を変えて優しく下唇にくっついて、また離れて今度は上唇を挟むみたいにくっついた。


 さっきよりぎこちない動きで、同じようにしてノアの唇に触れる。こういうキスがあるってことを教えてくれたのはノアで、あたしはノア以外のキスを知らない。


 挟んだ唇を舌先でちょっと舐めた。

 甘い。

 

 応えるようにしてノアの舌が絡まる。唇よりもっと甘くて、きっと砂糖の甘さだけじゃない。頭の中がふわふわして、ちょっと息が苦しくなって息継ぎするように唇を離したら、両手でギュッと抱きしめられた。


「ノリコ、好きだよ」


「うん、あたしも好き」


 ノアの体温が離れて、代わりに冷えた部屋の空気が肌を撫で、身体の熱を冷ましていく。

 

 頭の中だけが部屋の外の空気と同じくらい湿度と温度の高い考えがぐるぐると巡る。


 前に押し倒されたのもこのソファだった。


 ノアは意識しないのかな?なんでそんなに余裕そうなの?

 

 あたしの心臓は頭の中に引っ越してきたみたいにドキドキとうるさい。


「ノリコはどれ食べる?」


 ノアは何でもないみたいな顔してドーナツの箱を覗き込んで次の獲物を物色している。


 あたしはきっと耳まで赤くなっていると思う。ドキドキは収まらなくて顔が熱い。


 はぁぁ。あたしにも経験があればこんな余裕にしていられたのかな?


 あたしもなんでもない振りをして箱をのぞく。


 さっきノアが食べたドーナツと似ているけれど、半分チョコレートでコーティングされたやつを選んで齧り付く。

 

 甘くて口の中に入れるとホロホロと消える。本当は根っからの辛党で甘いものよりお酒とつまみが好きだけど、たまに食べると美味しい。

 

 記憶にあるドーナツの味よりもっと美味しく感じて、もう一口齧ったら、ノアが目を細めてあたしを見ていた。心臓がまたドキッと跳ねる。


 なんだか嬉しそうにしていて、あたしも嬉しくなって微笑んだ。


 何その顔。


 可愛いすぎてずるい。

 

 恋人枠になってから、ノアは友達枠とは違う顔ばかりするから全然心臓がもたないよ。



「もう一つ、食べていい?」


「もちろん。てゆーか、残り2つとも食べていいよ。そのつもりで買ってきたから」


「そうなの?じゃあ、遠慮なく貰おうかな」


 茶色いチョコレートでコーティングされたドーナツが選ばれて、あたしは心の中で小さくガッツポーズをする。ノアの好みが当たって、キーケースもきっと気に入ってもらえそうな気がしてくる。


 来週までまだ時間はある。仕事も引っ越しの準備もあるからちょっと忙しいけど、なんとかなるはず。


 こっそりキーケースを買いに行く算段をつけてあたしは紅茶をゴクリと飲んだ。


 

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