第四章 血とインクの誓い

 ソフィーの自室。午後の光が窓から差し込み、机の上に散らばる書類や地図を淡く照らしていた。マクシミリアンは静かに扉をノックし、奥へと足を踏み入れる。部屋の空気は静かで、その沈黙には不穏な緊張が漂っていた。ソフィーは書類に目を落とし、呼吸を整えながら机に向かっていた。彼女の肩越しに感じる気配に、マクシムはすぐに存在を知らせることなく数歩距離を詰めて立つ。

「ソフィー、少し話がある」

 声は低く端正な緊張感を帯びていた。ソフィーは一瞬だけ顔を上げ、微かに眉をひそめる。彼の瞳の奥には部隊長としての鋭さと、どこか復讐者めいた執着が見え隠れしていた。

「……はい。何でしょうか」

 ソフィーの声はかすかに震えていた。まだ頭の中で昨日の出来事が渦巻いている。エリオットとの対話、ラウルの真実、首飾りの意味……感情は整理のつかない糸のように絡み合い、ひとつに結びつかないままだった。

「教えてほしいんだ、昨日のことを」

 マクシムの口調には一歩も譲れない決意が含まれていた。彼の手は机に置かれた書類にそっと触れ、視線は揺るがずソフィーを捕らえていた。部隊長としての責任感が復讐者としての欲求と絡み合い、彼の全身に緊張を走らせている。

「……それは、言えません。エリオット大元帥との間のことは、患者としての秘密です。私が知っていることを話すことは、信頼を裏切ることになります」

 ソフィーはそう答えると、視線を落として再び書類に向き直る。守秘義務を盾に少しでも距離を取ろうとするその姿勢には、まだ心の混乱と恐怖が透けていた。

「守秘義務? でも、僕には知る権利があるはずだ」

 マクシムの声は低く強さを帯びていた。彼の眼光がソフィーを射抜く。

「……わかってください。大元帥は今も患者です。弱っている彼に対する気持ちを裏切ることは、私にはできません」

 ソフィーの声は強くはあるが、かすかに震えていた。彼女の手がペンを握る指先に力を入れる。守秘義務という言葉の裏に、彼女自身の感情の壁があった。マクシムの問いかけの鋭さは、ただの好奇心ではない。何か大きな悲しみや怒りの火種を抱えた目で自分の心を突き崩そうとしているのだと、ソフィーは感じていた。

「弱ってる患者のことを考えるのは当然だ。でも……僕には、その“真実”を知る必要があるんだ」

 マクシムの声は低く断固とした響きを持っていた。彼の視線は揺らがず、まるで自分の言葉の重さをソフィーの胸に直接打ち込むようだった。ソフィーはしばし無言でペン先を机の上に置き、深く息を吸う。感情の整理がつかぬまま彼の目の前で微かに震えた。

「……それでも、私は話せません」

 ソフィーの声は小さいが、断固としていた。机に置かれた手は微かに震えている。マクシムはそれを見つめながらも手を下ろさず、ただ彼女の決意を確認するように立っていた。室内の空気は静かに張り詰め、沈黙が続く。お互いの思惑、執念、そして守るべきものと知りたいものが見えない線で交差する。ソフィーはまだ心の中で整理がつかず、マクシムはその不意の脆さに胸を打たれるが、彼の探求心と復讐心は決して揺らがない。


 宿舎の医務室。窓から差し込む光は柔らかく、床に並ぶ薬瓶や医療器具を淡く照らしている。ソフィーはベッドの端に座り、膝を抱えて目を伏せていた。日記を書き終え少し落ち着いたかと思われたが、心はまだ整理できず手のひらで額を押さえて深く息をつく。そのとき、扉が開いてマクシムが静かに入ってきた。表情には苛立ちの色が含まれ、足音は控えめながらも確かな存在感を放っている。

「聞いたよ、司令部では大元帥がもう執務に復帰したって噂だ」

 マクシムの声は硬さがあった。ソフィーは顔を上げ、ゆっくりと視線を向ける。胸の奥がざわついて息が一瞬止まる。

「……それが、どうかしたのですか?」

 ソフィーは言葉を選ぶように答えた。心の奥にある混乱をどう整理していいかわからず、逃げるように視線を落とす。

「どうしたもこうしたもない。君が知っていること、全部教えてもらう必要がある」

 マクシムの声は少し苛立ちを帯び、部隊長としての厳しさが滲む。机の角に軽く手を置き、視線をソフィーに釘付けにした。二人の間に微かな圧力が生まれ、空気が重く垂れ込める。

「まだ、整理できていないのです。私はまだ……」

 ソフィーは声を震わせ、必死に言い訳する。胸の奥で感情が渦巻き、昨日の涙の余韻もまだ残っている。

「整理できていない? そんな言い訳は通じない!」

 マクシムは声を張り上げる。短く鋭いその言葉は、ソフィーの心の防壁に深く突き刺さる。苛立ちと復讐心が交錯した瞳は静かな医務室の空気を圧迫する。

 ソフィーは息をのみ、視線を落としたまま言葉を失う。心臓が早鐘のように打ち、唇が震える。彼女の中で、守秘義務という言葉と感情の整理が天秤のように揺れ動き、どちらも手放すことができない。

 マクシムはそのわずかな沈黙を見逃さず、さらに一歩距離を詰める。彼の体温と意志の強さが、ソフィーの胸に微妙な圧力として伝わる。

「話さなくてもいい……と思うかもしれない。でも、それでも知りたいんだ、ソフィー」

 彼の声には苛立ちだけでなく、焦燥と切実さが混じる。ソフィーはわずかに顔を上げ、震える瞳でマクシムを見つめる。二人の間に張り詰めた空気は言葉以上の緊張感を孕んでいた。


 微細な事件――司令部の噂、そして宿舎でのこの対峙――が、二人の関係に静かに火を灯す。


 宿舎の自室。日が傾き、窓から差し込む光は淡く、机の上に散らばった紙や日記を照らしている。ソフィーはいつもの習慣のようにペンを走らせ、今日の出来事や心のざわめきを書き留めていた。言葉にすることで自分の混乱を整理しようとしているのだ。しかし、その静寂は突然破られた。扉が勢いよく開き、マクシムが一歩踏み込んできた。表情には焦燥と苛立ちが入り混じっている。

「ソフィー、話がある」

 ソフィーは顔を上げ、驚きとともに少し身を引く。胸の奥が小さく締め付けられ、手の震えが止まらない。

「……今は、職務に集中したいのです」

 彼女は声を張り、ペンを握る手に力を込める。日記やメモに没頭することで、感情の揺れを抑えようとしていた。しかし、マクシムはそれを許さない。

「集中する? でも、君が何を隠しているのか知る必要がある!」

 言葉は鋭く、部屋の空気を切り裂くようだった。マクシムの焦りと苛立ちはただの上官としての叱責ではなく、復讐者として、そして守る者としての切実な想いから来ている。ソフィーは机に伏せたまま視線を逸らす。心の中ではまだ整理できない感情と、守秘義務の意識が激しく衝突していた。手のひらで顔を覆い、声にならない息を漏らす。

 マクシムはその一瞬の沈黙を待たず、さらに一歩近づく。部屋に漂う緊張は日常の静けさを打ち破り、二人の関係に小さな亀裂を刻み始める。

「逃げるな、ソフィー。僕はただ……理由を知りたいだけじゃない、理解したいんだ」

 声には怒りと焦燥だけでなく、切実さが含まれている。ソフィーの防衛本能はさらに強く働き、わずかな息遣いさえも震えさせる。机の上のペン先が紙を擦る音だけが、二人の間の静寂をかすかに埋める。その沈黙は言葉にできない緊張の重さを増幅させ、日常の中に潜む衝突として自然に浸透していった。


 宿舎の中庭。沈みかけた夕日が石畳に長い影を落とし、赤い光だけが二人の距離をなぞる。風が一度だけ吹き、ソフィーの髪先を揺らした。その瞬間、張り詰めた空気が抑え切れなくなる。

 マクシムは呼吸を整えようとしながら、一歩だけ彼女に近づく。その足音に、ソフィーは反射的に半歩、後ろへ下がった。

「……真実を話してくれないなら、それでもいい」

 押し殺した声はかすかに震え、胸の奥で何かを抑えているのが伝わった。

「けど……頼む。こっちの話だけは、聞いてくれ」

 ソフィーの瞳が細くなる。息が熱く荒くなり、胸の奥で何かが煮立つ。

「理解したいと言いながら突然引き下がる。――それで、聞け? 横暴にもほどがあります」

 その声音には怒りだけではなく、積もり積もった焦燥と傷つきが混ざっていた。

 マクシムの眉がわずかに動き、唇が言葉を探すように開くが、答えが出てこない。沈黙が突き刺さるように落ちる。

「あなたの本性がようやく見えました」

 ソフィーは目を逸らさずに言い放った。

「嵐の日に私を突き飛ばし、別の人生を歩めと言った。あの冷酷さは、仮面でも何でもなかったんですね」

 マクシムの喉がぎゅっと鳴る。その言葉が胸に突き刺さったらしく、拳が震えた。

「ソフィー、それは──」

「言い訳はいりません!」

 声が弾け、夕空に鋭く跳ねた。

 ソフィーは胸にこもった痛みを押し出すように、続ける。

「優しさのふりをしているだけ。結局、心の中は何も変わっていない。あなたはあの日と同じ……氷の人間だわ」

 マクシムは息を呑む。血の気が引くのがわかるほど、顔色が淡くなった。

「……そんなに酷いことを言えるなら、海賊のままの方が良かったんじゃないか」

 彼は自分の口からこぼれた言葉に、言った瞬間固まった。ソフィーの表情が、痛みでひび割れる。

「…だったら、私が海軍に戻ってきてさぞ不愉快でしょうね」

 その声は震えていた。怒りで、失望で、そして何より――深い傷で。

「私は、この世に存在しない方が良かったんです」

 マクシムの体がびくりと震える。足が無意識に前へ踏み出しかけ、それでも怖れるように止まった。指先は空を掴むようにわずかに開き、声が喉に詰まって擦れる。

「違う、今のは……違うんだ。頼む、聞いてくれ、ソフィー」

 しかしソフィーの瞳は冷たいまま、怒りの奥に涙の気配を抑え込んでいた。彼女は後ずさりし、影の中へ足を踏み入れる。夕日の赤はもう彼女に届かない。

「もう、話すことはありません」

 その一言でマクシムの胸が完全に凍り付いたように動かなくなる。彼女は振り返らずに中庭を抜け、階段を駆け上がり、自室の扉を強く閉じた。残されたのは夕暮れの静寂と、石畳に落ちた長い影だけ。

