第九章 黎明の中で愛を囁く

 ソフィーは膝を抱え、医務室のベッドの上で天井を見つめていた。窓の外ではブレスト城が燃えているはずなのに、その光を見る気になれなかった。胸の奥がざわつく。息を吸っても、うまく入ってこない。

「……やっぱり、弱いな……」

 声に出したのか、心の中だけだったのか、自分でもわからない。ただ、その言葉だけが確かに胸に残った。真実を追う勇気も、第三の道を探す覚悟も。結局は途中で手を離した。誰かのためと言い訳しながら、本当は――自分が傷つくのが怖かっただけ。思い出したくもない記憶が勝手に浮かんでくる。逃げた瞬間。黙り込んだまま、声を上げられなかった夜。後から後悔するしかなかった選択。それらが冷たい壁みたいに心を囲んでいく。

「……私が、予言の星なんて……」

 言葉は途中で消えた。言い切る気力すらなかった。ふと視線をずらすと窓の外に夜空が見える。紅い星と二つの蒼い主星。三つ星が描くトライアングルは、あまりにも整っていて冷たかった。希望の光なんかじゃない。そう思ってしまう。あれはただ、導く力も踏み出す勇気も持たない自分を、静かに映しているだけだ。悔しさと、哀しさと、どうしようもない虚しさ。戦場で命を賭けている人たちの顔が浮かび、胸が痛んだ。

 ――私は、ここで何をしているんだろう。

 膝を抱えたまま動けない。三つ星の光に照らされながら、自分の弱さから目を逸らせずにいた。

「……どうして……」

 言葉は続かなかった。代わりに聞こえるのは自分の心臓の音だけ。

 記憶がまた刺してくる。

 士官候補生だった頃。

 仲間の言葉に向き合えず、結果的に死なせてしまったあの日。

 マクシムに言い過ぎて、取り返しがつかなかった夜。

 助けようとして、怖くて手を伸ばせなかった瞬間。

 夜空の三つ星が、それらを黙って照らしている気がした。

 責めるでもなく、慰めるでもなく。

 ただ、逃げ場を塞ぐように。

「……私には……何も、なかった……」

 かつて希望だと思った光は、今ではただの鏡だ。

 無力な自分をはっきり映すだけの。

 ――予言の星かもしれない。

 リゼーヌの言葉が遅れて胸をかすめる。でも、今そこに残っているのは冷たい感触だけだった。拳を握る。力は、入らない。

「……弱すぎた……」

 窓の外で炎が揺れる。戦場に立つ人々の命は遠く、手の届かない場所で瞬いている。閉ざされた医務室の中でソフィーは動けずにいた。自分を救うことも、誰かを救うこともできない――そう思った瞬間、三つ星の冷たい光が静かに全身を包み込んだ。

 足音が、静まり返った医務室の床をかすかに響いた。思わず顔を上げる。

 目に映ったのは――まだ小さな少女。背は低く、服はぼろぼろで、髪は無造作に乱れている。まるで孤児院で過ごした頃の自分そのものだった。

「……え……?」

 言葉にならない驚きと戸惑い。だが目の前の少女は、ただそこに立って、じっとソフィーを見つめている。その瞳には、過去の痛み、恐怖、孤独――そして心の奥底に封じ込めてきた弱さが映し出されている。まるで自分の闇の一部が、肉体を持って現れたかのようだ。

「……わたし……?」

 ソフィーは言葉を探す。しかしその声は震え、か細く、まるで小さな自分に呟くしかできない。

 少女――いや、自分自身――は、恐れも怒りもなく、ただ静かにこちらを見ている。その存在感はまるで鏡に映る自分の影のようで、逃げ場もなければ誤魔化すこともできない。

「……あの時も……こんな顔してたよね」

 過去の選択、失敗、恐怖――すべてが一気に蘇る。自分の弱さ、臆病さ、そして誰かを守れなかったこと。

 少女の瞳は無言のまま、ソフィーに問いかけてくる。

「ねえ。今回も逃げるの?」

 その一言がソフィーの胸をえぐる。声に出すこともできない後悔が、ここまで圧し掛かる。医務室の空気は重く、静寂の中で、二人――二つの時間軸に生きる自分が向き合う。目の前の小さな自分は、逃げ続けた弱さの象徴。だが同時に、まだ変えられる未来の可能性を孕んでいる存在でもある。

 少女はじっとソフィーを見上げ、細い声で問いかけた。

「最初に逃げたのってさ、いつだっけ?」

 ソフィーは一瞬目を閉じ、胸の奥に押し込めていた記憶を呼び覚ます。

「……六歳。ルノアール家が、引き取ると言ってくれたとき……」

 少女の瞳が少し大きく開く。

「どうして?」

 ソフィーは視線を落とし、言葉を選びながら答えた。

「惨めだったから」

 少し間をおいて続ける。

「汚くて、貧しくて……親もいなくて。ラウルの隣にいるのが、怖かった」

 少女は黙って聞いている。

「同じになりたかった。だから……逃げた」

 少女――自分の弱さの象徴――は静かに頷き、沈黙が二人の間に流れる。

 その空気には、過去の痛みだけでなく、失った純真さや、まだ癒えていない心の傷が色濃く漂っていた。

 ソフィーはその視線を避けることなく、ただ小さな自分を見つめ返す。胸の奥に長く封じていた後悔と逃げた自分への苛立ちが込み上げてきた。

 少女は静かに一歩ソフィーに近づき、鋭く問いかけた。

「じゃあさ。今は?」

 その声にソフィーの胸が締め付けられる。答えを探すように視線を彷徨わせるが、言葉は喉に引っかかる。

「……今も、あの頃と変わらない……。真実を追うのも別の道を探すのも……誰かのためって言いながら、結局は……自分が傷つくのが怖くて、やめた」

 少女の瞳が静かに光を帯び、ソフィーをじっと見つめる。

「それでも、“予言の星”になりたかったんだ」

 ソフィーは小さく息をつき、膝を抱えたまま闇の中で自分自身と向き合う。

「……なれるわけないよ」

 苦く笑う。

「弱くて、臆病で……ずっと逃げてきたのに」

 少女は何も言わず、肩にそっと触れた。冷たくも、温かくもない。ただそこにある手。

 ソフィーはその手を感じながら深く沈み込むように目を閉じる。絶望は静かに心を覆っていく。

 少女はソフィーをじっと見据え、冷たい声で言った。

「役に立ちたかったんでしょ。生まれたときから、惨めでさ。だから、誰かの光になりたかった。認められたかった」

 ソフィーは震える声でわずかに肯いた。

「……うん」

 少女は小さく笑い、まるで胸の奥を突き刺すように続ける。

「でもさ。あんた、特別じゃないよ。選ばれた人間でもない。ただの、普通の人」

 ソフィーの唇がわずかに震える。

「……わかってる」

 少女はさらに踏み込む。目が冷たく光ったまま、言葉を重ねる。

「誰かに寄り添いすぎて、自分で立つこともできなくてさ。結局、振り回されてばっかり」

 ソフィーは肩をすくめ、視線を落とすしかなかった。

「……それでも、進みたかったんだけどね」

 少女の声が耳元でささやくように鋭く響く。

「無理だよ。だって、あんた――今も逃げてる」

 ソフィーの胸に冷たい風が吹き抜け、絶望が全身を包む。

「逃げることしかできない、臆病者なんだから」

 闇の中、少女の瞳は笑わなかった。静かで、冷たくて、逃げ場のない目だった。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


 ――どっちもお前だ。


 耳の奥で、微かな声がした。


 ――大事なのは、自分の気持ちから目を逸らさないことだろ。


 グウェナエルの声だった。低くて、落ち着いていて、命令でも説教でもない。

 ただ背中に手を置かれたみたいな声。

 ソフィーはゆっくり顔を上げた。

 目の前の少女――自分自身を、改めて見る。

 どうして、こんなにも責めてくるのか。

 どうして、ここまで怒っているのか。

 その時、少女の表情がほんの一瞬だけ崩れた。眉が寄って、唇が震える。

 怒りの奥に、別のものが透けて見える。

 孤独。

 痛み。

 それから――助けて。という声。

「……わかりたい」

 声は小さかった。でも、逃げなかった。自分の弱さの理由も、過去の選択の痛みも、すべてを受け止める覚悟がこの一言に込められている。絶望の深淵に差し込む、一筋の光――それは、過去の自分への理解と、未来への希望の始まりだった。少女はぎゅっと刃を食いしばる。ソフィーは少女を見据え、低く問いかけた。

「……怒ってる?」

 少女はサッと目をそらす。

「……なに、それ」

 ソフィーは目を逸らさずに言った。

「とぼけなくていい。怒ってるんでしょ」

 少女は沈黙し、唇をかみしめる。

「……なんでわかるの」

「…顔がね」

 少女はついに言葉を吐き出す。声には震えと涙が混じっていた。

「……友達を、捨てたから」

 その一言が胸に落ちる。

「自分勝手でさ……強がって、カッコつけて……ラウルのこと、嫌がってたくせに」

 声が震える。

「いなくなってから、友人だったとか言うの……ずるいじゃん。……あたし、本当は寂しかった。ずっと一緒にいたかった。死んだって聞いた時……ちゃんと、悲しかったんだから」

