錫のスプーンと僕のことについて
朝永 優
第1話 プロローグ・回想
この場所を訪れるのは、一体何年ぶりだろう。
卒業後、確か一度は何かの用事で、書類の受領のためにほんの少し事務所に立ち寄ったことがあった。その後は時たま思い出すことはあっても、ここは遠い回想の場所であり続けた。大きな戦争や幾つかの小さな動乱を経験したこの激動の時代、私はイリリアの軍人として前線に立ったり、後に昇進して軍の指揮を執ったりし続けてきた。世界が緊張緩和に向かい、長く暗い曇天にようやく晴れ間が兆し始めたように思える今日になって、私はこの国防軍幼年学校に招かれてようやくここを再訪したのだった。
在学時はただ大きく威圧的に感じていた校舎を久しぶりに見た私の脳裏に浮かんだのは、こんなに小さなものだったろうか、という思いだった。思い返せば当時は校舎だけではなく、校庭の木立ちも、正門の旗竿も、校長をはじめとする教官の方々も見上げるように大きく威圧的に思えたものだった。そして、当時は私たち生徒が利用するのを禁じられていたこの正門の円柱も、この学校の権威の大きさを象徴するように聳えていたものだった。
車が正門前の小道に滑り込んで、駆け寄ってきた制服姿の教官らしい一人が車のドアを開けてくれた。私が降車すると、整列した教官たちが一斉に敬礼した。私は暫し答礼すると、彼らの前をポーチで待っている校長に向かって歩き始めた。
教官たちと一緒に、数人の生徒たちも私を出迎えてくれていた。皆、学校が選別した優等生なのだろう。私は彼らのまだ幼さの残る顔の一人一人に目を注いでいった。皆、緊張と生徒代表に選ばれた誇りを満面に湛えてじっと私を見返していた。
ふと、そのうちの一人に目が留まった。
睫毛の長い大きな灰色の瞳。幼いというより、殆ど少女を思わせる優しげな顔立ち。彼もまた自分にあたう限りの緊張感で、この場面に臨んでいる。
その顔を見た途端、私の中で一つの名前と共に数十年の時が巻き戻った。
――アマーリエ
長く忘れていたさまざまな記憶が、映像のように私の脳裏に押し寄せてきた。入学式。夜の寮のぼんやりした明るさに包まれた寝室。海上訓練。そして、あの演習のこと。
私は、立ち止まって目深に制帽を被り直した。しかし、それだけでは足りなかった。
私は右手の二本の指で、両方の目頭を押さえた。指先に溢れてくるものを感じた。
校長と学校幹部たちが何事かと急ぎ足に近寄ってくるのがわかった。
私の名はトーマス・マルティ。イリリア共和国国防軍退役大佐。だが、あの頃の私は単にトーマスであり、彼は私のバディであり、永遠に私にとって「アマーリエ」であり続ける少年だった。
これは、彼の、そして私の回想である。
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