 マクシムはその場に立ち尽くし、言葉も息さえも失ったまま、自分の失言が刻んだ亀裂の深さにただ呆然とするしかなかった。


 扉が背後で鈍い音を立てると、ソフィーの膝から力が抜けた。支えもなく、その場にゆっくりと崩れ落ちる。呼吸が乱れ、胸の奥が焼けるように痛む。

「……なんでよ……なんで、わたし、こんな……」

 涙が視界をにじませ、床に落ちるたびに微かな音がした。抑えていた怒りの熱と、言い切れなかった想いの重さが一気にこぼれ出す。

 ――信じてほしかっただけなのに。

 そんな単純な言葉すら、さっきは喉から出てこなかった。

 ソフィーは唇を噛みしめ、震える手で胸元を押さえた。

「……ばか……っ」

 涙の音に紛れて悪態がかすかに漏れる。足元に影が落ちる。廊下の灯りが揺れ、ソフィーの肩をそっと照らした。彼女は顔を両手で覆い、声もなく泣き続けた。

 扉の前で崩れ落ちて泣いた数分後――涙は止まっていた。代わりに、胸の奥底で別の熱がむくりと起き上がる。

「……こんなふうに泣いて終わり? 違う。違うわよ」

 ソフィーは袖で乱暴に涙を拭い、ゆっくり立ち上がった。膝はまだ震えていたが、それでも目は怒りの色を取り戻しつつあった。深く息を吸い込む。吐き出すときには、もう迷いの欠片もなかった。

「あの人の近くにいたら、また同じ傷を広げるだけ……なら、距離を置けばいい」

 そう結論づけた瞬間、心の奥で重い錨が外れたようだった。


「え、ここを出ていく?」

 ジョルジュがそう呟いたきり、室内は凍りついた。

 ソフィーは小さな旅行鞄を机の上に広げ、衣服や本、必要な道具を手際よく詰め込んでいた。表情は怒りに染まり、頬には紅潮が残っている。

「ええ。もうあの人とは一緒にいられない。顔を見ているだけで、息が詰まる」

 ソフィーの声は震えていたが、涙ではなく怒気に満ちていた。

 ジョルジュは戸口に立ったまま、彼女の勢いに飲まれつつ口を開いた。

「待てよ、ソフィー。ケンカくらい誰にでもあるだろ。落ち着けば――」

「これはケンカなんかじゃない!」

 ソフィーは鋭い声で遮った。

「本気なんですか?」

 リゼーヌがようやく絞り出した。

「ええ、本気よ」

 ソフィーは鞄に荷を詰め続けた。声には怒気が混じり、涙の気配は一片もない。

 スザンヌが思わず一歩近づき、震える声で問いかける。

「ソフィーさん……何があったのですか?」

「……あの人は私に言ったのよ。海賊のままでよかった、と。つまり私が海軍に戻ってきたこと自体、迷惑だったの」

 ソフィーはようやく振り返り、烈火のような視線を三人に向けた。

「そんな場所に居続ける理由なんて、どこにあると言うの?」

 手が震え、鞄に押し込む動作は乱雑さを増していく。だが止められなかった。

「私は……私はここから出る。ブレスト司令部の医務室なら、空きベッドがあるはず」

 ジョルジュも、スザンヌも、リゼーヌも――ただ立ち尽くし、目の前の光景を呑み込めずにいた。声をかけるべき言葉は浮かばず、口を開いては閉じるばかり。

 ソフィーは誰の顔も見ずに荷を詰め続ける。やがて鞄の口を力強く閉ざし、低く言い放った。

「私は司令部の医務室に移ります。ここはもう、私の居場所じゃない」

 その一言を残して、鞄を抱えた彼女は部屋を出ていった。残された三人は、互いに目を合わせることもできず、ただ呆然とその背中を見送るしかなかった。


 ソフィーは鞄を抱えたまま、宿舎の廊下を強い足取りで歩いた。重苦しい沈黙が自室を覆っていたことも、背中に注がれる視線も、いまは気にしていられなかった。宿舎の出入り口に差しかかったところで、不意に影が差す。

「…あら、出かけるの?」

 壁際に寄りかかっていたアニータが、片眉を上げて彼女を見ていた。

「……ええ。ブレスト城の医務室に寝泊まりします」

 ソフィーは短く答える。

 アニータは少し驚いたように目を細め、すぐに含み笑いを漏らした。

「なるほどね。喧嘩したんだ」

 ソフィーは足を止めたが、アニータの視線を避けたまま何も言わなかった。

「まあ、あなたが黙ってるってことは図星ね。…でもさ、隊長も隊長で不器用だから。少し距離を置くのも悪くないかも」

「……」

「大丈夫よ、あなたがいなくても隊は回る。それに、私がみんなの健康を見る。だから、自分の気持ちを優先しなさいな」

 ソフィーは返事をしなかった。ただほんの一瞬だけアニータに視線を向け一礼してから、すぐに外の石畳へと歩み出した。

 ――夜風が頬を打つ。

 怒りに燃える心を冷やすことはできないが、それでも足は自然とブレスト城へと向かっていた。夕暮れの石畳を、ソフィーはまるで地面を蹴るように強い足取りで進んだ。胸の奥に渦巻く怒りと絶望が、彼女を突き動かしている。

「ソフィー」

 背後から声が飛ぶ。グウェナエルだった。振り返らず、ソフィーは吐き捨てるように言った。

「止めないでください。私はもう戻りません。…あの嵐の日に、あなたが私に突き刺した言葉を思い出します。どうせあなたは、今でも隊長の方が大事なのでしょう?」

 そのまま歩き出そうとしたソフィーに、グウェナエルの声が追いかけてきた。

「今、隊長のことはどうでもいい」

 足がかすかに止まる。振り返らずにいる彼女の背に向かって、グウェナエルはゆっくり言葉を重ねた。

「出ていくお前が心配で声かけただけだ。お前がどこへ行くかはわからんが……もし帰りたくなったら、今度こそ歓迎する」

 ――その言葉は、かつて彼女が隊に戻ったときに浴びせられた冷たい態度とは正反対だった。

 ソフィーの胸の奥に、強く押し殺していた何かがかすかに揺れる。

 だが彼女は振り返らなかった。ただ無言で、再び前を向いて歩みを進める。


 石畳に響く靴音だけが、二人の間に残された。


 城門をくぐると、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。石畳を踏みしめ、医務室への長い回廊を進む。高い天井に灯された燭台の炎がゆらめき、足音だけが虚しく響いた。

 やがて扉の前に辿り着く。

「……」

 ソフィーは一度だけ振り返った。暗い夜空が遠くに見え、海の匂いがわずかに漂う。彼女は静かに扉を押し開けた。そこは薬草の匂いと清潔な白布に包まれた、無機質な空間だった。鞄を椅子に下ろし、大きく息を吐いた。