 ソフィーは胸に手を当てた。言葉が、すぐに出てこない。少女の怒りと悲しみは鋭く、まっすぐソフィーの心の奥底に突き刺さった。しばらくして、静かに言う。

「……うん。それは……本当だよ」

 少女は何も言わない。

「ラウルは、もう戻らない。後悔してる。今でも。もっとちゃんと話せばよかったって……何度も思う」

 少女が少しだけ落ちた。

「でもね」

 ソフィーは続ける。

「ラウルとの時間まで、なかったことにはしたくない」

 少女が顔を上げる。

「楽しいことも、あったでしょ。苦しかったけど……全部が、嘘じゃなかった」

 少女は首をかしげ、ぽつりと言う。

「……難しい」

 ソフィーは苦笑した。

「うん。難しいね。じゃあさ…こうしよ」

 彼女は言葉を柔らかく紡ぐ。

「忘れない。でも、縛られもしない。思い出のまま、大事にしまっておく」

 少女の目が大きく見開かれる。

「…それって」

「ラウルは、心の中にいるってこと」

 少女の瞳に微かに光が戻る。

「…まだ、怖い」

 ソフィーは跪いてそっと腕を伸ばした。

「うん。でも、今は一緒だから」

 少女は一瞬迷ってから、ぎゅっと抱きついてくる。震える体。その輪郭が、ゆっくりと光に溶けていく。温かさだけを残して、少女は消えた。腕の中は空っぽなのに、胸の奥は妙に温かい。

 次の瞬間、闇が解けた。

 医務室のベッドの上。膝を抱えたまま、ソフィーはしばらく目を閉じていた。

 怒りも、悲しみも、後悔も。

 全部が胸の中で静かに混ざり合う。

「……怖くても、逃げても」

 小さく息を吐く。

「……それでも、いい」

 目を開ける。窓の外では遠く戦いの音が続いている。ブレスト城の方角に松明の火が揺れていた。

「自分の弱さを……否定しない」

 肩を伸ばし、拳を握る。

「誰かのためでも、自分のためでも。私が選んだなら、それでいい」

 窓の外をまっすぐ見据える。

「……逃げたくても、もう逃げない」

 胸の奥で小さく、確かな震えがあった。

 それは恐怖でも絶望でもある。

 それでも――前に進もうとする意思だった。

 医務室の窓から夜明け前の淡い光が差し込んでいた。

 ソフィーはそれをぼんやり眺めながらようやく息をつく。外ではまだブレスト城の松明が赤く揺れている。戦いの名残のような音がかすかに届いていた。

「……もうすぐ、明けますね」

 背後から静かな声がしてソフィーは小さく肩を跳ねさせた。振り返ると、リー・ウェンが落ち着いた表情で立っている。

「え……もう、そんなに経ったの?」

 思わず零れた言葉に自分でも驚く。時間の感覚がすっかり曖昧になっていた。

 リーは窓の外に目を向ける。松明の炎が城壁を照らし、城全体が息づくように揺れていた。

「……気になりますか」

 問いかけにソフィーは小さく頷く。

「もちろん。気にならないわけがないよ」

 リーは一歩だけ近づき、穏やかな声で続けた。

「それなら……なぜ、ここにいるのですか」

 胸の奥がきゅっと縮む。

 ソフィーはしばらく言葉を探し、それから小さく答えた。

「……怖いから」

 声は思ったよりも弱かった。

「みんなのことは気になる。でも……この戦いの終わりを、ちゃんと見るのが……怖い」

 耐えられない、とは言えなかった。その続きを喉の奥に飲み込む。

 リーは何も言わず、ただ聞いていた。沈黙の中で松明の赤い光がソフィーの横顔を照らす。

「恐怖の中で立ち止まっている自分を、わたしは否定しません」

 その言葉は静かだった。それでも、胸に乗っていた重さがほんの少しだけ和らぐ。

 リーは再び窓の外を見る。

「城門は閉ざされたままでした。中の様子は確認できませんでしたが……」

 淡々とした声が続く。

「争う音は、長く続いています。……かなりの時間、戦っているようです」

 ソフィーは唇を噛み、窓の外を見つめた。赤く揺れる光が遠い城壁を照らしている。

「……どうして、こんなことに……」

 独り言のような呟きにリーは黙って頷いただけだった。しばらくしてリーが静かに口を開く。

「ソフィーさん。あなたがここにいることにも、意味はあります」

 ソフィーはゆっくりと彼を見る。

「見守ること。それ自体が、必要な役目なのです」

「……でも……」

 声はまだ震えていた。

「みんなが……」

 リーは否定せずに言葉を受け止める。

「無事を願う気持ちは自然なことです。ただ……結果に心を縛られすぎる必要はありません」

 穏やかな視線がソフィーに向けられる。

「恐怖を抱えたままでも、あなたがここに立っている。そのこと自体が、誰かを支えています」

 ソフィーは小さく息を整えた。

「……見守ることが、今の私にできること……」

 そう呟いてゆっくり頷く。窓の外で松明の炎が揺れた。

「自分を責めないでください」

 リーは続ける。

「誰もが、すべてを救えるわけではありません。今は、ここに立っている自分を信じて」

 胸の奥がほんの少し軽くなる。恐怖は消えない。それでも――息はしやすくなった。

 リーは夜空を見上げ、かすかに微笑む。

「それに……今夜の空は澄んでいますね」

 ソフィーは紅く輝く星を見て、少しだけ意地悪く言った。

「予言の星、出てるけど……東の人には、嬉しいんじゃない?」

 リーは星を見つめ、静かに答える。

「ええ。ですが、喜びと同じだけ重さもあります」

 視線を空に向けたまま続ける。

「その光の下で、誰がどんな選択をするのか……それが、世界を左右しますから」

 ソフィーは視線を戻し、ぽつりと言った。

「……でも、その“星の子”も、人間だよね」

 迷って、怖がって、間違える。

「どんな予言があっても」

 リーは静かに頷く。

「ええ。だからこそ、人は星に意味を見出し、支えようとするのです。光があるから、影も生まれる」

 ソフィーは戦場にいる仲間たちを思い浮かべる。松明の光と夜空の星。希望と恐怖が混ざり合う空気の中で、しばらく黙って立っていた。

「……怖い。でも……見ていなきゃ」

 小さく呟き、拳を握る。

 リー・ウェンは少し距離を取ったまま、何も言わずそばにいた。その存在だけが静かに伝わってくる。

 ――一人じゃない。

 夜は少しずつ白み始めていた。三つの星はまだ空にあり、ソフィーの胸の奥にも小さな光が残っていた。その時、宿舎の静けさを裂くように、遠くから馬の蹄の音が響いた。

 ソフィーははっと顔を上げ、反射的にリー・ウェンを見る。

「黒龍が……かなり落ち着きを失っています」

 低く抑えた声だったが、緊張は隠せていない。

「……分かった。行こう」

 ソフィーは一度だけ深く息を吸い、医務室を出た。外気が頬を刺す。戦場の熱とは違う、冷えた緊張が身体にまとわりつく。玄関口を抜けた瞬間、聞き慣れた声が飛んできた。

「ソフィー、無事か!」

 そこに立っていたのはジャンだった。日に焼けた顔。頼りなげな体つきは昔のままだが、目だけは必死だった。

「叔父さん……!」

 思わず駆け寄る。

「どうしてここに? 城の様子は?」

 ジャンは短く首を振った。

「中には入れなかった。耳を澄ましても、人の声ばかりでな……。もう終わった可能性もある」

「……そう」

 肩の力がわずかに抜ける。だが、胸の奥のざわめきは消えなかった。

「それよりもだ」

 ジャンは声を落とす。

「私はお前が心配でな。状況が分からん以上、まずここへ来た」

 その一言で胸がきつく締めつけられた。視線が自然と夜空へ逃げる。赤い松明の光が、遠くブレスト城の輪郭を揺らしている。

「……ありがとう、叔父さん」

 小さく頷き、息を整える。

「ソフィー」

 ジャンが静かに問いかけた。

「君は、ここにいていいのか? 仲間のところへ行かなくていいのか?」

 心臓が一拍、強く跳ねた。

 ――行って、どうなる?

 マクシミリアンが復讐を果たしていても、失敗していても。

 どちらであっても、待っているのは受け止めきれない現実だ。

「……わからない」

 言葉には出さず、心の中で答える。視線はまた夜空へと逸れた。

 けれど――もう、分かっていた。

 泣いて、逃げて、傷つくのが怖くて、何もできなかった自分。

 それでも今、自分はここに立っている。

 ならば。

 弱いままでいい。

 この目で、見よう。

 誰かのために戦う誰かの姿も、自分が選び取った道の、その先も。

 ソフィーは肩を落とし、ゆっくり息を吐いた。

「……見届ける」

 心の中でだけ、そう呟く。

 リー・ウェンもジャンもその決意には気づかない。ただ静かに彼女のそばに立っている。夜の冷気と松明の光が、胸の奥で揺れる小さな覚悟を照らした。

 ソフィーは俯き、震える拳を胸に当てる。

「……怖い」

 かすかな声が夜に溶ける。次の瞬間、顔を上げた。松明の赤に照らされた瞳には、もう迷いはなかった。

「……怖いけど、それでも行く」

 一歩、前に出る。

「逃げたいし、目を逸らしたい。でも――それじゃ、また同じだ」

 言葉は短く、だが確かだった。

「私は、私のままで行く。立場も、肩書きもいらない。この目で、全部見る」

 言い終わるより早くソフィーは駆け出していた。石畳を蹴る音が夜を裂く。

「ソフィー!」

 リーが手を伸ばす。

「黒龍は――」

「いらない!」

 振り返らずに叫ぶ。

「自分の足で行く!」

「医療道具は!」

 ジャンの声が追いかける。

「そんな時間ない!」

 一瞬だけ立ち止まり、振り返る。

「私はもう――役割を背負わない。ただの私で、行く!」

 そう言い切り、再び走り出した。松明に照らされた夜道は赤く燃え、その先に喧騒と悲鳴に包まれたブレスト城がそびえている。弱さを抱えたまま、それでも前へ進む者の足音が夜に力強く響いていた。

