第2話 遠ざけた世界の影

クロードの畑に、珍しい来訪者があった。


数年ぶりに会う元同僚、ライラ・ベネットだ。


ライラは、クロードのいる村へ車で向かう道中から、すでに違和感を抱いていた。周囲を囲む森には、世界で最も危険度の低いダンジョン群が点在している。しかし、そのダンジョン付近が「異様な静けさ」に包まれていた。本来なら、入り口付近を徘徊しているはずの最弱のモンスター、スライムの姿がない。


代わりに、道の脇の岩陰で、一匹のスライムが動作不安定なまま、地面から数ミリ浮き上がろうとしては、すぐに潰れるという動作を繰り返していた。その姿は、まるで古いOSのグラフィックが乱れているかのようだった。ライラは思わず車を止め、その光景をスマートフォンで記録したが、その記録自体がすぐにノイズに変わり、消えてしまった。


「……気持ち悪いわね。」


彼女は都会的なスーツ姿で、クロードの素朴な畑に足を踏み入れた。靴には、遠い世界の土がつくことを厭うかのように、ぎこちない笑みを浮かべた。


クロードは無関心に、水路の泥を掻き出していた。彼が使う古い鍬の先端は、光の角度によっては微かな青白い残光を放っていた。それは、かつて彼が、ダンジョン素材の『因果安定化鉱石』を加工して、自分専用の農具に仕立てた名残だ。世界を安定化させた力が、今はただの土を掘る道具に転用されている。


手のひらに硬く張り付いた土ダコこそが、彼の今の勲章だ。


「見ての通りだ。野菜を育てている。お前も、相変わらず忙しそうだな、ライラ。」


「忙しいなんてもんじゃないわよ。あなたがいなくなって、現場は阿鼻叫喚よ。」


ライラは冗談めかして言ったが、その目には明らかな焦燥の色が浮かんでいた。


ライラは周囲を警戒するように見回し、声を潜めた。


「本題に入るわ。最近、世界各地のレベルの低いダンジョンで、奇妙なバグが多発しているの。」


「バグ?」


クロードの声には関心がない。しかし、その耳は地下の極めて静かな低周波音を捉えていた。一瞬、心臓の奥底が警鐘を鳴らすように、ちくりと痛んだ。


「ええ。モンスターが『本来の出現時間より数秒早く』出現したり、ダンジョンの壁が『ほんの数ミリだけ』設計図と違う場所に生成されたり。どれも些細なことよ。でも、その発生頻度と共通性が、解析庁を混乱させている。」


ライラは息継ぎもせず続けた。「どれも小さなズレなの。でも、解析庁の誰も、この『些細な因果のズレ』が何を意味するのか、特定できない。だから……あなたが最後にやった『裏の修正』の副作用じゃないかって。」


クロードは黙って、泥で汚れた手を水路で洗い流した。彼が引退前に、ガイア・レコードの全パラメータを封印し、構造を恒久的に安定化させたはずだった。「些細な因果のズレ」は、システムの設計図そのものに亀裂が入り始めている証拠だ。


ライラは、クロードの静かな反応に、苛立ちと同時に畏怖を覚えた。


「ねえ、クロード。正直に教えて。これって、あなたが使っていたルート鍵の残留エネルギーが、システムを不安定にしているとか、そういうことじゃないの?」


クロードは、顔を上げ、ライラをまっすぐに見つめた。彼の目は、まるで過去の全てを拒絶するかのように、冷たかった。


「知らん。」


たった一言。


「……え?」


「俺の仕事は『ミッションコンプリート』で終わった。お前らが今直面しているのは、俺が去った後のシステムのアップデートバグか、あるいは次世代の管理者が対処すべき問題だ。」


「システムに触れるな。」


クロードは内語で強く念じた。脳裏に、引退直前に『最大の修正(最終ダンジョンの恒久封印)』を行った際の、地獄のような音像記憶が蘇った。全身の神経が、OSのログと共鳴し、数百万の悲鳴を聞いたあの悪夢。あの痛覚と、本能的な嫌悪感に、二度と触れたくなかった。


「聞きたくない。」


クロードは言い放ち、再び畑の作業に戻った。彼の心には、地下から聞こえるOSのノイズ混じりの音が響いていた。彼はその音と、過去の重い記憶に、「触れたくない」という強い拒否感を抱いていた。


ライラは、頑ななクロードの姿を見て、説得を諦めた。


*


【同時刻:因果調整庁・第一会議室】


ライラがクロードの畑を出る頃、因果調整庁の第一会議室では、セリア・ヴァイス団長が部下たちに指示を出していた。


白い壁に投影されたホログラムには、ダンジョンの設計図上に、赤く点滅する「数ミリのズレ」の箇所が何百と表示されていた。


「このズレ一つ一つは無視できる。だが、このズレの『発生パターン』が問題だ。すべて、旧管理者のアクセスログと極めて類似している。」セリアは眼鏡のブリッジを押し上げた。


部下の一人が不安そうに口を開いた。「団長、まさか、クロード・アシュフォード元管理者が……世界の因果律を裏側で操作しようと?」


会議室の空気が張り詰めた。『クロード・アシュフォード』という名前は、庁内では既に「禁忌」に近い。


セリアは感情を一切滲ませず、淡々と続けた。


「データは、彼の存在がシステムの『不安定な参照元』となっていることを示している。我々は、彼の存在が世界構造のバグの『根本原因』であるという最悪のケースを想定し始めている。ライラからの情報があれば、次の手を打つ。静かに情報を待て。」


彼女の論理には一片の迷いもない。だが、その背後に隠された「世界を救った英雄を討伐するかもしれない」という矛盾する正義感が、会議室全体に重くのしかかっていた。


*


【クロードの畑】


ライラが車で遠ざかる音を聞き届けた後、クロードはゆっくりと立ち上がった。


彼は、土ダコが刻まれた手袋を外す動作を、極めて丁寧に、まるで儀式のように行った。指先に感じたのは、地表の暖かい温度と、その奥に広がる土の静けさだ。


彼は、その指先で「ハイディの奇跡」の畝の土にそっと触れた。畑全体に広がる、揺るぎない静けさと、手をかけた分だけ返ってくる因果律の安心感が、彼を満たしていく。


「俺の小さな世界まで、巻き込むな……。」


彼は、遠ざけたはずの世界の影が、すぐそこまで迫っていることを、皮膚の感覚で理解していた。しかし、その因果に再び触れることへの嫌悪感と、平和への執着が、彼の拒絶を、さらに強固なものにしていた。


彼の畑の土の中には、微弱な「ガイア・レコード」の低周波ノイズが紛れ込んでいたが、彼の心は、そのノイズを意識的に排除し、「静」の重さを求めていた。

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