「今夜から、ここが私の部屋」

 声に出してみると、思いのほか寂しさが胸に迫った。だが、あの隊に戻る気持ちは今の彼女にはなかった。


「……ソフィーが出て行った?」

 シャルルの声が執務室に落ちた。驚愕というより、現実を受け止めきれず、言葉を反復するような硬さがあった。

 マクシムは机の書類から顔を上げず、沈黙で答えた。その重さに、室内の誰もが息を殺す。

「ジョルジュから報告があったわ」

 リラの声は静かだが、まるで鋭利な刃のように張り詰めていた。副官の立場を超え、長年の軍歴に裏打ちされた先輩軍人の威厳が漂う。

「――ソフィーは“家出”した、と」

 マクシムの手が机の上でぴくりと止まった。

「……事実か、マクシミリアン」

 呼び捨ての声には、上官でも部下でもない、かつて同じ戦場を駆け抜けた者同士の真正面からの詰問が宿っていた。

「…………」

 マクシムは深く息を吸い、背凭れに沈む。

「……はい。おれのせいです」

 低く押し殺した声が、室内の空気を震わせた。

 リラの眼差しは氷のように鋭い。だがその奥に、かすかな憂慮が光る。

「事情を聞かせて」

 沈黙の張り詰めた室内で、シャルルさえ口を挟めない。

 その時、扉が二度ノックされる。

「失礼します」

 ダヴィットが入室し、眉間に皺を刻みながらマクシムへ視線を向けた。

「他の者から聞いた。――ソフィーが宿舎を去ったのは本当か」

 マクシムは掌で顔を覆い、言葉を探す。

「……言い争いになったんです。ソフィーは守秘義務で話せないと言った。彼女の心を理解したかったが、それでも僕は食い下がった」

 声は低く、しかし一言ごとに自己嫌悪が混じる。

「そして……あの嵐の日のことを、彼女が持ち出した。僕が彼女を突き飛ばし、冷酷だと罵った、と。そこで……」

 マクシムは目を伏せた。

「……『いっそ海賊のままでよかったんじゃないか』と、言ってしまった」

 室内の空気が一瞬で凍る。リラもシャルルも息を呑む。

「ソフィーは僕の言葉を、自分自身の存在を否定されたと受け取った。怒りと悲しみを残して、出て行ったんだ」

 しばしの沈黙。

 ダヴィットの瞳がぎらりと光る。

「――ちょっと来い」

 マクシムが立ち上がると、襟を乱暴に掴まれ、次の瞬間、鈍い音とともに頬を殴られる。

「貴様、それでも隊長か!」

 ダヴィットの怒声が執務室に響き渡る。

 胸倉をつかまれ、目の前の怒りの熱を全身で受け止めるマクシム。返す言葉はなく、ただ拳の痛みだけが現実を刻む。

「部下を守る立場だろうが! 自分の感情で何を傷つけている! お前の一言で、ソフィーがどれだけ傷ついたか分かっているのか!」

 息がかかるほど近い距離で、ダヴィットの声は怒号となった。

「嵐の日のことを持ち出されて、逆上して……そんなのはただの逆ギレだ!」

 マクシムは目を逸らさず、その視線を真正面で受ける。

「お前が何を背負っていようと関係ない、彼女に向かって『海賊のままの方がよかった』だと? ――ふざけるな!」

 リラもシャルルも立ち上がりかけるが、止めに入れない。ダヴィットの怒りが正しいことを、誰もが理解していたからだ。

「ソフィーはお前を信じて戻ってくれたんだ。それを踏みにじって何が隊長だ!」

 ダヴィットは拳を振り下ろさず、代わりにマクシムを胸倉から突き放す。

 マクシムは背を執務机にぶつけ、重い音を立てて揺れた。

 リラがゆっくりと立ち上がり、二人の間に歩み寄る。

「もういい。ダヴィット、気持ちはわかるわ。でもこれ以上は無意味」

 ダヴィットが反論しようとする声を遮り、リラは静かに続けた。

「マクシミリアンの発言は問題。でも、彼女に何があったか直接聞けばいいと助言した私にも責任がある」

 部屋の空気がわずかに和らぎ、マクシムも唇を結ぶ。ダヴィットもまだ怒りを抱えつつも口を閉ざす。

 リラはそのままマクシムを真っ直ぐに見据えた。

「君も覚えておけ、マクシミリアン。隊長として言葉を選ぶのは義務だ。だが、誤ったのなら、正す機会もまた与えられるべきだ」

 マクシムは唇を結び、深く俯いた。

 リラの言葉に、まだ憤りを抱えたままのダヴィットも口を閉ざした。執務室の空気が重い沈黙に包まれる。その沈黙を破ったのはシャルルだった。

 シャルルが椅子から腰を上げずに低く確信を帯びて言う。

「今は追うべきじゃない。彼女は怒りの中にいる。追いかければ、互いに言葉を重ねて傷を深めるだけだ」

「…では、どうすればいいのですか?」

 マクシムの声は掠れていた。

 シャルルは一拍置き、静かに続ける。

「頭を冷やす時間を与えるんです。……彼女が自分で歩み寄れる余地を残さなければ、戻れる道も失われます」

 リラが頷き短く付け加える。

「でも……忘れるな、マクシミリアン。君の言葉が刃となった責任は、最後まで背負うべき」

 マクシムは唇を噛みしめ、黙して答えなかった。リラの言葉が落ち着きを取り戻させるように部屋に染み込み、再び沈黙が訪れた。その沈黙を破るの、やはりシャルルだった。

「……マクシム」

 彼はいつもの穏やかな声音ではなく、敢えて距離を置くような硬さを帯びた声で呼びかけた。

「君はそろそろ、決断すべき時に来ているんじゃないか?」

 マクシムが顔を上げる。鋭い問いに、胸の奥がざわめいた。

「復讐を遂げることと、ソフィーを守ること」

 シャルルの瞳は深い湖のように揺らぎなく、冷静だった。

「どちらも成し遂げたいと願うのは分かる。だが、両方を同時に背負おうとするから君は迷い、言葉を誤り、彼女を傷つけた」

「……」

「どちらも抱えて進む余力がないなら、どちらかを選べ」

 彼の声は刃のように静かで容赦がなかった。

「大元帥への復讐か。ソフィーを守ることか。――君の歩む道を、今度こそはっきりさせろ」

 マクシムは答えを返せず、拳を膝の上で握りしめた。心臓が重く、胸を圧迫する。復讐も、彼女も、どちらも手放すことは考えられない――だが、どちらかを選べという言葉は、確かに心の急所を突いていた。再び静寂が訪れる。しかし、その沈黙を破ったのはシャルルでもリラでもなく、ダヴィットの疑問の声だった。

「大元帥への復讐? どういうことだ、マクシム……」

 その問いにマクシムは一瞬言葉を失う。だがリラが静かに口を開いた。

「ダヴィット、落ち着いて聞いて。マクシミリアンが海軍に入ったのは、ゼフィランサスを殺したエリオット・ド・レオパードへの復讐を遂げるためなの」

 ダヴィットの顔が一瞬硬直する。

「ゼフィランサスはかつて多民族集団を率いていた。そこへエリオットによって、マクシミリアンは大切な人々を奪われた。復讐のため、長い歳月をかけて海軍に入り込んで、機会をうかがっていた」

 部屋の空気が震える。だが、ダヴィットの反応は静寂を裂くほど鋭かった。

「……じゃあ、今までの行動は全部、復讐のためだったってことか?」

 声が震えていた。怒りか、悲しみか、自分でも判別できないまま。

 マクシムが顔を上げるより早く、ダヴィットは息を荒げて言葉を絞り出した。

「俺は……海軍に入ったのは、誰かを殺すためじゃなかった。海賊に家族を奪われた。でも復讐が目的じゃなかった。——姉さんが戦うと言うなら俺も戦うって、ただそれだけだった!」

 リラが目を見開く。

「ダヴィット……」

「なのにマクシム、お前は……!」

 ダヴィットの拳が震える。

「俺たちと同じ場所にいながら、ずっと別の炎を胸に抱えてた。そんな重大なこと、どうして言わなかった!」

 マクシムは息を吸い、反論しようとした。

「言えば、君たちを巻き込む——」

「巻き込んでんだよもう!」

 ダヴィットの声が鋭く跳ねた。

「これだけ一緒に戦って、同じ船にいて、同じ隊にいて……俺たちは“仲間”じゃなかったのか?」

 一瞬、室内が沈黙に縛られた。

 リラが口を開きかけるが、ダヴィットは姉に向けても刃を向ける。

「姉さんもだよ。どうして俺に言わなかった?俺は子ども扱いされるほど弱くない。あんたが守るために隠したって言うなら……俺は何のために海軍に来たんだよ」

 リラの眉がわずかに揺れた。その揺れを見たダヴィットはさらに痛ましい声で続けた。

「……姉さんと同じ場所で戦うためだよ。たとえ相手が国家でも、大元帥でも。俺は、姉さんが選んだ戦いから逃げるつもりはない」

 その熱にリラもマクシムも完全に言葉を失った。

 ダヴィットの胸の奥に溜まっていたものが初めてあらわになる。

 誇りとも、恐れともつかない、ひどくまっすぐな叫びだった。

 ダヴィットの叫びが部屋に響いたあと、重たい沈黙がしばらく落ち続けた。

 だが、その沈黙を破ったのはマクシムだった。

「……ダヴィット。君を信じていなかったわけじゃない」

 その言葉が火に油を注いだ。

「信じてたなら隠さないだろうがッ!」

 ダヴィットの声が爆ぜ、足が一歩踏み出される。床板が軋むほどの勢いだった。

「俺はお前の下で戦ってきた。命令には従い、信頼してきた。なのに、そんな大事なこと……何で俺だけ知らないままだったんだ!」

「君だけじゃない。誰にも話していない」

 マクシムの声は冷静に聞こえるが、その奥は揺れていた。

「俺たちは“隊”だろッ!姉さんには話してたんだろ!?なら何で俺には言わなかった!」

「子ども扱いしているわけではない。ただ——」

「ただ、俺が足手まといになるとでも思ったのかッ!」

 ダヴィットの怒号にマクシムの眉が僅かに動く。

「……そうじゃない」

「じゃあ何だよ!言えよ、マクシム!」

 ダヴィットは胸倉を掴む勢いで近づいた。だがマクシムは一歩も退かず、視線だけで受け止める。

「君には、守るものがあるからだ」

「は……?」

 怒りが一瞬、戸惑いへ変わる。

 マクシムは淡々と続けた。

「君は家族を失ったあとも、復讐に走らなかった。リラの背中を追い、彼女を守るために海軍へ入った。その信念を……巻き込みたくなかった」

 ダヴィットの表情が歪む。

 怒りか、悲しみか、自分でも判別できなくなるほどに。

「……ふざけるなよ」

「ダヴィット——」

「ふざけるなって言ってんだよッ!!」

 ついにダヴィットの拳がマクシムの胸を強く押し返した。殴る一歩手前の衝動。

 空気が震える。

「守るものがあるから巻き込まない?それを決めるのは俺だッ!勝手に俺の覚悟を代弁するな!」

 マクシムの目がわずかに揺れる。

「……君が傷つく必要はない」

「あるんだよッ!!」

 怒鳴り声が部屋の天井さえ震わせた。

「姉さんが戦うなら、俺も戦うって決めたんだ!国家でも、大元帥でも、地獄でも関係ねぇ!あんたが復讐に向かうのを、俺は止めない。でも——“仲間”から外されるのは、耐えられねえ!」

 その告白は荒れ狂う怒りの奥に隠れていた本音だった。

 マクシムは息を呑んだ。返そうとした言葉は——届かなかった。

 なぜならその瞬間、リラが割って入ったからだ。

「二人ともやめなさい!!」

 リラの声が烈風のように吹き抜けた。その鋭さは海軍副官ではなく、“姉”としての叫びに近かった。二人の間に立ち、ダヴィットを手で押し返し、マクシムを静かに睨む。

「この場で怒りをぶつけ合っても、誰も救われないわ」

 ダヴィットが息を荒げたまま言う。

「けど姉さん……!」

「ダヴィット!」

 リラの叱責が一閃する。

「あなたの気持ちは分かる。でも怒りに任せて言葉をぶつければ、マクシミリアンと同じ過ちを繰り返すだけ!」

 ダヴィットは歯を食いしばり、拳を握る。

 マクシムもまた静かに立っているが、その肩はわずかに震えていた。

 二人の体温がぶつかりあう中、リラが息を整えて続ける。

「マクシミリアン。あなたは確かに彼を巻き込みたくなかったんでしょう。でもそれは——彼を信頼していなかったのと同じことよ」

 マクシムが言葉を失う。

「ダヴィット。あなたの怒りは当然。でも、マクシムが抱えてきたものを、今すぐ理解できるとも思ってはダメ」

 リラの言葉は痛烈だったが、どちらの肩にも等しく刺さった。

 重く息を呑む音が部屋に落ちる。

 そして最後に——

 沈んだ声でシャルルが口を開いた。

「……ここまでだ」

 その一言は海図の上に引く境界線のように淡々としていたが、部屋の空気を一瞬で鎮めた。

 シャルルは椅子からゆっくり立ち上がり、三人を静かに見渡す。

「今、この瞬間に結論を出そうとしても無駄。全員、心が荒れたまま。会話ではなく、傷つけるための言葉が出るだけだ」

 そして、ふっと息を吐くように告げる。

「今日は解散です。冷静になれるまで、互いに距離を置きなさい。——これは“仲間を見てきた者”としての判断だ」

 その穏やかながら断固とした声に、三人はようやく動きを止めた。

 怒り、後悔、戸惑い、痛み。

 それぞれの胸に渦巻くものを抱えたまま、ただ沈黙だけが、部屋に残った——。

 執務室を飛び出したダヴィットは、誰もいない廊下の柱に背を預け、ずるずると座り込んだ。怒りの熱がまだ胸の奥で暴れている。だが、その熱を押し流すように、別の感情が溢れ始めた。