 ソフィーは宿舎の門を飛び出し、ラド・ド・ブレストを一望できる海沿いの道へ駆け出した。道の両側には誰もいない。聞こえるのは、砕ける波と荒い呼吸だけだった。夜の潮風が容赦なく頬を打ち、髪を乱す。黒い海は月を映しながらも、ところどころ赤く燃え立つ松明の光が揺らぎ、その度に不気味にきらめく。

「怖い……でも、もう逃げない!」

 胸の奥で叫ぶと足はさらに速く動いた。

「海軍でもない、海賊でもない、医者でもない。私は私、この結末を見届ける!」

 どこまでも続く真っ暗な道。遠くに浮かぶブレスト城だけが、炎に照らされ、幻のように浮かび上がっている。その赤黒い輝きが、まるでこちらを呼んでいるように見えた。だが――息が、苦しい。胸が焼けるように痛み、視界の端がじわりと滲む。次の一歩を踏み出そうとした瞬間、足先がもつれ、ソフィーは思わず膝をついた。

「っ……!」

 潮の匂いが一気に近づく。靴底が濡れた砂利を踏みしめる乾いた音が、すぐ耳元で砕けた。肩で息をしながら、俯いたまま必死に呼吸を整えようとする。

 ――その時。

 背後から低く確かな音が近づいてきた。規則正しく、地を打つ響き。蹄の音。振り返る間もなく、黒い影が視界に差し込む。夜の中から現れたのは、艶やかな黒毛を持つ一頭の馬だった。月明かりを受けて、金色の瞳が静かに光っている。

「……ヘイロン」

 黒龍――いや、今はただの一頭の馬。

 ヘイロンはソフィーの前に立ち、ゆっくりと首を下げると、鼻先で彼女の肩をつん、と押した。責めるでもなく、急かすでもなく。ただ、そこにいる。

 ソフィーはその金の瞳を見つめ返し、思わず苦く笑った。

「……そうだ。私、また一人で全部背負おうとしてた」

 声はかすれ、正直だった。

「弱い人間なのに。怖くて、迷って、立ち止まるくせに……」

 ヘイロンの瞳は揺れない。夜の海よりも深く静かだった。その静けさの中で、ひとつの考えがはっきりと形を取る。

 ――弱いままでいい。

 ――でも、間に合わなかったら意味がない。

 ソフィーは小さく息を吸い、吐く。そして、決意するようにヘイロンの瞳をまっすぐ見据えた。

「……お願い。乗せて」

 一瞬の間。次の瞬間、ヘイロンは応えるように体を寄せ、背を低くした。

 ソフィーはそのたてがみに手をかけ、よろめきながらも鞍に跨る。体勢が整うや否やヘイロンは地を蹴った。景色が一気に後ろへ流れる。風が、夜気が、涙の跡を一瞬でさらっていく。全速力。迷いの余地など与えない速さで、ヘイロンは闇を切り裂いて駆けていく。

 ソフィーはたてがみにしがみつきながら、前を見据えて叫んだ。

「どんな結末でも、私は目を逸らさないんだから!」

 その声は海風に溶けながらも夜へ刻まれていった。

 ソフィーはヘイロンに跨ったまま、闇を裂いてブレスト城の前へ辿り着いた。全速で駆け抜けてきた余韻がまだ体の奥で脈打っている。赤黒い松明の灯火が城門を照らし、その重苦しい影が夜空へと長く伸びていた。石壁は高く、冷たく、拒絶するようにそびえ立っている。

 ソフィーは手綱を引き、ヘイロンを止めた。馬上から見上げる城門は想像していたよりもずっと近く、同時に遠い。

「……ここまで、来た」

 息は荒い。それでも胸の奥には確かな実感があった。ヘイロンの温もりがまだ脚越しに伝わっている。一歩――いや、一馬身、前へ出ようとした、その瞬間だった。

「止まれ!」

 鋭い声が夜気を裂き、同時に槍の穂先が突き出される。城門の前に憲兵が二人。剣呑な視線がソフィーとヘイロンを射抜いた。

「立ち入りは許されん。引き返せ!」

「でも、私の仲間が中にいるの!」

 ソフィーは馬上から必死に叫ぶ。声が震えるのをもう隠そうともしなかった。

「命令だ。誰であろうと、入れるわけにはいかん!」

「……っ」

 言葉を叩きつけようとして喉で詰まる。この門の向こうに、仲間たちがいる。それなのに、自分は――ここから先へ行けない。

「……このやろう……!」

 悔しさを噛み殺すように吐き捨て、ソフィーは手綱を引いた。

 ヘイロンが低く鼻を鳴らし、ゆっくりと踵を返す。馬上のまま、来た道を引き返す。さきほどまで全力で駆けた道を、今度は重い足取りで進む。胸の奥で、焦燥と怒りが渦を巻く。

「どうすれば……どうすれば入れるの……!」

 思わず漏れた声は夜の海風にさらわれていった。

 その時だった。視界の端に、違和感が引っかかる。低い石塀の向こう――月明かりに照らされて、不自然な影が揺れていた。

 ソフィーは手綱を引き、馬を止める。

「……縄?」

 近づいて、はっきりと見えた。石塀に引っかかったままの鉤縄。しかも、まだ新しい。摩耗も少なく、ついさっき使われたように見える。

「……誰か、入った……?」

 胸が跳ねる。迷いより先に身体が反応していた。

 ソフィーは馬から降りる。地面に足をつけた瞬間、ヘイロンの温もりが離れ、夜の冷気がじかに伝わった。

「……ここで待ってて」

 小さく、確かな声でそう告げる。ヘイロンは金の瞳で彼女を見下ろし、静かに鼻を鳴らした。止めるでも、促すでもない。ただ、そこにいる。

 ソフィーは一度だけ振り返り、頷くように視線を交わすと、石塀へ駆け寄った。鉤縄を強く握りしめる。掌に伝わる硬さと冷たさが、今の現実をはっきりと刻み込む。

「……私は、自分の足で進むって決めたから!」

 その言葉にはもう逃げはなかった。頼ることを知り、選んだうえで――それでも最後は、自分で踏み出すという覚悟。

 ソフィーは縄を握り直し、石塀を見上げる。城の影はなお重く、夜はまだ終わらない。だが、その瞳にはもう、迷いはなかった。月明かりと松明の炎に照らされながら、ソフィーは縄を登り始めた。指先に石の冷たさ、掌に縄の痛み。足場を探すたびに、靴底がざらりと石壁を擦った。下を見れば、暗い闇と波の音。だが、振り返らない。やがて塀の上に身体を乗り上げ、ソフィーは中庭に身を投じた。だが足が地面に着いた瞬間、息を呑む。

 そこは――戦の爪痕が生々しく広がる惨状だった。

 四方八方に倒れ伏す兵士たち。呻き声と断末魔の残響が、夜気に溶ける。血と煙の匂いが鼻を突き、石畳には鮮やかな赤黒い痕が広がっていた。

「……っ!」

 思わず口元を押さえたソフィーの目に飛び込んできたのは、捕縛されたマクシム隊の隊員たちだった。縄で縛られ、うなだれる者、なおも抗うように睨み返す者。彼らの周りには武装した兵が取り囲み、まるで獲物を押さえ込むかのように威圧していた。さらに視線を巡らせば、負傷者の治療に走り回る兵士たちの姿。それでも処置が追いつかず、石畳の上で冷たく横たわる者たちがいた。その死顔の一つひとつにソフィーの心は鋭く抉られた。

「……これが……結末……?」

 足が竦みそうになる。だが、すぐにソフィーは気付く――まだ完全には終わっていない。遠く、城内の奥――ブレスト城の回廊から、なお剣戟の音が響いていた。それは断固として終わりを拒む者たちの闘いの声。まだ、終わっていない。まだ、戦っている者たちがいる。

 ソフィーは血の匂いにむせながらも強く拳を握りしめた。

「……まだ終わってない……!」

 彼女の視線は奥へと吸い寄せられていく。恐怖と絶望の淵に立ちながらも、その足は一歩を踏み出すのだった。

 ソフィーは捕らえられた仲間たちに駆け寄った。

 最初に彼女に気づいたのはジョルジュだった。

「ソフィー……! なんでここに来たんだ!」

 縄で縛られたまま血と汗に濡れた顔に驚きと恐怖を浮かべる。

「ジョルジュ……! 怪我は……」

 ソフィーは慌てて彼の側に膝をつき、手を伸ばす。その刹那、背後から鋭い声が飛んだ。

「触るんじゃない!」

 肩を乱暴に引きはがされ、ソフィーは思わずよろめく。振り返ると、イザベルがそこにいた。彼女の頬には煤がこびりつき、鋭い眼光がソフィーを射抜く。

「ボナパルト副司令官……?」

「何してるんだ、君は!」

 イザベルは怒気を含んだ声で吐き捨てた。

「こいつらは捕虜だ! 君まで同じだと思われたいのか!? 今さら『心配してました』だと? ふざけるな、ソフィー!」

 その言葉は刃のように胸に突き刺さる。

 ソフィーは言い返そうと口を開くが、喉が震えて声にならない。イザベルの眼は怒りに潤んでいた。

「君も、あいつと同じ……マクシミリアンに付き従った仲間だろう!」

 イザベルはなおもソフィーに詰め寄った。

「仲間面するな! 君がどんな顔で見ていようと、結局は――」

 その時、縄で縛られたシャルルが小さく咳払いをして口を挟んだ。

「……お言葉ですが、副司令官殿」

 皮肉めいた笑みを浮かべ、彼は静かに続ける。

「信じろと言っても、あなたには到底受け入れ難いでしょうが……彼女は計画には関与していません。少なくとも、我々と同じ立場ではなかった」

「なに……?」

 イザベルの眉がぴくりと動く。

「ええ、むしろ彼女だけは違うスタンスでしたよ」

 シャルルは縛られた腕を揺らし、諦観混じりに肩をすくめる。

「色んな意味で、信じがたい話でしょうがね」

「黙れ!」

 イザベルの怒声が中庭に響く。

「そんな言い訳を信じると思うか? 仲間を庇って白々しい!」

「ご自由に」

 シャルルは皮肉げに笑みを深め、視線を逸らした。

「私はただ事実を言ったまでです」

 ソフィーは二人の間に割って入ることもできず、胸を締め付けられる思いで立ち尽くすしかなかった。

「副司令官、いまはおやめください!」

 中庭の奥から駆けてくる声があった。アルフォンスだった。

「まだ中に敵が残っているんですから!」

「……敵?」

 ソフィーは思わず声を上げた。

「誰が……?」

 捕縛された縄の中でジョルジュが真っ先に答えた。

「隊長だ! 隊長と、グウェナエルさんがまだ城の奥にいる! ずっと前に兵士たちが突入して、捕縛に向かった!」

 イザベルの拳が飛んだ。乾いた音が夜気に響き、ジョルジュの頬が跳ねる。縛られた身では受け身も取れず、彼は地面に膝をついた。

「余計なことを喋るな!」

 イザベルの目が怒りに燃え、縄で縛られた隊員たちを鋭く睨みつける。

 ソフィーは凍りついた。

 マクシムが――まだ、戦っている……?

 胸が一気にざわめき、心臓が痛いほどに鳴り響いた。

「……あ、ソフィーじゃないか! ソフィー!」

 賑やかな声が中庭に割り込んだ。振り返ると、ルソーの側から駆けてくる三人組がいる。見間違いようがない――海賊、コリン、ニール、マテオだった。

「なっ……!」

 ソフィーは目を剥いた。

「ちょっと待って! あんたたち、なんでここに……?! ここは海軍の――」

「説明は後!」

 コリンが息を切らしながらも叫ぶ。

「とにかく今は大変なんだ、ソフィー!」

 その隣でニールが焦りを隠さず言葉を繋いだ。

「ブレスト城の中にはマクシムと……もう一人が大元帥の元へ向かっている! 兵士たちも城門を突破したあと、次々とその二人を追ったんだ!」

「え……」

 ソフィーの心臓が一瞬で冷たくなる。

 ニールの声はさらに熱を帯びる。

「そして、後を追って――ルキフェルとジャスパーが! 奴らは追っ手を斬り伏せながら、城の奥へ突っ込んでいった!」

 マテオが顔をしかめて付け足す。

「でもよ……あの二人はまだ知らねえんだ。オレたち海賊と海軍の間で“休戦”が結ばれたことを!」

 ニールは真剣な目でソフィーを見据えた。

「だから次に止めるべきは――マクシムたちと、ルキフェルとジャスパーなんだ。休戦を知らないままじゃ……本当にみんな、八つ裂きにされる!」

「……行かなきゃ!」

 ソフィーの口から思わず声が溢れた。気づけば足が動いていた。

「待て、ソフィー!」

 イザベルが鋭く叫び、彼女の前に立ちはだかる。

「裏切り者の一味であるおまえを、単独で城内に行かせるなどあり得ん!」

 その冷たい断言にソフィーは息を呑んだが――間髪入れずに背後から割って入る声があった。

「心配すんな、副司令官殿!」

 マテオがにやりと笑って肩をすくめる。

「オレたちが見張ってりゃ、こいつは変な真似しねえよ。な?」

「そういうこと!」

 コリンも頷く。

「ここで足止めしてる暇なんか、ないんだよ?」

 イザベルの眼差しは鋭いままだったが、状況がそれを許さないことも彼女自身が分かっていた。

 ソフィーは一度振り返り、捕縛され鎖に繋がれたマクシム隊の仲間たちへと歩み寄った。血に濡れ、疲れ果て、それでもまっすぐに彼女を見返す仲間たち。

「……ごめんなさい」

 声が震える。

「私がもっと強ければ……あなたたちを止められたのに。……守れたのに」

 ジョルジュが唇を噛み、シャルルが目を伏せる。誰も彼女を責めはしなかった。ただその姿を見守るだけだった。ソフィーは涙を堪え、彼ら一人ひとりの顔を見てから深く頭を下げた。声は震え、涙が喉の奥を塞ぐ。すると、繋がれたままのアニータが大きく首を振った。

「ちがう! そんなこと、言わないで!」

 隣のリゼーヌも必死に叫ぶ。

「ソフィーさんのせいじゃない! あなたは、ずっと……!」

 声が嗚咽にかき消され、それ以上は言葉にならなかった。その時、リラが身を乗り出すようにして訴えた。

「ソフィー!……お願い、隊長を止めて! このままじゃ……このままじゃ、みんな死んじゃう!」

 その必死な眼差しは仲間というより妹が姉に縋るように見えた。

 ソフィーの胸が締め付けられる。答えを返そうと口を開きかけた時――。

「俺たちのことは気にするな!」

 ダヴィットが怒鳴るように遮った。

「ここで捕まってようが、傷だらけだろうが……生きてりゃなんとかなる。だから今は……おまえだけでも行け!」

 その言葉に鎖で繋がれた仲間たちが一斉に頷いた。苦痛に顔を歪めながらも彼らの瞳は揺らがず、ただソフィーを送り出そうとしていた。

 ソフィーは堪えきれず目を伏せ、唇を強く噛んだ。そして涙を振り切るように顔を上げ、まっすぐに仲間たちを見渡した。

「……分かった。必ず、見てくる。……私の目で、最後まで」

 イザベルの制止を振り切り、ソフィーは一目散に飛び出すと、コリン、ニール、マテオと共に城内の暗い廊下に駆け込む。足元には散乱した武器と、まだ戦いの痕跡を残す兵士たちの姿があった。血の匂いが鼻をつき、かすかな呻き声が響く。壁には剣で抉られた跡が残り、突き刺さった矢や盾の破片が散乱していた。

「くそ……まだ戦いは続いてる!」

 ニールが低く唸る。

 ソフィーはうなずきながらも、視線を前に向けた。ここで立ち止まれば、自分も足を取られ、仲間に迷惑をかける。だが心臓は早鐘のように打ち、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。廊下の奥から、まだ鎖の音や足音が遠くで響く。誰かが呻き、武器がぶつかる金属音がかすかに反響する。死体の山を避けながら進むたび、ソフィーの目に映るのは戦闘の痕跡だけではない──失われた命の重み、その残響が彼女の胸に突き刺さる。

「みんな……大丈夫?」

 ソフィーはコリンとニール、マテオに声をかけるが、三人も無言で前を見据えている。恐怖を押し込め、ただ目の前の道を突き進むしかない。城内の暗闇は深く、外の松明の赤い光が窓から差し込む。血と炎に染まった廊下を駆け抜けるソフィーたちの背中に、戦闘の絶え間ないざわめきが追いかけてくる。廊下を抜けた先には階段が現れる。螺旋階段へとつながるその段差を駆け上がるたび、振動と軋みが床に響き、城全体が戦場であることを再認識させる。

「行くよ……!」

 ソフィーは自分を奮い立たせるように声をあげ、仲間たちと共に次の階へ駆け上がった。石造りの段差は冷たく、足音が虚しく反響する。廊下を駆け抜ける際に感じた戦闘のざわめきは次第に遠ざかり、代わりに不気味な静寂が辺りを包み始めた。

「ここから先は……慎重にな」

 マテオが低くつぶやく。コリンとニールもうなずき、互いに間合いを確かめながら階段を上がっていく。一段、また一段と石段を踏みしめるごとに、ソフィーは鼓動の高まりを抑えるのに必死だった。その時、コリンたちが急に背後で階段を見張り、待ち伏せしていた兵士たちと対峙している。鋭い剣戟の音が次々と鳴った。戦闘の中、螺旋階段に差し掛かる後ろからコリンが声を張り上げた。

「ここはぼくが食い止めるから!先に行って!」

 ソフィーは驚きつつもうなずく。コリンは鋭い剣先を振るい、下から迫る兵士を迎え撃つ。階段は狭く、複数の敵が一度に攻め込めず、コリンの奮戦が道を開く。続いてニールが振り返り、険しい表情で言う。

「僕も残る!急いで」

 振り返るソフィーの背中に、ニールの瞳には決意と覚悟が宿っている。次にマテオも飛び出し、彼の体が敵と交錯し、鎖や剣が火花を散らす。

「しょうがねえな!お前一人でもいけ、あとで合流しよう!」

 ソフィーは目の前の階段を駆け上がり、上階への足音が高まる。後ろで仲間が一歩一歩、身を張って敵の足を止める──その姿は痛々しいほどに勇敢で、胸を打つ。やがて、ソフィーは仲間の声が遠ざかる中、一人で螺旋階段の闇を上がる。暗い石の壁に沿って視界はぐるぐると旋回するが、彼女の心はまっすぐ前を見据えている。振り返ると、後ろにはもう仲間の姿はなく、聞こえるのは自分の足音と呼吸だけ。けれど、怖気づく余裕はなかった。前に進むしかない。石の螺旋階段を一歩ずつ、慎重に、しかし止まらずに上がっていく。途中、わずかに下階から忍び寄る足音や武器の金属音が耳に届くが、ソフィーはそれを振り払うように目線を上に向け続ける。

「確かここを抜ければ……外に出られる」

 自分に言い聞かせ、螺旋階段の暗闇を駆け上がる。夜の赤い光が差し込む屋上が、少しずつ現実の輪郭を帯びて見えてくる。

「みんな、絶対に無事でいて」

 その想いを胸に、ソフィーは城壁通路へと続く階段の先を目指して足を踏み出す。


 城壁通路に差し掛かると、冷たい夜風が石造りの壁を走り抜け、遠くラド・ド・ブレストに光る波間が揺れているのが目に見えてわかる。ソフィーの視界は一気に開け、漆黒の空に浮かぶ星々が瞬く。その一角で、ひときわ赤い髪が夜の闇に鮮やかに映える。