「……くそッ……」

 唇を噛みしめた瞬間、涙が零れた。

 止めたかった。

 怒鳴りたくなんてなかった。

 本当は、ただ一言——「俺を置いていかないでくれ」と言いたかっただけだ。

 拳を握り、額を膝につけて小さく震える。

「姉さんも……マクシムも……俺、いつまで経っても追いつけねぇな……」

 自分だけが後ろに取り残される。その悔しさと情けなさが、涙とともに石畳に落ちて染み込んだ。

 執務室の片隅、誰もいなくなった席に腰を下ろすと、リラは静かに両手を組んだ。

「……あの子を追い詰めたのは、私」

 マクシムがソフィーに踏み込む前に、「直接聞けばいい」と進言したのは自分だ。

 その結果、二人は崩れ、隊も揺れた。

 自分は副官として正しい判断をしたのか——

 それとも、仲間を壊しただけなのか。

 胸の奥で鈍い痛みが広がる。

「私が……もっと慎重でいられたら……」

 言いかけて唇を押さえた。

 責任は自分だけではないと分かっている。

 だが、それでも自分が“引き金”だった事実は消えない。

 彼女は深く頭を垂れた。落ちる影は壁に揺れる灯火よりも重かった。

 シャルルは廊下をゆっくり歩きながら、胸の奥に冷たい波が押し寄せるのを感じていた。静かに息を吐く。

「このままでは……壊れる」

 ソフィーの家出。

 マクシムの心の裂け目。

 ダヴィットの怒り。

 リラの迷い。

 どれも積み重なった疲労の果てに生まれた“亀裂”だ。

 この隊は出会った頃から家族のように寄り添ってきた。

 だからこそ、揉め事一つが致命傷になり得る。

「……止められるのは、ぼくしかいない」

 静かに肩の力を抜き、空を仰ぐ。海風の匂いが遠くから届き、胸に刺さった緊張を少しだけ溶かした。だが、それでも確信は失われない。

 ——ここが分岐点だ。

 ここで踏み外せば、この隊は二度と元には戻れない。

 シャルルは拳を握り、背筋をまっすぐ伸ばす。そして、静かに自室へ戻っていった。

 全員が去ったあと。

 執務室には燭台の炎の揺らぎだけが残っていた。

 マクシムは机に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。

 強く握りしめた手は震え、先ほど掴まれた胸倉の感触がまだ皮膚に残っている。

「……ソフィー……」

 名前を呼んだ途端、胸が裂けるように痛んだ。

 怒らせるつもりは……なかった。

 ただ、知りたかった。

 理解したかった。

 守りたかった。

 だが結局、自分の言葉が彼女を追い出した。

「おれは……何をやっている……」

 ついに膝が折れ、椅子に深く沈んだ。額を手で覆い、呼吸を整えようとするが、胸の奥から湧いてくる後悔が止まらない。

 あの日の嵐の記憶が、頭を過ぎる。

 彼女を突き放したあの瞬間。

 そして、今日の自分の言葉。

「また……同じことを……」

 マクシムは顔を伏せ、こぼれ落ちたものが床に小さな音を立てた。

 孤独と後悔が、静かに執務室を満たす。

 だが、涙を拭うと同時に胸の奥では別の炎が静かに燃え始めていた。

 怒りでも、悲しみでもない。

 もっと深い、揺るぎないもの。

 机の上の海図に視線が落ちる。

 その中心には——

 赤いインクで記された“ある名前”。

 エリオット・ド・レオパード。

 マクシムは手を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。

「…そうだ。全ては海軍、そしてエリオットへの復讐のためだ。今もその道を止めるつもりはない」

 膝の上の拳を少しだけ緩め、沈黙の中で視線を落とす。そして低く、力強く言う。

「……おれは、島のみんなの想いを背負ってここまで来たんだ」

 決意の炎が静かに燃え上がる。

「ならば――復讐あるのみだ」

 その響きが室内の暗がりに沈んでいくにつれ、マクシムの内側でひとつの線が静かに断ち切られた。

 守ろうと伸ばした手は届かず、離れていったものの温もりだけが残酷に指先に残っている。

 その喪失が、彼を“奪う者”へと緩やかに確実に押し上げていった。

 夜気に包まれた執務室の中、彼の影だけがひどく長く、深く伸びていく。


 マクシミリアン・ブーケは、復讐の航路へと舵を切った。


 夜は深く、ブレスト城の廊下は静まり返っていた。執務室の窓辺には燭台の炎が揺れ、机に伏せられた報告書の山が影を落としている。

 その中で、まだペンを走らせている男がいた。

 海軍大元帥エリオット・ド・レオパード。

 目の下には薄い隈が滲み、その姿勢は崩れない。

「……失礼いたします」

 扉を叩く声と共にアルフォンスが入室した。

 彼の手には重々しい封蝋が施された一通の書簡がある。

「陛下からの書状です」

 差し出されたそれを受け取ると、エリオットの瞳がかすかに鋭さを帯びた。

 蝋に刻まれた王宮の紋章――何度も見慣れた印象でありながら、やはり背筋を伸ばさせる重みがある。

 封を切り、目を走らせる。

 まずは戦勝への労いと感謝、そして「今後も健やかであるように、過労だけはするな」との文言。

 エリオットは小さく口元に笑みを浮かべ、やれやれと息を吐いた。だが、読み進めていくうちにその表情が渋く硬直する。

「……“今こそ、サン・マロを奪還せよ”……か」

 低く呟いた声が執務室に重く落ちた。

 サン・マロ――海賊や無頼の温床として長く放置されてきた地。

 容易に手を出せる場所ではないことを、彼は痛いほど知っている。

 王の追伸には「近いうちに討伐隊を派遣せよ」とあった。

「……やはり来たか」

 エリオットの瞳は苦く揺れ、机上に書簡を置いた。

 アルフォンスが不安げに視線を向ける。

「大元帥……」

「軽々しく触れてよい地ではない。だが――陛下の勅命とあれば、拒むこともできまいな」

 エリオットの吐息には深い疲労と諦念が滲んでいた。わずかに沈黙が流れる。やがて彼は姿勢を正し、静かに言った。

「明日、イザベルとユルリッシュを呼ぶ。三人で会議だ」

「承知しました」

 アルフォンスは即座に一礼した。

「大元帥……夜も更けております。どうか今夜はお休みください」

 忠告めいた声には主を案じる響きがあった。

 エリオットは小さく笑い、手を軽く振った。

「心配性だな、アルフォンス。だが、ありがとう」

 アルフォンスは深く礼をすると静かに執務室を辞した。

 ――だが、彼自身も今しがた新たな役目を得たばかりだ。

 自室に戻る足取りの中、彼は思う。

「明日の会議に備え、必要な資料を整えなくては」

 夜はすでに更けていたが、眠りに就く余裕はなかった。

 彼の小さな決意もまた、明日を左右する一端となるのだった。

 アルフォンスは自室に戻ると机の上に紙束と筆記具を広げた。明日の会議のために、資料を精査し、議事録の下案を書き留める。

「副司令官は必ず反発するだろう。ルソー准将も意見は強い。大元帥の采配を支えるには、筋の通った整理が必要だ……」

 集中のあまり手元が疎かになった。紙を裁断していた刃先が滑り――

「っ……」

 指先に鋭い痛み。思わず声を呑む。血が一滴、白い紙面に落ちて赤を滲ませた。

「……やっちまった」

 咄嗟に机の引き出しを探るが、携帯用の包帯や消毒薬は切らしていた。遠征続きで補充を怠ったことを悔やむが、今さらどうにもならない。

「……仕方ない」

 アルフォンスは指を布で軽く押さえて椅子を立つ。深夜の廊下は冷え、扉を開けた拍子に蝋燭の光が壁に細く揺れる。


 ――向かう先は、ブレスト城の医務室だった。


 アルフォンスは夜更けの医務室へ足を踏み入れた。

 窓には厚いカーテンが引かれ、灯火だけがぼんやりと空間を照らしている。

 人気はなく、静寂が支配している――はずだった。

 そのとき、ベッドの陰から人の気配。

 アルフォンスの視線が吸い寄せられる。

 そこに座っていたのは、見慣れた亜麻色の髪と青みがかった灰色の瞳―――

「……ルノアール軍医?」

 あまりに唐突で思考が追いつかない。彼女がここにいるはずはない。マクシミリアン隊の宿舎にいるものと思っていた。それがなぜ、こんな夜更けに、医務室に――?

「ど、どうして……ここに……?」

 アルフォンスは思わず指の傷を押さえるのも忘れ、呆然と立ち尽くした。声は震え、目は驚愕に見開かれている。

 ソフィーもまたこちらに気づき、静かに口を開いた。

「お疲れ様です、シャトレ司令官」

 その声音は落ち着いていたが、どこか張り詰めている。夜半の医務室で交わされた言葉にアルフォンスは現実感を失いかけた。

「……お、疲れ様……? いや、待ってください……どうして……あなたがここに……?」

 胸の鼓動が速くなる。まるで夢の中で問いかけているようで、彼は自分の声が震えていることにも気づかなかった。

 アルフォンスは深呼吸をひとつして、落ち着こうと努めた。しかし、目の前のソフィーを見ていると胸の中の違和感が押し寄せ、言葉が途切れ途切れになる。

「……えっと、事情を……聞かせてもらえますか?」

 声は穏やかに保とうとする努力が滲むが、内心は驚きと戸惑いでいっぱいだった。

 ソフィーは一瞬視線を落とし、唇を噛む。

「……はい。でも、ここで全てを話すつもりはありません」

 その声にはかすかな緊張と覚悟が混ざっていた。

 アルフォンスはうなずき、少し間を置く。

「もちろん……急ぎではありません。ただ、どうしてここに来たのか、少しでも教えてもらえれば」

 医務室の静寂の中、ソフィーはアルフォンスを見上げる。長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開く。

「……家を出てきました。自分でもなぜここに向かっているのか、よく分かりません」

 アルフォンスはそっと頷き、椅子に腰かける。

「分かりました。焦らずでいい。落ち着くまで、ここで少し休んでも構いませんよ」

 ソフィーは軽く息を吐き、ほんの少し肩の力を抜いた。医務室の暖かさと穏やかな司令官の声に、わずかに心がほぐれていくのを感じた。

「司令官……その指、怪我を?」

 ソフィーが優しく声をかけると、アルフォンスは慌てて指先を見下ろした。

「……ああ、少し切ってしまっただけで」

 控えめに答えるが、その目にはわずかな戸惑いが漂う。

 ソフィーは躊躇せず手際よくアルフォンスの指を手に取り、消毒液と包帯を取り出した。

「ここは消毒して……包帯を巻きますね」

 アルフォンスは視線をソフィーに向け、思わず息を呑む。目の前の女性は単なる医師ではなく、エリオット大元帥の亡きご子息の友人であり、彼女の手で指先を手当てしてもらえることに内心で特別な感慨を抱いた。

「……あなたに任せても大丈夫ですか、ルノアール軍医」

 彼の声に少しの緊張と信頼が混ざる。

「大丈夫です。司令官、少し動かさないでくださいね」

 ソフィーは落ち着いた手つきで指先を処置し、包帯を丁寧に巻きつけた。

「……これで大丈夫です」

 傷は止まり、清潔に保たれた。アルフォンスはそっと指先を確認し、感謝の気持ちがこみ上げる。

「ありがとうございます。……君の手は確かだ」

 彼の瞳はわずかに柔らかく揺れ、医務室の温かい光の中で、信頼と安心が静かに流れる瞬間だった。

 ソフィーは軽く微笑み、少し照れたように言った。

「大げさですよ、司令官。ただ手当てしただけです」

 アルフォンスはその微笑みを見つめながら、心の奥で胸を撫で下ろすのだった。

 彼は手をそっと膝の上に置き、ソフィーに向き直った。

「……よければ、話してくれませんか?どうして家出しようと思ったのか」

 ソフィーは一瞬、言葉を迷った。胸の中には、マクシムとの言い争いの記憶がまだ熱を帯びて残っていた。

「言える範囲で、ですけれど」

 小さく息をつき、視線を落とす。

「マクシミリアン隊長と私の間に、誤解が生じてしまったんです。私の存在や気持ちを、軽んじられたように感じて……」

 アルフォンスは頷く。言葉の端々に、怒りよりも悲しみや戸惑いが込められていることを感じ取った。

「……なるほど、あなたが傷ついたのは当然です」

 静かに、だが力強く言い、ソフィーの手先を見つめた。

「ですが、あなたはここに来た。自分で行動を選んだのですね」

 ソフィーは少し肩を落としながらも、頷いた。

「はい……心を整理しようと、ここまで来ました。まだ迷いもあります。でも、誰かに支えられたい気持ちも正直あります」

 アルフォンスは彼女の目を見つめ、深い息をついた。

「支えになる、とは言い切れないかもしれない。でも、君の話を聞くことならできる。君がここにいる間は、君を見守ることはできる」

 その言葉にソフィーは少しだけ肩の力を抜いた。

「……ありがとうございます。シャトレ司令官」

 小さな声に感謝の色が滲んでいた。

 アルフォンスは微笑み、手を軽くそっと動かして負傷した指を再度確認した。

「さて、傷ももう大丈夫でしょう。今夜は少しだけここで休むといい」

 アルフォンスは静かに立ち上がった。

「はい……そうします」

 ソフィーはその背中を見送り、夜の医務室に残る静けさをかみしめた。ただの医師と隊員の関係以上のもの――信頼、理解、そして互いの心の繋がりを、今夜、二人は確かに感じていた。