「……ジャスパー?」

 思わず声が漏れる。彼は普段の飄々とした表情ではなく、守るべきものを守る覚悟で引き締まった顔をしていた。通路の端に迫る兵士たちを、ジャスパーは手際よく無駄のない動きで次々と制圧していく。剣先が夜空に反射し、鋭く煌めく。彼の赤髪が揺れるたび、守るべき仲間たちへの決意が形になったかのようだ。

 ソフィーは足音を立てないよう注意しながらジャスパーの背後を追う。通路の狭さとに緊張が走る。下を覗けば、城の内庭でまだ戦いの残響が響いていた。

 ジャスパーはふと振り返り、目が合う。驚きが浮かんだその口元から、ぽつりと声が漏れた。

「ソフィー?」

 ジャスパーは思わず小さく眉をひそめ、怒気混じりに叫ぶ。

「んのやろっ!こんな時に守んなきゃいけないやつ増えたんだけど!」

 その言葉にソフィーは一瞬言葉を失ったものの、ジャスパーはすぐに剣を構え直し、再び迫る敵に向かって走り出す。そして、ジャスパーが最後の一振りで迫る敵を片付けると通路には静寂が戻った。夜風だけが石の壁をかすかに撫でる。彼はふと立ち止まり、息を整えながらソフィーの方に体を向けた。

「ソフィー……!生きていたか!」

 久々の再会に、驚きと安堵の入り混じった笑顔が夜の通路に鮮やかに浮かぶ。

 ソフィーは胸の奥で込み上げるものを必死に押さえつつ視線を返す。

「ジャスパー……嬉しいけど、今は喜んでる場合じゃないの!」

 言葉には焦りと緊張が混ざり、彼女の目は次の行動を示す決意で光っていた。

 ジャスパーはその言葉を受け、わずかに肩をすくめて微笑む。

「分かってる。……でも、無事でいてくれてよかった」

 その表情は柔らかく、守るべき仲間への覚悟を失ってはいなかった。

 ソフィーも小さく息を吐き、振り返らず前を見据える。

「ありがとう……でも、行かなくちゃ。マクシミリアン隊の仲間も、まだここにいる」

 二人の間に言葉よりも確かな理解が流れた。夜の静寂の中、再会の喜びを胸に秘めながら、ソフィーは再び屋上を目指して足を進める。ジャスパーもすぐさま彼女の後ろに続き、通路の闇に二人の影が並んだ。

「ジャスパー。あんたたちがここに来たのは……やっぱり、約束のため?」

 ジャスパーは暗い通路の向こうを見つめ、やや遠くを見やるような目で答える。

「マクシミリアンが大元帥を殺して、ルキフェルが殺す――って話だろ?」

 少し間を置き、ジャスパーは口元に苦笑を浮かべながら続けた。

「……あのな。その約束、果たせなくなったんだ」

 ソフィーは目を大きく見開き、声を震わせて問いかける。

「は? 何それ、どういうこと?!」

 ジャスパーは真剣な眼差しでソフィーを見返す。

「おれたちは、マクシミリアンを止めに来たんだ。復讐をやめさせるために!」

 その声には普段の飄々とした態度ではなく、仲間と人命を守る覚悟がにじんでいた。ソフィーの胸に深く突き刺さる。

「……止める? 隊長を?」

 ソフィーの言葉には驚きと困惑が混ざり、夜の通路に微かな震えが広がった。

 ジャスパーは手を小さく振り、静かに言った。

「ああ。これ以上の血は流させない。おれたちはそれだけを――」

 ソフィーは言葉を飲み込み、深く息をついた。胸の奥で、戦いの先にある覚悟と恐怖が渦巻く。彼女はジャスパーをじっと見つめ、問いかける。

「いったい、どうしてそんな急に……?」

 ジャスパーは一瞬目をそらし、回廊の壁を見つめたまま言葉を紡ぐ。

「話したいのは山々だが……おれからは、何も言えん」

 ソフィーは眉をひそめ、苛立ちと困惑が交錯する。

「何も言えないって……それじゃ、理由もわからないじゃない!」

 ジャスパーは低く唸るように息を吐き、視線を再びソフィーに戻す。

「言ったところで、状況は変わらない。けど……あんたがここにいるだけでおれたちは動ける」

 ソフィーの胸に言葉にならない覚悟と切迫感が突き刺さるが、決意を胸に声を震わせながら言った。

「わかった、私も行く」

 ジャスパーは軽く頷き、真剣な目で応える。

「おう、期待してるよ」

 だが次の瞬間、ジャスパーの目がソフィーの手元や身軽な姿をスキャンする。

「え……もしかして、そのまま来た?」

 ソフィーは小さく肩をすくめ、恥ずかしそうに答える。

「ごめん。急いでて…」

 ジャスパーは大きくため息をつき、膝から崩れ落ちるように座り込む。

「なんだよ……それじゃ、おれが守りながら進むってことか」

 そして一瞬、険しい表情でソフィーを見据え、低く警告する。

「しょうがない。だったら、おれの後ろにいな。絶対に離れるな」

 ソフィーは頷き、ジャスパーの背後にぴたりと付きながら、固い決意を胸に次の行動へと歩み出した。

「じゃあ、行こうか」

 ソフィーが一歩を踏み出そうとした瞬間、ジャスパーの手が鋭く腕を掴む。

「待て、ソフィー。やばい、何かが来てる」

 暗闇の奥――城壁通路の向こうから、鈍く重い足音が響く。壁に反響して、空間全体を震わせる。息を呑む二人の耳に、まるで鉄の塊が這いずるような低い音が絡みつく。空気が変わった。風に混じる血の匂いが鼻を刺す。冷たく、湿った生臭さ。ジャスパーの目が瞬時に鋭く光る。暗がりの先、気配が渦巻き、何者かが潜んでいることを告げる。

「くっ……ここにいるな……!」

 彼の声は低く、抑えきれない緊張を含んで震える。剣先が微かに光を反射し、影に浮かぶ輪郭を探る。ソフィーの心臓は喉元まで跳ね上がる。手が震え、体が自然に後ずさる。視界の端で、暗がりの奥がわずかに揺らめく――まるで生き物の影のように蠢く。空気が重く、二人の呼吸音さえも異様に響く。通路全体が、息を潜める死の世界に変わったかのようだった。

「絶対に離れるな、ソフィー!」

 ジャスパーの声が低く、鋭く響く。剣に力を込め、影に潜む敵を睨み据える。ソフィーも体を引き締める。今、二人は完全に、闇と沈黙の狭間に取り込まれていた――。ジャスパーの剣が夜明けの光を反射して閃く。

「誰だ?!返事をしろ!」

 影は止まらず、低く、鈍い音と共にこちらへ迫ってくる。剣先を向けても、その存在感は尋常ではない。息をするたびに鉄と血の匂いが漂い、緊張の空気をさらに張り詰めさせる。

「……なんだよ、なんも言わないなら斬るぞ!」

 ジャスパーの声は低く怒号のように響く。朝日が僅かに差し込み、刃に反射した光が影の輪郭をかすかに照らす。ソフィーの目は、その一瞬を逃さなかった。

 ――あの顔……、間違いない!

 慌ててソフィーはジャスパーの腕を掴み、力強く制する。

「待って!」

 ジャスパーは目を見開き、剣を止めたままソフィーを見た。問いかけるような瞳に、彼もただ静かに息を潜めるしかなかった。

 ソフィーは息を整え、恐怖と決意を抱えながらゆっくり前へ歩み出す。足元に落ちた影が揺れ、血の匂いが鼻腔を刺激する。空が徐々に明るさを取り戻したことで影の全貌が浮かび上がった瞬間、ソフィーは思わず声を漏らす。

 その姿は――グウェナエルだった。

 人間とは思えないほど満身創痍で、全身は血まみれ。傷口は鋭利に裂け、肉と服の隙間から血が滴る。だが、それでも目は確かにグウェナエルのものだった。その顔には、血にまみれた傷跡の合間から見える冷静さと、しかし凄絶な闘志が宿っていた。

 ソフィーの目に、傷の深さや身体の痛みにも負けず、一歩一歩、剣を引きずりながらこちらへ向かう姿が映る。歩くたびに痛みに歪む体を見せつつ、なおも戦う意思を失わない。まるで戦場そのものが生き物となったかのような存在感だ。

「……グウェナエルさん……」

 ソフィーは声を震わせて名前を呼ぶ。彼は完全に傷だらけで、体の動きは人間らしさを失いかけていた。しかしその目と輪郭、動作のひとつひとつが、確かにグウェナエルだと告げていた。戦場の鬼神と化した友――ソフィーの胸は、恐怖と安堵、決意が入り混じる波で揺れた。血と埃の匂いが漂う城壁通路。まだ暗い影の中、ソフィーは足を踏み出すのも躊躇するほど恐怖心で体が硬直しかけていた。目の前に迫るのは、満身創痍のグウェナエル。血に染まった紺の軍服、引きずる剣。まるで人間の限界を超えた存在のようにも見えた。背後ではジャスパーが剣を構え、いつでも斬りかかれる体勢を保っている。その緊張感がさらに空気を張り詰めさせる。

 グウェナエルがソフィーの目の前まで歩み寄った瞬間――突然、膝から崩れ落ち、手をついて倒れ込む。掌から零れた刃の金属音が通路の石畳に甲高く響き、朝日に赤黒く照らされるその姿は痛々しくも確かな存在感を放っていた。