 月明かりに照らされる静かな自室。資料を整えた机の前に座るアルフォンスの手はわずかに震えている。準備は整ったはずなのに、頭の中では明日の会議で交わされる言葉や決断が次々に脳裏を駆け巡った。

「明日の議題……何から手をつけるべきか……」

 声には出さぬ独り言が暗い部屋に溶ける。頭の中で議題を整理しながらも心の奥では、もし些細な判断を誤れば隊や国家に影響する――その重圧がじわりと圧し掛かる。机に向かい、資料に目を落とすアルフォンス。その視線は、いつしか士官学校時代の記憶へと漂った。卒業間近にもかかわらず、なぜか自分たちより下の学年に入って留年した士官候補生――その噂は学校中で囁かれていた。

「いったい何をやらかしたんだ……?」

「そういえば、あの人。あの海上実習事故に巻き込まれた人らしいぞ」

 アルフォンスの耳に当時のざわめきが鮮やかに甦る。真相を知らぬまま、噂だけが彼の心に影を落としていた。

 当時のアルフォンスは、自分の家系が代々海軍トップの側近を務める役割を担うと決められており、士官候補生でありながら父親から側近としての立場と任務を厳しく叩き込まれていた。自由に自分の道を選べず、押し潰されそうな日々。そのため、留年して下の学年に入った先輩が自由に自分の道を選んだことに、どこか羨望を抱いていた。

 ―――自分には許されなかった、小さな贅沢を享受した人。

 そう思うと、心の奥底にわずかな憧れが灯る。

 自由に選んだ道を歩む“彼”への羨望と尊敬が、より鮮明に胸に残っている。

 資料に書き込んだ計算式や議事録のメモを指先で確認しながらアルフォンスは深く息をついた。

「慎重さ……でも、迷いすぎてもいけない」

 静寂の中、机に置いた懐中時計の秒針だけが確かな時間の流れを告げる。夜更けの静けさは心の中の緊張を一層際立たせる。だが、アルフォンスの目には決意の光が宿っていた。どれだけ夜が深くとも、準備を怠れば明日の会議で正しい判断を下すことはできない。思考を整えながら、彼は机の上の資料に再び目を落とす。議題ごとの優先順位、予想される反論と対応策、必要な資料の補足……一つずつ確認し、頭の中でシミュレーションを重ねる。身体の緊張と心の集中が夜の静けさの中で絶妙に混ざり合う。

「明日の会議……必ず、この手で導く」

 アルフォンスの声は小さく、でも揺らぎはない。夜の闇は冷たいが、心の奥には明日への覚悟と責任感が静かに燃えていた。士官学校時代の記憶、父から課された側近としての役割、そしてあの先輩の選んだ道――それらがすべて、今の自分の行動を支える確かな支柱となっている。

 月明かりの下でアルフォンスは資料を整え、ペンを置いた。夜はまだ深いが、心は冷静さを取り戻し、明日の会議に向けた覚悟で満たされていた。深く息をつき、椅子に身を沈める。静寂の中、過去の記憶が胸に微かに影響を与え、慎重さと責任感がさらに研ぎ澄まされていく。

 卒業間近、下の学年に入った先輩士官候補生。

 ――自分にとって強烈な存在だった。

 自由に道を選べる羨ましさを抱えながら、自分は父から課された側近としての責任に縛られ、押し潰されそうになった日々を送った。

 今思い返すと、あの自由の影にも責任や困難が伴ったはずだ。それを理解しつつもアルフォンスの心は、過去の羨望と現在の責任感という二つの感情で揺れる。責任と自由の狭間で揺れる自分の姿と重ね合わせ、静かに決意を胸に刻む。

 窓の外、月光が石造りの壁に淡く反射する。アルフォンスは灯りを落とし、ベッドに腰掛け、静かに夜を過ごす。明日の会議に備え、そしてその先に控える行動に備えながらも、胸の奥では過去の記憶が静かに問いかけ続ける。


 その先輩候補生が“彼”ではなく“彼女”であると判明する日は…もっと後の話である。


 朝の光が執務室に差し込み、机の上に並べられた資料の文字を照らす。窓の外では城下町の静かな喧騒が微かに聞こえる。

 エリオット・ド・レオパードは長い机の前に腰を下ろし、両脇に控えるイザベルとユルリッシュ・ルソーを見据えた。アルフォンスはその横に立ち、夜中に整えた資料を整然と机に広げる。

「まず、サン・マロの現状から整理する」

 エリオットの低く落ち着いた声が静かな室内に響く。

 アルフォンスは資料を手に取り、先日の第二艦艇部隊からの報告をまとめたページを指差す。

「はい。海賊たちの居所は港湾区域に集中しており、警備の重点は旧市街の外周と港口に置かれています。密かに情報収集した結果、夜間の哨戒には不備が見られ、侵入の可能性はあります」

 イザベルが眉をひそめ、指を机の資料に沿わせながら問いかける。

「では、我々が奪還を狙う際の主要な侵入経路は、港口と旧市街のどちらが現実的?」

 アルフォンスは地図上のポイントを示し、冷静に答える。

「港口は見張りが少ない反面、海賊の即応部隊に遭遇する危険性があります。旧市街の小道から侵入する方法もありますが、狭く複雑で隊の機動力が制限されます。状況を鑑みると、港口からの夜間侵入を主軸に、旧市街経由を補助ルートとして確保するのが安全策かと」

 ルソーが腕を組み、低く唸った。

「なるほど……港口からの夜襲か。隊員の負担は大きいが、成功率は高いかもしれんな」

 エリオットは頷き、手元の資料をじっと見つめた。

「よろしい。アルフォンス、君のまとめた資料を基に具体的な侵入ルートと補助ルートの案を再整理し、次に示す部隊編成と照らし合わせてくれ」

 アルフォンスは深く一礼した。

「承知しました。各部隊の配置、警備の状況、潜入の時間帯まで精査して報告します」

 イザベルは短く息を吐き、エリオットに視線を戻す。

「大元帥、この作戦にリスクはありますか?」

 エリオットは少し沈黙した後、静かに答える。

「リスクは必ずある。だが、この城と海域を海賊から奪還するためには、避けられない判断だ。だが準備を疎かにすれば、犠牲は最小限に留められない」

 室内に静かな緊張が走る。アルフォンスはその空気を胸に刻みながら、部隊編成や役割分担、侵入ルートの具体案を順序立てて説明した。

「第一部隊は正面突破を担当、第二部隊は隠密行動を……」

 イザベルもルソーも頷きながらメモを取り、作戦の完成度を確認していた。資料の最後まで目を通し、エリオットはゆっくりと椅子の背に寄りかかる。

「……なるほど、よく整理されている」

 アルフォンスは少し胸を撫で下ろす。ここまで来れば大元帥も計画の妥当性を認めるはずだと考えていた。しかし、当のエリオットは淡々とした声の裏で、思考は静かに別方向へ滑り始めた。

 ――会議中、ふと浮かんだのはマクシミリアン・ブーケの顔だった。

 ゼフィランサスの死を巡って、自分に恨みを抱く男。

 かつて有望な候補生として目をつけ、部隊長に推薦したのも自分。

 戦力になると判断した選択に、今更ながら誤算が生じようとしている。

 ――あれほど感情の熱い男を、前線から離さなかったのは失策だったか。

 マクシムが抱える憎悪は、もはや個の感情ではない。

 指揮系統にとって予測不能な“危険因子”となり得る。

 本来なら、国家反逆を企てた容疑で拘束すべきだ。だが発覚したのも“自分が偶然聞き耳を立てた”というだけで、物的証拠は何ひとつない。

 だからこそ、組織として最も合理的な道が一つだけあった。

 ――無害化する。必要なら、遠方で消えてもらうしかない。

 ――いっそ、“仕事”の中で死んでもらうか。

 そこに情も怒りもなかった。

 ただ軍務を守るための冷徹な判断があるだけ。

 その結論に至った瞬間、エリオットの視線は静かに資料から離れた。

 そして、何の感情も滲まない声音で告げた。

「……この任務、マクシミリアン・ブーケ隊に一任させていいか?」

 彼の言葉に室内が一瞬静まり返る。イザベルは眉を上げ、ルソーは口元に軽い驚きの笑みを浮かべる。アルフォンスの手元のペンが一瞬止まった。

「え……!?」

 アルフォンスは思わず声を漏らす。予想だにしていなかった決定に、胸の奥がざわつく。

 イザベルは少し間を置き、冷静に意見を返す。

「……マクシミリアン・ブーケ隊に一任するのは危険ではありませんか? 部隊としての経験は十分でも、計画の範囲を逸脱した行動をとる可能性もあります」

 ルソーも腕を組み、表情を引き締める。

「同意する。確かに彼らには力量がある。しかし、今回は国家の重要拠点を奪還する任務だ。予測不能な事態に備える必要がある」

 アルフォンスは顔を上げ、必死に言葉を探す。

「そうです……あの隊長は優秀ですが、個人の感情が行動に影響することもあります。……慎重に考えたほうが……」

 エリオットは静かに頷くも表情にはわずかな苛立ちを含ませた。彼は席を立ち、三人の視線を受け止めながら口を開いた。

「理由は単純だ。……彼らを、私から遠ざけたいのだ」

 エリオットは低い声音で続ける。

「私への復讐を企む者達を、最前線に送り出す。あわよくば死線をくぐり、私の目の前から姿を消してくれることを期待している」

「…お前が何を言っているのかわからないな」

 ルソーの手が音を立てて机を揺らした。

「あの時、私はこの目で見て、確かに聴いたのだ。海賊同盟と三度目の戦闘に臨んだ日のことだ。ブレスト港でソフィーを追った私は、ルキフェルがマクシミリアンを打ち倒す瞬間までを目の当たりにした」

 エリオットの告白にアルフォンスは息を呑む。イザベルもルソーもその言葉の重みに背筋を伸ばした。

「私はただ息を呑むしかなかった……。すぐに駆けつけねばと思ったが、風に運ばれる言葉が私の足を凍らせた」

 エリオットの声にわずかな震えが混じる。それでもイザベルは促す。

「その言葉、なんなのですか?」

 その名がかつての親友であり、宿敵でもある存在を呼び覚ます。

「ゼフィランサス」

 エリオットの瞳に影が落ちる。

「マクシミリアンが、あいつの仇を取るため私の命を狙っているという」

 ルソーはエリオットの言葉に眉をひそめ、机を軽く叩いた。

「……暗殺ってことか? それならあいつらを――マクシミリアンを――すぐに告発しろよ。国家反逆罪だ!」

 イザベルも目を見開き、声を張った。

「同感です。そんな危険人物をそのまま任せるなんて、到底容認できません!」

 アルフォンスも、青ざめた顔で視線を落としながら頷いた。

「私も同意します……大元帥、それは危険すぎます。この任務を、個人の復讐心に任せるなんて……」

 エリオットは三人の反応を静かに受け止め、目を閉じるようにして深く息をついた。

「……そうだな。確かに君たちの言う通り、リスクは計り知れない」

 彼の声には迷いはないが、同時に厳しい現実を認める重さがあった。

「だが、あの隊には私の目の届かぬところで、どうしてもこの任務を遂行させねばならない事情がある……」

 三人は息を呑み、さらに説明を求める目でエリオットを見つめる。その視線に、彼は静かに、しかし重い口調で続ける――エリオットは深く息をつき、視線を天井の方へ向ける。

「……よし、こうしよう。サン・マロに刺客を送り込む。マクシミリアン・ブーケ隊を――殲滅させるためだ」

 ルソーは鼻で笑ったように嘲る。

「はん、第二部隊に暗殺なんてできるわけねえだろ」

 イザベルとアルフォンスも顔を強ばらせ、同意の色を示す。

 エリオットはそれでも淡々と続ける。

「できるかどうかは重要ではない。問題は――彼らを我々の手で潰すための環境を作ることだ」

 彼は資料に目を落とし、指で地図上の港や街道をなぞる。

「ダラス家と接触せよ。彼らを我々に協力するよう脅迫するのだ。協力すれば我々の力になる、拒めば――不都合な結末を迎える」

 ルソーは腕を組み、なおも不満げだ。

「脅迫か……オレたちは軍人だ。相手を味方にするためにそこまでやる必要があるのか」

 エリオットは顔を上げ、静かながらも揺るぎない口調で答える。

「必要だ。我々の目的は、ただ命令を下すことではない。国家と隊員たちの未来を守るためだ」

 アルフォンスはペンを握り直して資料に目を落としながらも、胸の奥で重苦しい緊張を感じた。

 イザベルもわずかに息をつきながら頷いた。

「……仕方ありませんね。準備は整えましょう」

 ルソーは唇を引き結びつつも深く息をつき、状況を飲み込もうとする。

 エリオットは資料を手に取り、地図や書簡の写しを指でなぞる。

「ダラス家を脅迫するには、旧ブルボン家との繋がりを利用する。彼らの隠し財産や過去の密約――これらすべてを材料にするのだ」

 アルフォンスは目を見開き、思わず口を開く。

「つまり……旧ブルボン家との関係を、我々の圧力材料にすると」

「その通りだ」

 エリオットは静かだが鋭い視線でアルフォンスを捉える。

「そして、ベルリオーズとその実家にも協力を要請する。彼らの権力と影響力を利用すれば、ダラス家に対してさらなる圧をかけられる」

 ルソーは眉をひそめた。

「協力させるって……言葉通り強制するってことか? それ、やりすぎじゃねえか」

 イザベルも、腕を組みながら静かに付け加える。

「しかし現実を考えれば、この手段しかないのかもしれませんね」

 エリオットは頷き、冷静に続ける。

「もちろん過激な手段ばかりではなく、示唆や圧力、交渉の余地も活用する。だが、最終的に協力させるという確実な手段は、我々の立場を守るために必要だ」

 アルフォンスは深く息を吸い、資料を整理しながら考える。

「……承知しました。協力要請のための計画を具体化し、ダラス家やモンレザール家への接触手順を整理します」

 ルソーは小さく舌打ちをしつつも、渋々頷いた。

「……我々にできる範囲で、やるしかねえな」

 イザベルも目を細め、冷静にうなずいた。

「……わかりました。準備を進めましょう」

 エリオットは深く息をつき、静かに資料を机に置いた。

「よし、各自、午後の会議までに計画をまとめろ。時間はない。成功すれば、この任務はマクシミリアン・ブーケ隊の手で完遂できる」

 部屋には決意と緊張が重く漂ったまま沈黙が訪れた。


 午前の会議が終わり、アルフォンスは自室の机に深くうつ伏せになった。窓の外では朝の光が差し込み、港の水面を白く照らしているが、心はまったく明るくなれなかった。国王勅令によるサン・マロ奪還計画と、その裏で進められようとしているマクシミリアン・ブーケ隊の排除――目の前の書類が示す現実は、忠義に燃える人間の姿がいかに冷酷になれるかを突きつけていた。

「……こんなことが、現実に……」

 アルフォンスは唇を噛みしめる。心臓が張り裂けそうな感覚。忠義に燃えている者が、冷酷な策略をもって動く姿を目の当たりにして思わず息が詰まる。

 あの大元帥、エリオット・ド・レオパードが目の前で――いや、彼の手で――自分の忠実な部下たちをあわよくば死地に追いやろうとしている。

 ただ命令に従い、任務を全うしてきた人々が、裏では消される可能性があるという現実に理性と忠誠心が激しくぶつかり合う。

 アルフォンスは額に手を押し当て深く息を吐いた。

「僕は……どうすればいいんだ……」

 過去に父から課された側近としての責務、今の自分に求められる判断。どれも重く、そして逃れられない。机の上に広げた資料、会議でのメモ、計画図――すべてが冷たい光を放ち、アルフォンスの胸に圧し掛かる。

「信じていた人が……こんな決断を……」

 彼はその重みと、これから自分が何を背負わなければならないかを静かに噛み締めた。長く頭を抱えたまま、沈黙の中で自問を続けた。

「僕は……どうすべきだ? 大元帥に逆らうのか、それとも……」

 思考は堂々巡り。サン・マロ奪還という正当な任務と、その陰で待ち受けるブーケ隊への冷酷な策略。忠義、倫理、感情――すべてが押し寄せ、心を乱す。しかし、やがて彼の中で決断の糸口が見え始めた。

「……いや、違う。大元帥に刃向かう者が、そもそも間違っているのだ」

 アルフォンスは頭を抱えた手をゆっくりと下ろす。心の奥で湧き上がる違和感や迷いを必死に押し込める。大元帥に対して反発することもできる立場だ。しかし、もし刃向かえば、自分が守るべき隊や国家にどんな影響が及ぶかも知っている。迷いと恐れが交錯する中、やがてアルフォンスは目を閉じ、深く息をついた。息を整え、肩の力を抜く。

「……やはり、敵は大元帥に刃向かう者だ」

 自分の胸に覚悟を決める言葉が染み渡る。

「僕は……大元帥の命に従う。誰がどう思おうと、それが僕の役目だ」

 大元帥の指示が正しいかどうかではない。命令を受け、忠実に従う者が悪ではない。迷いを捨て、役目を全うすることこそが、自分の責務だと理解した。

 アルフォンスは背筋を伸ばし、机の上の資料に再び目を落とす。午前中の会議での議論、各艦隊の動向、予想されるマクシミリアン・ブーケ隊の行動――あらゆる情報を整理し、午後の会議での発言に備える。手のひらを机に置き、深呼吸を一つ。心の奥底で葛藤はまだ残っているが、それでも表面は冷静に整えられていた。

「……よし、やるしかない」

 アルフォンスはペンを握り、午後の会議の資料を細かく確認し、議題ごとの対策を頭の中で反芻する。誰も知らないところで思考を巡らせ、必要な情報を即座に提示できるよう準備する。その表情には、まだ若さの残る慎重さと、血筋によって課せられた重責を背負う覚悟が漂っていた。

 午後の会議――サン・マロ奪還とマクシミリアン・ブーケ隊の動向を巡る議論が待っている。アルフォンスは静かにペンを置き、資料をまとめると椅子から立ち上がった。窓の外、港の水面は昼光を浴びてきらめいている。その光の中で、彼の決意はさらに強く、冷静に整えられていった。


 そして午後の会議が始まる。アルフォンスは整理した第二部隊の報告を基に、サン・マロの現在の状況を共有した。

「港湾周辺の警備は依然厳重です。民間人への被害を最小限にしつつ、上陸地点を確保する必要があります」

 イザベルとルソーも資料に目を通し、頷く。

 次に協力要請を受けたベルリオーズが口を開いた。

「現地の情勢についても確認済みです。加えて、ダラス家との接触も可能です。三男のピエール・ダラス本人と直接話をつけることができれば、彼らを揺さぶることができるはずです」

 ベルリオーズは机の上の資料に目を落としつつ冷静に言った。

「サン・マロの奪還に向け、マクシミリアン・ブーケ隊を派遣する前に、ダラス家の三男、ピエール・ダラス本人と接触する必要があります。私とルソー准将にも同行していただければ、直接脅迫をかけて彼らを揺るがせることができるはずです」

 アルフォンスは資料を整理しながら静かに頷く。

 ベルリオーズは続ける。

「俺のノクターを飛ばして父上に所在を調べさせましょう。また、各地の情報屋にも協力を依頼済みです」

 それを聞いたルソーが眉をひそめ、半ば呆れた声で口を挟んだ。

「……ワタリガラスって、そんな便利なものだっけ?」

 ベルリオーズは微かに笑みを浮かべ、冷静に答える。

「意外と侮れませんよ。うちのワタリガラスたちは特殊訓練を受けてます。ワタリガラスの嗅覚と記憶力、そして速さ。更に、情報屋と連携すれば現地での動きも把握できます」

 アルフォンスは資料を見返しつつ、この古典的な手段が現代的な情報網と上手く噛み合うことに内心で感心していた。

 エリオットは資料を手に、静かに声を上げた。

「マクシミリアン・ブーケ隊はこの会議が終わり次第、直ちにサン・マロへ向かわせる。指揮はもちろん、彼自身に一任する」

 その言葉に、イザベルが眉をひそめる。

「大元帥……それは、あまりにも危険です。隊の安全を考えれば、慎重な準備が必要です」

 ルソーもすぐさま反応する。

「オレも同意だ。午前の会議での混乱を思えば、無茶は許されん。隊の派遣にはもう少し時間をかけるべきだ」

 アルフォンスは目を伏せ、静かに補足する。

「……戦略的には急ぐ必要があります。ですが、隊員の安全面や情報の精度を考慮すれば、即時派遣は判断が難しいです」

 エリオットは深く息をつき、皆の意見を受け止めた後で言葉を続ける。

「承知した。だが、現状を考えれば作戦の遅延は許されない。サン・マロ奪還の時間的猶予はほとんどない。マクシミリアン・ブーケ隊の安全は……必要な犠牲だと理解してもらいたい」