「グウェナエル!」

 ソフィーは思わず駆け寄り、跪いて彼の両肩を掴んだ。ぐらりと傾いた身体を引き起こすと、荒い呼吸の合間からかすれた声が漏れる。

「……ソフィー……来てくれたんだな」

 血と泥にまみれた顔。その瞳に、痛みと疲労、そしてかすかな安堵が滲んでいる。

 ソフィーは息を呑み、言葉を失ったまま肩を支え続けた。背後でジャスパーが剣を緩めず周囲を警戒している。城壁通路を抜ける冷たい夜風が血の匂いを運んだ。戦場の喧騒の中で、ほんの一瞬だけ時が止まったようだった。

 ソフィーは呼吸を整え、彼の顔を覗き込む。

「……どうして……こんな……」

 声が震えた。

 グウェナエルは息を整えながら、途切れ途切れに答える。

「マクシムを……守るためだ。この先の螺旋階段で……兵を止めてた」

 ソフィーの胸がきつく締め付けられる。

「一気に……四人に、刺された。返り討ちには……したけどな……」

 それだけで十分だった。

 ソフィーは言葉を失い、彼を支える腕に力を込める。

「ルキフェルは……屋上へ行った。止めようとは……した。でも……あいつの言葉を聞いて……信じた」

 ソフィーは息を呑み、目を見開く。

「……あいつを守るためにも……後から来た兵も、斬り続けた。自分の怪我は……後回しだ」

 血に濡れた顔に疲労が滲む。それでも、その瞳だけは揺れていなかった。

「……そんな……」

 ソフィーの声がかすれる。

「ずっと……一人で……」

 気づけば彼の胸元に手が触れていた。確かめるように縋るように。

 グウェナエルは地面に手をつき、かすかに笑う。

「ひでえ顔だろ。目も……あんまり見えてねえ」

 息を吐く。

「……かろうじて、お前が分かるくらいだ」

 ソフィーは喉が詰まり、言葉が出なかった。

「……いつもみたいに、診てくれねえのか?」

 その問いは冗談めいているのに、どこか頼るようで。

 ソフィーは唇を噛み、首を振る。

「……ごめんなさい。道具も……医者としての立場も……置いてきました」

 何もできない。その事実が胸を締めつける。それでも、ソフィーは顔を上げた。

「……でも」

 血まみれの彼の目をまっすぐ見つめる。

「私は……私として、ここに来ました」

 声は震えていた。

「怖くて……どうしていいか分からなくて……それでも……来なきゃって、思ったんです」

 一息置き、言葉を選ぶ。

「医者じゃなくて……ただの私として」

 その目に涙が滲む。

「私は……弱いです。臆病で……迷ってばかりで……」

 小さく息を吸う。

「それでも……ここに来た。それが……私です」

 ソフィーは問いかけるように彼を見た。

「……それでも、受け入れてくれますか?」

 しばらくの沈黙。やがて、グウェナエルの表情がゆっくりと緩む。

「……ああ」

 かすれた声だったが、確かだった。

「やっと……ソフィーに会えた気がする」

 血に濡れた手で地面を支えながら彼は微かに笑う。

「それを……俺に見せてくれて、嬉しい」

 ソフィーの胸はぎゅっと熱くなる。恐怖と緊張の中で踏み出した一歩が、確かに彼に届いた瞬間だった。背後でジャスパーは剣を下ろし、二人のやり取りを静かに見守っていた。

 グウェナエルは低く息を吐き、どこか自嘲気味に笑った。

「……こんな体でも、まだ生きてるらしい」

 ソフィーの胸がぎゅっと締め付けられる。

「……聞いても、いいですか」

 恐る恐る、言葉を選ぶ。

「あなたは……どうしたいんですか。こんなに傷だらけで……私、どうすればいいのか……」

 グウェナエルは静かにソフィーを見た。血に濡れた顔。転がった剣。その目に、逃げ場のない覚悟が宿っている。

「正直に言うぞ」

 低い声だった。

「……死ぬつもりだった」

 ソフィーの喉がひくりと鳴る。

「兵を止めて……役目は果たした。このまま、終わらせようと思ってた」

 短く息を吐く。

「生きるのは……正直、きつい」

 ソフィーは思わず問い返す。

「……それなのに。どうして……歩いていたんですか」

 こんな状態で。剣を引きずってまで。

 グウェナエルは一瞬、目を伏せた。そして、ほんの少しだけ表情を緩める。

「……お前の声を思い出した」

 ソフィーが息を呑む。

「『生きてほしい』って……言ってただろ」

 血に濡れた目がまっすぐソフィーを捉える。

「怖くなったら……自分のところに帰ってきていいって」

 ソフィーの胸の奥で何かが熱く弾けた。

「だからな……せめて」

 荒い息の合間に言葉を紡ぐ。

「お前のところに戻るまでは……生きようって思った」

 かすかに笑う。

「宿舎まで行くつもりだった。……でも、思ったより近くに、お前がいた」

 息を整えながら冗談めかす。

「助かったよ。こんな早く“帰れる”とは思わなかった」

 ソフィーの視界が滲む。血と傷だらけの姿なのに、その声は温かかった。

「……」

 言葉にならず、涙だけが落ちる。

「ちゃんと……覚えててくれたんですね」

 声が震える。

「私の……あんな約束……」

 グウェナエルはほんの少し目を細める。

「忘れるわけないだろ」

 弱々しいが、確かな声だった。

「……ここまで来れた。それで十分だ」

 ソフィーはただ涙を流しながら、グウェナエルの手を握り締めた。言葉は出ない。感謝も、喜びも、安堵も、すべてが涙に溶けていった。胸の奥が熱く、溢れ出す想いで頭がいっぱいになる。戦場の喧騒も、血の匂いも、痛みも、今は全部遠くに感じる。ただ、目の前にいる彼が約束を守り、そして生きようとしたこと――その事実だけが、ソフィーの心を満たしていた。

 グウェナエルはかすかに笑って、ソフィーの頬を伝う涙を指先を拭った。

「…泣くんだな」

 その声には、疲れと安堵と少しの照れが混ざっていた。

「あの嵐の日さ。お前を……切り捨てようとしたのに」

 ソフィーは鼻をすすり、涙声で返した。

「……怖かったですよ。本当に、殺されるかと思いました」

「だよな」

 グウェナエルも小さく頭を下げて謝る。

「悪かった、俺の勝手で……お前を巻き込んだ」

 それ以上、言葉は続かなかった。痛みが増したのか、肩が小さく震え、呼吸が荒くなる。その様子を見て、ソフィーは迷わず彼の背後に回った。そっと腕を回し、背中から抱きしめる。

「……大丈夫です」

 声は震えていたが、逃げなかった。

「もう……怖くないです」

 グウェナエルの体が一瞬だけ強張る。けれどすぐに、力の抜けた息とともに体重を預けてきた。

「……支えてくれるのか」

 かすれた声。

「俺を……?」

 ソフィーは答えず、ただ抱きしめたまま耳元に顔を寄せる。

「……ここにいます」

 それだけ囁く。二人はそのまま、城の外通路に身を寄せ合った。風の音と互いの呼吸だけが残る。やがて、水平線の向こうからゆっくりと朝陽が顔を出した。まだ赤く燃えるような光が城の石壁や瓦に反射し、冷えた空気をほどけていく。その光が差し込んだ瞬間、グウェナエルは思わず目を見開いた。血と影で霞んでいた視界に色が戻ってくる。