 言葉は簡潔だが、その瞳には計算された冷たさが宿っていた。彼の中でサン・マロ奪還は急務であり、マクシム隊には危険が伴うことも織り込み済みである。

 ルソーが眉をひそめ、低く唸った。

 イザベルも険しい顔で口を開く。

「大元帥。やはり隊の安全を考えると、早まった行動は……」

 アルフォンスは机を叩き、声を震わせる。

「今回は……マクシミリアン隊を、なんとしても犠牲にするつもりですか」

 エリオットは顔色ひとつ変えずに答える。

「重要なのは作戦の成功だ。サン・マロ奪還のためなら、隊の安全は二の次だ」

 室内に重苦しい沈黙が落ちる。誰もがこの言葉に息を呑む。ルソーの拳がわずかに机に当たる音が響く。それでも作戦の重要性と時間的制約は明白だった。誰も反対意見を押し通せる状況ではない。全員は、やむなく頷く。

「……わかりました」

 アルフォンスが静かに言った。

 ルソーもイザベルも、それぞれ重い表情で承認の意思を示す。

 エリオットは短く頷き、冷徹な決断をその場に示した。

「よろしい。では、隊は直ちに出発させる」

 室内の空気は張り詰め、誰もが沈黙の中で覚悟を確認する。その視線の先には、遠くの街で危険に身を晒すマクシミリアン・ブーケ隊の姿が浮かぶのだった。

 アルフォンスは資料を前に身を乗り出した。

「では、具体的な指示に入ります。まず部隊編成ですが――マクシミリアン・ブーケ隊は三班に分け、それぞれ侵入ルートを担当させます。第一班は北門方面、第二班は港湾倉庫沿い、第三班は旧市街を経由します」

 ルソーが眉を寄せながら資料を覗き込む。

「侵入ルートの警戒は?警備の配置や見張りは大丈夫か?」

 アルフォンスは即座に答える。

「第二部隊の報告を基に、警備の配置は把握済みです。各班には必要な隠密装備と通信手段を配備します」

 ベルリオーズがメモを取りつつ口を挟む。

「現地連絡役として、後ほど私から伝令係への協力要請を行います」

 アルフォンスが資料を前に説明を続けようとしたその時、会議室の重い空気を切り裂くようにエリオットが立ち上がり、ゆっくりと机の上に手を置いた。

「マクシミリアン・ブーケ隊には、陸路でサン・マロに向かわせる。隊を降ろした馬車は即刻帰還させろ。侵入ルートは一つに絞り、旧市街を経由させるんだ。そして、通信手段は一切使用させるな。完全に孤立させることが条件だ」

 その場にいた四人の顔が一瞬で強張る。

「孤立させるだと?! 通信手段も無しとか……」

 ルソーの言葉にエリオットは冷たく目を細め、無言のまま資料を一瞥する。

「それでも任務は完遂させねばならぬ。万が一、マクシミリアン隊が生き延びた際は安全策として、ダラス家に隊を殲滅させる。それが彼らの潰す唯一の保証だ」

 ベルリオーズも思わず眉をひそめる。

「……隊を孤立させるのに、ダラス家だけが頼り……ですか」

 アルフォンスは机の資料に手を置きながら、冷や汗と共に大元帥の覚悟の深さを理解した。ルソーとイザベルも言葉を失い、エリオットだけが静かに冷徹な決断を胸に抱いていた。

 エリオットは静かに会議室の四人を見渡した。その視線は冷たく沈黙を伴った。

「諸君、我が海軍に裏切りを働く者たちを処分できるのだぞ?」

 低く響く声が、室内の空気を震わせる。

 ルソーは椅子にもたれかかり、眉をひそめて呟いた。

「だってよ、マクシミリアン隊はお前の推薦で成立した部隊じゃねえか」

 イザベルは唇をかみしめ、机の縁を握りしめて黙ったまま。アルフォンスは資料に顔を近づけ、前のめりになりながらも胸の奥に冷たい重圧を感じていた。

 エリオットはゆっくりと頭を下げ、目を閉じる。その沈黙が彼の覚悟をより強く際立たせる。やがて再び目を開け、四人に向けて静かに言った。

「裏切りを企む者だと見抜けず隊を大きくさせたのは、私の責任である。今回の任務を通した、私なりのケジメだ」

 その言葉に会議室は一瞬息を飲んだような静寂に包まれた。ルソーは腕を組み、唇を固く結ぶ。イザベルは額にしわを寄せ、視線を落とす。アルフォンスは手を机に押しつけ、指先に力を込める。倫理的には許されない。だが、ここで異を唱えれば大元帥に逆らうことになる。

 エリオットは資料に視線を戻し、背筋を伸ばして静かに次の指示を待つ。その背中には、計算し尽くされた冷酷さと決断の重みが滲んでいた。


 ベルリオーズがノクターの漆黒の翼を見送りながら低くつぶやく。

「おかしいと思わないのか、こんなこと」

 アルフォンスは肩越しに街の方向を見やり、ワタリガラスのノクターが小さくなっていくのを見届ける。胸の奥に、先ほどの会議で感じた重苦しい空気がまたよぎった。

「うん、正直、気分のいいものではないね」

 ベルリオーズが腕を組み、屋上の手すりにもたれる。

「だってよ、隊を派遣するってだけならまだしも、通信を断って完全に置き去りにするって……そんな指示、普通は出さないだろ」

 アルフォンスは資料袋を抱え直し、冷たい風に髪を揺らされながら小さく息をつく。

「それでも…… 僕は側近として、大元帥の命令に従わねばならない」

 ベルリオーズが苦い笑みを浮かべる。

「それだけ……じゃ、済まされない気がするんだよな」

 アルフォンスは拳を軽く握り、視線を街に落とす。ワタリガラスは小さな点となり旧市街の屋根の向こうに消えていった。

「……覚悟は、している」

 自分自身に言い聞かせるようにアルフォンスは言った。過去の士官学校での葛藤も、父の課した側近としての責務も、すべてこの瞬間に重なって胸を締めつける。

 ベルリオーズはため息をつき、屋上から身を乗り出して街を見渡す。

「……お前は大元帥に従うしかないのか……」

 アルフォンスは小さくうなずき、拳をもう一度握り直す。

「ああ。やはり、刃向かう者が悪いんだ。僕の覚悟はここにある」

 冷たい風が二人の間を吹き抜け、ワタリガラスの羽ばたきの音が遠くに消えていった。屋上から街を見下ろすベルリオーズの視線の先に、数台の馬車が走る影が見えた。

「おい、あれはマクシミリアン隊の宿舎に向かう馬車か?」

 アルフォンスも視線を追い、頷く。

「そうだよ、すぐに動き出したね」

 ベルリオーズは歯を食いしばり、苦笑混じりに呟く。

「こんな早く動けるんなら、海賊との戦闘もさっさと動けただろうに」

 アルフォンスは表情を変えず、心の奥でその言葉の意味を理解する。過去の作戦の遅延や混乱、判断の難しさ、そして自分自身の葛藤。全てが頭をよぎる。

 ベルリオーズは馬車の列を目で追いながら拳を軽く握り直す。

「……まったく、戦場も事務室も、同じくらい面倒くさいな」

 アルフォンスは資料袋を胸に押し当て、冷たい風に吹かれながら静かにうなずく。

「そうだね。すべては、現場で決まることだ」

 屋上の二人の間に緊張と覚悟の空気が漂ったまま、馬車はキール通りを縫うように進んでいく。


 宿舎前の舗道は慌ただしい活気に包まれていた。急遽、出動することになったマクシミリアン・ブーケ隊の隊員たちが、装備を整え馬車へと次々に乗り込んでいく。腰に帯びた金属がカチャリと鳴り、武器の手入れをする音が小さく響く。先頭を走る馬車の中ではマクシム、リラ、ダヴィット、シャルルが身を寄せ合いながら座っていた。

 ダヴィットが小さく息を吐き、口を開く。

「……国王勅令の極秘任務、ですか」

 シャルルは腕を組み、窓の外を見つめながら少し皮肉めいた声で言った。

「自分たちだけで海賊の一掃。街を燃やした方が早そうですね」

 リラは心配そうに、真剣な目でマクシムに問いかける。

「隊長、本当にソフィーを連れて行かなくてよかったんですか?」

 マクシムはすっと目を細め、リラの視線を受け止めて答える。

「待て、と言ったのはあなた方ですよね?」

 その一言に馬車内の空気が一瞬固まる。リラは軽く眉をひそめ、ダヴィットは口をつぐむ。シャルルは小さく舌打ちし、窓の外を見つめて唇を噛む。ギスギスとした緊張感が馬車の揺れとともに四人の間に漂った。任務の重圧、互いへの信頼と疑念が入り混じり、先頭馬車は静かに確実にサン・マロへと向かっていく。


 ブレストの街中、午後の日差しが石畳を淡く照らす。ベルリオーズとルソー准将は人混みを縫うように歩き、やがて小さなカフェの前にたどり着いた。

 ルソーが肩越しにベルリオーズを見る。

「お前のカラスを飛ばすまでもなかったかもしれんな」

 ベルリオーズは苦い笑みを浮かべながらカフェの扉を押す。

「第二部隊の住民聞き込みによれば、ピエール・ダラスは呑気にブレストでバカンス中らしいです……そんなことあるかと思いますが、猶予はありません」

 二人は互いに視線を交わし、表情に緊張が走る。足取りを早め、カフェの中へと一目散に入った。店内は昼下がりの静けさに包まれ、コーヒーの香りと小さな談笑が漂う。ベルリオーズとルソーはカウンターに近づき、周囲の目を気にしながらも、目的の人物を探す視線を巡らせた。外の明るさとは対照的に二人の心中には緊迫した沈黙が流れる。時間との戦い、任務の重さが静かなカフェの空気を張り詰めさせていた。ベルリオーズとルソーはカフェの奥へと視線を走らせた。その視線の先に、淡く日光を受けて笑みを浮かべ、軽くコーヒーを口に運ぶ男――ピエール・ダラスの姿があった。金の腕輪が怪しく光る。