「……」

 言葉を探すように、息を呑み――

「……綺麗だな」

 それだけ零した。ソフィーの目からまた涙が落ちる。

「……はい」

 小さく頷く。

「……本当に」

 彼女は、彼の背中に顔を埋めた。

「……あなたが、見られてよかった」

 朝の光が二人を包み込み、戦いの痕も、血の色も、ほんの一瞬だけ柔らかく溶かしていく。

「生きてくれて……嬉しいです」

 グウェナエルはほんの少しだけ笑った。

「……俺も」

 それだけで十分だった。

 グウェナエルはゆっくり息を吐いた。朝の光はまだ眩しく、彼の視界の中で揺れている。その中で彼はソフィーの顔を見た。

「……綺麗だな」

 少し間を置いて付け足す。

「前からだけど」

 ソフィーは思わず吹き出し、涙でぐしゃぐしゃの頬を乱暴に拭った。

「なんですか、それ……今そんなこと言います?」

「言う」

 グウェナエルは微かに笑みを浮かべ、声を低く落として言った。

「耳、貸せ」

 ソフィーは戸惑いながらも身を寄せ、耳を近づけた。

 グウェナエルはほんの一言だけ囁く。その瞬間、ソフィーの瞳が揺れた。何を言われたのか、他の誰にも分からない。けれど彼女の胸の奥が、きゅっと縮むのが分かった。

「……ずるいです」

 笑っているのか、泣いているのか分からない声。

「今、ここで……そんなの」

 グウェナエルは少しだけ目を伏せた。

「……行け」

 一拍置いて言い直す。

「俺を、一人にしてくれ」

 ソフィーは、すぐに首を振った。

「嫌です」

 声は小さいが、迷いがない。

「独りでなんて……そんなの、絶対に嫌」

「頼む」

 グウェナエルは苦しげに息を整えながら、それでも言葉を選んだ。

「俺の最期は……俺の中だけに残したい」

 視線を逸らし、続ける。

「お前の目に、あんな顔を焼き付けたくない」

 ソフィーは言葉を失い、唇を噛んだ。胸の奥が、じわじわと痛む。

「だから……今、生きてる俺を見てくれ」

 沈黙が落ちる。朝の光が二人の影をゆっくり伸ばしていく。

 ソフィーはしばらく黙ったまま、彼の胸に額を預けた。そして、かすかに息を吸う。

 グウェナエルがそっと腕を回す。

「……行け」

 声は震えていたが、折れてはいなかった。

「あいつらのところへ」

 ソフィーはその抱擁を受け止め、深く息をつく。

「…今の私が、医者の立場じゃなくてよかったです。医者だったら……きっと、何も聞かずに助けようとしてた。それが正しいって、疑いもしなかったと思う」

 小さく息を吸う。

「でも今は……あなたが選んだ答えから、目を逸らしたくない」

 グウェナエルの瞳にかすかな光が宿る。弱々しいが確かな安堵の笑みを浮かべ、かすかに呟いた。

「ありがとう」

 ソフィーは胸の奥で熱くなるものを感じながら、涙をこらえつつ、揺るぎない声で告げる。

「……あなたって、ほんと、いじわる」

 少し困ったように、でもどこか責めるように。

「優しいくせに、ちゃんと態度で示してくるし……逃げ場なく、想いを渡してくる」

 視線を落とし、ぽつりと。

「だから……」

 小さく息をついて、続ける。

「あなたが、今の自分を見て欲しいっていうなら……私も、伝えたい」

 グウェナエルをまっすぐ見つめる。

「今、ここで。ちゃんと、生きてるってこと」

 言い終わるや否や、ソフィーはためらわずグウェナエルの額に唇を寄せた。ソフィーの唇が額に触れた瞬間、グウェナエルの全身に小さな電流が走るかのようだった。驚き、戸惑い、そして何よりも――心の奥底から湧き上がる暖かさが、長く凍りついていた胸を溶かす。魂の芯が揺れる感覚に、彼自身も言葉を持たなかった。額に残るソフィーの温もり。ほんのわずかに触れたその唇の感触が、痛みと疲労でぼんやりしていた意識を鮮やかに目覚めさせる。胸の奥に押し込めてきた想い、抑えてきた感情――すべてが、一瞬にして透き通る光に曝されたように感じられた。額に触れた瞬間、ソフィーの胸は激しく高鳴った。自分の行為が、彼に届いたのだという確かな手応え。痛みを抱えた彼の体に、自分の温もりが伝わっている――その感覚に、胸が熱くなる。

 ソフィーは唇を離すことなく、わずかに血で汚れた唇を気にも留めず、熱を帯びた声で告げる。

「見るだけなんて、いやです。あなたが生きていることを感じたい。それに……私も生きてるって、知ってほしい」

 その意味をグウェナエルは痛いほど理解していた。生きること、感じること、互いの存在を確かめ合うこと。それはただの慰めではなく、命を懸けた真実の行為だった。

「最期だなんて……そんな顔で終わらせたくない」

 言葉にした途端、胸の奥がじんわりと温かくなる。涙で頬を濡らしながらも、ソフィーは微笑んだ。怖くも悲しくも、優しさと喜びに満ちた笑みだった。グウェナエルの反応は目を見開く驚きと戸惑い。しかしその目には、恐怖ではなく――安心と感謝、そして生きていることへの実感が宿っていた。その光景を目にしたソフィーの胸は強く揺さぶられる。

「これが……今の私にできる精一杯」

 静かに胸の奥で繰り返す。その言葉は単なる確認ではなく、互いの命を確かめ合う祝福でもあった。二人の間に流れる時間は戦場の血や痛み、過去の苦しみを一瞬だけ忘れさせるほど穏やかで鮮烈だ。

「生きててよかったって、思ってほしい」

 その願いは戦いの渦の中で初めて自分の心が完全に彼と繋がった瞬間だった。グウェナエルは小さく息を吐き、微かに頭を下げる。胸の奥に刺さる痛みを抱えたまま、その瞳には確かな光が宿る。

「……ありがとう、ソフィー……」

 その声はか細くも力強く、心の奥底から湧き上がる感情を伝えた。彼のラピスラズリの瞳には涙が溢れ、次々と頬を伝っていく。かつて鋭い切れ味を帯びていた目つきはすっかり和らぎ、弱さと優しさを湛えていた。

 孤高の戦士はこの瞬間、ただの一人の男になった。

「……生きててよかった」

 グウェナエルが声を震わせて漏らす。

 ソフィーは微笑み、彼の両頬をそっと包み込む。手のひらに伝わる温もりに胸がきゅっと締めつけられる。指先で頬や顎の輪郭をなぞりながら、互いの息遣いを感じる。グウェナエルもそっと手を伸ばし、ソフィーの肩や背中に触れる。そのままゆっくりと引き寄せ、体温を伝え合う抱擁を交わす。ソフィーの手が彼の胸元にそっと置かれ、指先で心音を感じ取る。グウェナエルは微かに首を傾け、彼女の指先に触れるように手を添え、互いに温もりを確かめ合う。手を握り、指を絡め、互いの視線が何度も交差するたびに胸の奥の熱が増していく。

「…私も。……やっと、やっと……」

 ソフィーの声はかすかに震え、頬を赤く染めながらも彼の存在を全身で感じる。世界の時間がゆっくりと止まったかのようだった。この瞬間、二人の間に静かな誓いが流れる。戦いに疲れ、孤独と絶望を抱えてきた日々の先に互いがいることの意味を確かに感じる。生きていること、互いに出会えたこと、それが今ここにある「肯定」なんだと。血の温もり、心の鼓動、触れ合う身体の熱――そのすべてが、生と人生の肯定を物語る。互いの瞳に映る自分が、ただここに存在していることの証明であり、永遠に消えない光となった。二人はそのまま互いを抱きしめ、胸の奥に残る熱を確かめ合うように身を寄せた。時間がゆっくりと流れ、周囲の世界は遠のいていく。

 グウェナエルがかすかに呟く。

「…やっぱり、気のせいじゃなかったんだ。君も同じ気持ちだったなんて」

 ソフィーは彼からそっと離れて小さく笑い、頬を指で押さえながら視線を少し逸らす。グウェナエルの言葉を受けて、少し照れたように。

「……うん。私も、気のせいだって思おうとしてました」

 小さく笑って、視線を逸らしながら。

「ちゃんと言葉にしようとすると……なんだか、落ち着かなくて。心が、むずむずして……」

 その時、心の片隅に刻まれたあの異国の言葉とその意味が鮮やかに蘇った。

「……覚えてますか? 最初に、あなたがかけてくれた言葉」

 ソフィーは頬を赤らめながらもわずかに意地悪く微笑む。

「もう一度、聞かせてほしいなって…思って」

 グウェナエルは一瞬眉を上げ、軽く笑った。

「……てっきり通じてないと思ってた。……こいつ、小悪魔だな」

 しかし、彼はすぐに口元を緩め、ソフィーの望み通りに甘く囁くように言った。


“Ciao, dolce gattina, la tua bellezza è come l’alba dopo una lunga notte.”


 その響きにソフィーの胸は再び熱くなる。戦いの傷や疲労の中で、あの日の甘い比喩が鮮やかに蘇る。

 ――やあ、可愛い子猫ちゃん。君の美しさは長い夜の後に訪れる夜明けのようだね。

 耳元に届くその言葉を聞きながらソフィーは微かに息をつき、心の中で反芻する。グウェナエルはソフィーの胸の動きや頬の紅潮に気づきつつ、少し照れくさそうに微笑む。

「……やっぱり。マクシムは悪魔だが、君は小悪魔だな」

 グウェナエルは笑みを浮かべたまま、少し視線を逸らしながら言った。

「港に現れた君を見たときな……正直、ひと目で惚れちまったんだ」

 ソフィーは頬を赤らめ、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じながら、そっと視線を下に落とす。彼の微笑みが、まるで温かい光のように心を包む。

 グウェナエルはくすぐったそうに肩をすくめ、少し目を細めて続けた。

「だがな、後でシャルルとメリッサに笑われたぞ。『意外だ、らしくない』って。俺に言わせれば、『ちゃんと相手に伝わる言葉でストレートに言え』――まあ、優しい忠告をもらったんだ」

 その言葉につい吹き出すも彼女の胸は高鳴り、自然と唇がさらに緩む。

「でも、ちゃんと伝わってました。あの日からずっと、私の中に残ってました」

 彼の目をそっと見上げると、彼のラピスラズリの瞳が穏やかに光を帯び、そこに自分への想いが確かに映っているのがわかった。

「…港で出逢った日から、あなたが私を見てくれてたことが、今はすごく嬉しい」

 少し恥ずかしそうに、でも正直に。

「優しくされるたびに……気づいたら惹かれてました」

 少し息を整え、頬を赤らめながらソフィーは続けた。

「正直いうと、最初に“猫と同じくらい大事だ”って言われた時は…え、猫と同列?って思いましたけど」

 小さく笑って続ける。

「冗談かと思ってました。……まさか、夜明けだなんて。でも今なら……あの言葉が、どれだけ大事だったか。ちゃんとわかります」

 グウェナエルは目を細め、微笑みを深める。わずかに肩をすくめて、少し照れくさそうに声を落とした。

「……そうか。君が気づいてくれていたのなら、俺の不器用さも悪くなかったな」

 彼の目が少し真剣さを帯び、胸の奥から湧き上がる想いを抑えきれずに、静かに続ける。

「でも……あの時とは、もう違うんだ」

 血で汚れ、傷だらけの体が痛むのに、その痛みさえ、今の想いを伝える力に変わるかのようだった。

「港で出逢ったあの日の君も、これまで共に歩んできた日々の君も、全部知っている――だからこそ、今ここにいる君の全てに惚れた。強さも弱さも、迷いも涙も、笑顔も勇気も、全部、まるごとだ」

 彼はわずかに息を吐き、肩をすくめる。痛みが胸を締めつけるたび、その感覚が、今この瞬間の生きた証をより鮮明に刻んでいった。

「……あの頃の君より、ずっと……いや、あの時にはまだ気づけなかった、今の君の輝きが、胸を打つほど綺麗だ」

 その瞳に映るのは、血まみれで傷だらけの戦士の姿ではなく、すべてを乗り越えたソフィーの光だった。胸の奥から熱がじんわり溢れ、ソフィーは微かに息をつき、視線を落とす。