 ルソーが小声でつぶやく。

「……おい、あいつだな」

 ベルリオーズは息を呑む。

「間違いありません。第二部隊の情報通り、呑気にバカンスを楽しんでる……って、随分と悠長なやつですな」

 ルソーは額に手をやり、ため息をつく。

「こんな時にのんびりしてる場合かよ……ま、カラスも不要だったってわけだ」

 ベルリオーズは素早くメモ帳を取り出し、情報を整理する。

「ここは我々が直接接触するしかありません。俺たち二人で圧をかければ、少しは揺らぐはずです」

 ルソーが軽くうなずき、カフェ内の動きを観察する。

「周りの客に怪しまれずに、どう接触するかだな。いきなり脅迫ってわけにもいかん」

 ベルリオーズは決意を込めて言う。

「大丈夫です。慎重にやれば相手も焦ります。時間も、迷ってる暇もありません」

 二人は静かにテーブルに向かい、ピエール・ダラスに目を光らせながら次の一手を練り始めた。

 ベルリオーズは低く声を落とし、ピエール・ダラスのテーブルにゆっくりと近づく。ルソーもすぐ隣に控え、目を逸らさず相手を睨みつける。

 ベルリオーズが言葉を選びながら口を開く。

「ピエール・ダラス殿。私だ、コルヴァンだ。少々お話があるのでお時間をいただきたい」

 ピエールはコーヒーを口に運びながら悠然と笑う。

「おや、コルヴァン殿か。久しいな、俺に何か用か?ブレストでのんびりしている俺に…あれ、名前教えたっけ?」

 ルソーが片腕を組み、冷ややかに応じる。

「のんびりしてる場合じゃないぞ。貴様の家族、旧ブルボン派との関係、そしてエドガー海賊団との繋がり……すべて国王陛下に知られたくはないだろう?」

 ピエールの表情がわずかに引き締まる。

「あんたは?!……さ、さ、な、なんの話だ?」

 ベルリオーズは少し身を乗り出して静かに鋭く告げる。

「国王に知られたくなければ、我々の要求に従え。君の家族、旧ブルボン派の拠点や資金提供に関すること。これ以上、敵対勢力に利する動きは許されない。我々に協力するのだ」

 ルソーが補足する。

「つまり…オレたちの指示に従わなければ、貴様の家族や貴様自身の立場は丸裸にされる」

 ピエールは一瞬息を呑み、テーブルの上のコーヒーカップを握り直す。

「……わ、わかった。協力する、か……」

 ベルリオーズは一歩下がり、ルソーも腕を解く。

「まずは君の協力に感謝する。これで少しは事を運びやすくなる」

 カフェ内の光が柔らかく差し込む中、二人の視線は常にピエールから離れず、脅迫は確実に目的を果たしたことを確認した。その後、ルソーとベルリオーズはカフェの外で馬に跨るピエール・ダラスとその私兵たちを見送ることにした。

 ルソーは鋭い目線を送りながら低く声を落とす。

「いいか?マクシミリアン隊が海賊を蹴散らしてなお生きていたら、お前たちがとどめをさせ。そこの“お友達”にもちゃんと伝えるんだな」

 ピエールの側に控える狩猟仲間と称する私兵たちが言葉に軽く頷く。

 ピエール自身も顔をしかめながら肩をすくめて応じた。

「わかったわかった。ちゃんと遂行するから、秘密だけはバラさないでくれ」

 その言葉を残し、ピエールと私兵たちは一斉に馬に鞍をつけ、街を駆け抜けていった。ベルリオーズとルソーは視線を最後まで送る。馬の蹄の音が遠ざかるにつれ、二人は静かに胸を落ち着けた。作戦は確実に次の段階へと進んでいる。


 ソフィーは医務室の扉を押し開け、中庭へと歩み出た。夜の静寂がまだ残る城内に、遠くから馬の蹄の音が響く。その音は次第に近づき、やがて黒い馬の背に乗った人物の姿が見えた。リー・ウェンだった。呼吸を荒くし、額に汗を滲ませながら、必死の表情で駆けてくる。ヘイロンの鞍にしっかりと体を預け、手綱を強く握ったまま、馬を止めるや否や彼女は駆け寄った。

「ソフィー!大変です、急ぎ知らせなければ!」

 ソフィーは思わず足を止め、驚きと緊張が混ざった表情でリー・ウェンを見つめた。

 リー・ウェンは息を整え、必死に告げた。

「ソフィー、宿舎が――戻ったら、誰もいませんでした! 隊員たちも、誰一人として……」

 ソフィーの足が一瞬止まる。思わず眉をひそめ、唇を噛む。

「……な、何ですって? 全員、ですか?」

 中庭にヘイロンの蹄の音が響く。その時、城内にいたアルフォンスはそれを聞き、慌てて中庭に飛び出した。

「……リー・ウェンだな、何の用ですか!」

 ソフィーは驚愕の表情でアルフォンスに視線を向ける。

「……シャトレ司令官、あなた、知っていますか? マクシミリアン隊が、一体どうして誰も宿舎にいないのか!?」

 アルフォンスは資料を抱え直し、焦った表情で答える。

「そ、そんなことは……知らなかったです。ただ、その……」

 ヘイロンの蹄の余韻が中庭に残る中、ソフィーの鋭い視線がアルフォンスを射抜いたままだった。

 ソフィーは勢いよくアルフォンスの前に歩み寄り、抱えた資料を奪い取った。ページをめくるたびに目が見開かれる。

「な、なんですって……? サン・マロ奪還作戦……!?」

 マクシミリアン・ブーケ隊の名前が並ぶ戦略図や侵入ルートの詳細を見て、ソフィーの胸はざわついた。頭の中で危険な可能性が次々と膨らむ。万が一、隊に何かあったら――それに、サン・マロには宿屋を営む友人たちもいる。

「ちょ、ちょっと待ってください!少数精鋭の部隊を、なぜこんな危険な任務に……!頭がおかしいんじゃないですか、司令官!」

 アルフォンスは唇を固く結び、動揺した様子を隠そうとする。だがソフィーの声は止まらない。

「こんなの……、隊が全滅してしまいます!」

 ソフィーは言い切ると一目散に医務室へ駆け出した。医療道具一式を揃え、万が一に備える。中庭に戻ると、リー・ウェンが心配そうにヘイロンの背で待っていた。

「リー・ウェン、私たちもすぐに行こう――マクシミリアン隊の無事を確認して、必要なら助ける!」

 馬に跨った二人の影が城門を抜ける朝日の中で長く伸びた。蹄の音が地面を打ち、ブレストを駆け抜ける。ヘイロンのたてがみが風に揺れ、彼らの決意を告げるように夜明けの空に溶けていった。

 アルフォンスは二人の背が角を曲がって見えなくなるまで、中庭からじっと見送っていた。冷たい風が吹き抜けるのに、胸の奥ではようやく息がつけるような、そんな安堵が小さく灯った。

「よかった……。あの人にはまだ、マクシミリアン隊の危険は知らされていない」

 その事実だけが今の彼の精神をかろうじて支えていた。

 もしソフィーが、あのまま知らせを受け取り――マクシミリアン隊と共に前線へ向かうなどと言い出していたら。

 そこまで考えた瞬間、背筋の芯まで氷が滑り落ちるような悪寒が走った。

 指先に触れた、温かい布の感触。

 慎ましい笑顔で手当をし、「これで大丈夫」と呟いたあの声。

 その記憶が胸の底で柔らかく光る。だが、その光は一転して鋭く胸を刺した。

「……彼女まで、危険に晒すわけにはいかない」

 そう思った途端、心の奥深くで、別の色をした何かが蠢き始める。

 忠義のためなら命も惜しくない――そう信じて疑わなかったはずなのに。

 大元帥の命令は絶対だ。

 任務がどれほど冷酷でも、彼は従う側の人間だ。

 それが揺らいだことなど、一度としてなかった。

 ――なのに。

“あの人を前線に行かせるぐらいなら、命令そのものを止めたいと思ってしまうのはなぜだ”

 答えの出ない問いが脳裏で渦を巻き、じわじわと呼吸を乱す。

 ソフィーの死を想像するだけで視界の端が暗く閉ざされていく。

 マクシミリアン隊の殲滅計画を聞かされて、眉ひとつ動かさず従えるのに。

 彼らが死地に向かうのは「任務」だと割り切れるのに。

 ――ソフィーだけは違う。

“どうして自分は、あの人の死だけは許容できないのだ”

 理解したくない感情が喉もとまで込み上げてくる。

 恐怖なのか、怒りなのか。

 それとも――もっと黒いものか。

「……くそ……」

 思わずこぼれた声は震えていた。

 自分が従うべき大元帥の命令が、守りたい人を殺す未来へとつながっている。

 その矛盾に胸が灼けるように痛む。

 忠義が軋んでいく音がした。

 長年積み上げてきた“揺るがないはずの基盤”が、ソフィーの存在によって崩れ始めている。

 アルフォンスは怖かった。

 自分がどこまで壊せるのか――どこまで壊れてしまうのかが。


 静まり返った執務室に紙をめくる微かな音だけが残っていた。だがその静寂は、アルフォンスの震える手によって何度も乱される。資料に視線を落としているのに――目は何ひとつ捉えていない。胸の奥では、黒い影が静かに膨れ上がっていた。

 守りたい者を守れない現実。

 大元帥への絶対の忠義。

 そして、そのどちらにも収まらなくなった、自分の感情。

「……こんなにも、揺らぐものだったのか」

 思わず、笑いにも溜息にもならない声が漏れた。

 忠義は迷いを許さないはずなのに。

 それでも今、彼の心ははっきりと“揺れている”。

 ふと――胸の奥底に沈んでいた記憶がひとつ、ゆっくりと浮かび上がった。

 父の声だ。


 ――主君にただ従うだけではなく、誤りを正し、手を差し伸べ、道を照らせ。

 ――それができてこそ、真の忠義だ。


 幼いころ、誇らしげに剣を振り回していた自分に向けて父はよくそう言った。

 当時は意味がわからなかった。

 忠義とは、ただ命令に従うことだと思っていた。

 だが――今その言葉が、痛いほど胸に刺さる。

「もしこのまま従えば、彼らは死ぬ。ルノアール軍医も……」

 喉がひりついた。

“忠義”と“守りたい者”が、初めて真正面から衝突する。

 どちらを選ぶべきか――父の言葉はすでに答えを示していた。

 誤りを正せ。道を照らせ。

 主君が踏み間違えたなら、黙って従うな。

 アルフォンスはゆっくりと目を閉じ、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込む。

 そして――吐ききると同時に、迷いが剥がれ落ちた。

「……船を出そう」

 その一言は驚くほど静かで重かった。

 もう後戻りできない――そんな覚悟の重みが、言葉に染み込んでいた。

 次の瞬間。

 アルフォンスは資料を両手で掴み、ぐしゃ、と容赦なく握り潰した。

 紙がひしゃげる音が、決意の音に聞こえるほど強く響いた。

 丸められた書類は彼の足元に叩きつけられ、破片が床一面に散らばる。

 その光景を見下ろすアルフォンスの瞳は、迷いを捨てた静かな光を宿していた。

 大元帥の命令にも、自分自身の黒い感情にも、どちらにも飲み込まれはしない。

「――行く。僕が、道を正す」

 その瞬間、アルフォンス・シャトレは“従う者”から“決断する者”へと変わった。

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