「……そんなふうに言われたら、恥ずかしいです」

 それでもソフィーは頬を赤く染め、唇を少し噛む。胸が熱く、息が揺れるのを感じながらゆっくりと顔を上げる。

「でも、嬉しい。今の私がちゃんと映ってるって思えるから」

 彼女の言葉にグウェナエルは微かに笑みを深めた。そっと手を伸ばし、ソフィーの頬に触れる。その指先の温もりに、ソフィーも微かに身を寄せ、互いの体温と鼓動を感じ合う。二人だけの静かな時間が、戦場の喧騒や傷の痛みを遠くに押しやり、柔らかく、確かな愛の光に満たしていった。そこで小さく息をつき、自分の頬に添えられた彼の手に指先を添える。

「……でも、さっき囁いてくれた言葉……私、まだ返していない」

 ソフィーは唇を噛み、少しだけ俯いた。

「本当は……こんなこと言うの、すごく恥ずかしいんです。でも……今は、ちゃんと伝えたい」

 彼女は意を決して顔を上げ、紅潮した頬のまままっすぐに彼を見た。

「グウェナエルさん。私は…あなたを、愛しています」

 グウェナエルは一瞬だけ驚いたように目を見開くが、すぐに穏やかに笑い、深く頷いた。

「……ああ。ちゃんと、届いた」

 彼女をそっと抱き寄せ、微かに息を吐く。

「…君らしいな、ソフィー」

 二人は視線を絡め、額を寄せる。鼓動と息遣いが重なり、言葉にせずとも互いの想いが確かに伝わる。

「…もう少しだけ。こうしていても、いいか」

 小さく囁かれた声に、ソフィーは頬を赤らめながらゆっくりと微笑む。言葉では伝えきれない想いが静かに胸に満ちていく。再び抱き合った二人は、静かに朝陽の光を浴びながらその想いを胸に刻んだ。戦場と死の淵を越えて出会った二人の時間は、永遠に残る記憶となった。そして、グウェナエルは彼女の左手をそっと取った。静かに、躊躇いなく――薬指に唇を落とした。言葉にしなかった想いを、その動作ひとつに込めるように。温かく、優しく。互いの気持ちだけを確かめるように。

 ソフィーはその瞬間、言葉にせずとも心で応えた。痛みの向こうにある、彼の全ての想いを確かに受け止めた。

 グウェナエルは唇を離し、熱を帯びた眼差しでソフィーを見つめる。

「……ソフィー。俺の想い、全部……受け取ってくれたか?」

 ソフィーは小さく息を吐き、涙に濡れたまま、まっすぐに彼を見つめ返す。そして、静かに微笑む。

「……ええ。これで――心残りは、ないわ」

 その言葉と同時に彼女はそっとグウェナエルの左薬指に手を伸ばす。指先に触れる温もりを確かめるように優しく唇を寄せ、軽くキスを落とした。

 グウェナエルは一瞬、息を詰め、指先を見つめたまま微かな震えを感じた。これまで押さえ込んでいた理性と暴走しがちな感情が、ふと静まり返ったようだった。ソフィーの穏やかな行動に、心の奥底に眠っていた不安や迷いがほんの少しずつ解けていく。その瞳に柔らかくも強い決意の光が宿った。

 ソフィーは微かに息を整え、声を震わせず内心の高鳴りを押さえつつゆっくりと言葉を紡いだ。

「ありがとう、グウェナエルさん。…それから、グスターヴォ」

 グウェナエルは一瞬だけ驚いたように目を見開くが、すぐに柔らかく微笑み、静かに頷く。

「…今の俺も、昔の俺も…全部、受け入れてくれるんだな」

 ソフィーは頬を赤らめつつも、胸の奥から湧き上がる温かさを感じながら、揺るがぬ確信で答える。

「ええ。今ここにいるあなたも、昔のあなたも……私は、ちゃんと見ています。だからもう、迷わなくていい」

 グウェナエルは薬指に残る温もりを静かに胸に刻む。彼の心の奥底に初めて恐れではなく安心が広がる。たとえ死にゆく運命にあっても、この瞬間の確かさを胸に、彼は揺るがず旅立てると感じていた。朝陽の光が二人の間に差し込み、血や汗で汚れた衣服も、戦いの傷も、すべてを温かく包み込むかのようだった。互いの存在、人生のすべてを肯定し合う時間――抱き合いの余韻が残る中、ソフィーは涙を必死に堪えながら微笑んで言った。

「だから……見ていてください、グウェナエルさん。弱いままでも、生きていく私を」

 一瞬だけ視線が絡み合い、互いの心が確かに通じ合う。名残惜しさが胸を締めつけるが、ソフィーは強く息を吸い込み、笑顔のままその想いを振り切った。

「……行ってきます、グウェナエルさん。あなたがくれたものを…私、ちゃんと生きてみせます」

 ソフィーは踵を返し、朝陽の差す城壁通路へ一目散に駆け出していった。背中にまとわりつく痛みや恐怖よりも、いま託された未来の重みの方がはるかに彼女を突き動かしていた。走り去る彼女の姿を見つめながら、グウェナエルはそっと口元を緩めた。胸の奥の痛みは鋭く増していくのに、不思議と心は穏やかだった。

「ああ……ようやく見つけたんだな。君の、生きる道を」

 塀にもたれかかり、彼は朝日を仰ぐ。水平線から昇る光が彼の血に濡れた体を染め上げ、駆け抜けていったソフィーの背中の残像と重なっていく。その光景は戦場にあってなお“未来”を確かに感じさせるものだった。

「行け、ソフィー。君が生きる世界へ」

 深く息を吐き、唇の端に微かな笑みを浮かべる。痛みも疲労も、もはや彼を打ち倒す力はなく、胸の奥に静かに残るのはただひとつ――自分が生き、愛したという確かな証。その思いを胸に、グウェナエルは目を閉じ、朝日の光に包まれながらそっと微笑んだ。

 ――すべては、永遠に刻まれた。

 ――生きて愛した証を、永遠に。

 新たに昇る光によって、まるで世界が鮮やかに息を吹き返したかのように映る。

 グウェナエルは朝日の光に目を細め、ソフィーの姿を心に重ねながら、最後の呼吸をゆっくりと整えた。血で濡れ、傷だらけの体はもはや自分を支える力すら残していなかったが、意識だけは鮮明に、そして確かにこの瞬間を感じていた。胸の奥で、ソフィーが自分に焼き付けた生命の熱を思い返す。彼女の存在、息遣い、そして確かに自分の生命を見つめてくれたこと。すべてが、この痛みの中に温かく染み込んでいた。

 戦場での痛みも恐怖も、すべてがこの光と温もりの中で意味を持つ。

 今ここに、自分は確かに生きている。

 愛され、愛を受け取り、そして全力で生きたことの証がここにある。

 グウェナエルは朝日をじっと見つめながら最期の時を待つ。

 しばらくしてジャスパーがそっと彼の側に立ち、低く囁いた。

「…介錯をしようか?」

 朝日を浴びて赤く染まるグウェナエルの姿は戦場の英雄としての凛々しさと、ひとりの人間としての哀愁をまざまざと映し出していた。

「…ああ、早く俺を殺せ」

 声は震えず、むしろ静かに毅然と空に溶けるようだった。胸の奥で鼓動が最後の力を振り絞る。過ぎ去った日々、戦場で交わした約束、笑い、怒り、涙、そしてソフィーの言葉すべてが、熱い光とともに脳裏を駆け巡る。微かに息を吐くたび、傷口からこぼれる血が温かく、痛みは彼に生の実感を与える。生きている証。死を目前にして、はじめて世界が、あまりにも美しいことに気づいた。心の中で、ソフィーの笑顔を反芻する。あの笑顔のためなら、どんな痛みも恐れも受け入れる価値がある。彼女が駆け抜けた朝の光、力強く生きる背中。それを胸に刻み、最後の力を振り絞って立ち上がる。そしてゆっくりと膝を折り、ジャスパーの側に跪く。目の前に広がる水平線の光、海の輝き、朝日に染まる城の輪郭すべてが、彼の世界を満たしていた。

 微かな笑みが唇に浮かぶ。瞼を閉じる前の一瞬、かすかにソフィーの囁きが耳に届いたような気がした。胸に染み込むその温もりを感じ、グウェナエルは最後の息を静かに吐いた。

 血の熱、痛み、そして愛情。そのすべてを抱えたまま。

 戦士は静かに、生きた証を残して世界から消えていった。


 水平線から昇る朝日は城壁の石を黄金色に染め、血まみれのグウェナエルの体を柔らかく包み込んだ。風は静かに吹き、髪や衣服を揺らす。その一瞬一瞬が、戦場の喧騒と死の影を遠くへ押し流すかのようだった。空は茜色から淡い青へと移ろい、海面には朝日の光が瞬きながら反射している。彼の存在が消えたあとも、その背中に残った温もりと勇気の痕跡は光の粒子の中に溶け込み、世界の一部として静かに息づいていた。ソフィーの存在、彼女が抱いた「生きていてほしい」という想い。それは彼の命を超えて、この朝に永遠の輝きを宿した。静寂と温もりが同時に押し寄せ、戦士の死の厳粛さと、人生の肯定がこの光の中に深く刻まれる。そして、遠くで波が寄せては返す音だけが聞こえる。世界は確かに回り続け、どんな闇夜にもやがて朝がきて、光を運んではまた新しい日々を生み出す。

 彼は去った。

 ……それでも、彼の生きた証は黎明とともに輝き続けていた。

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