第28話 夢の退職
「お世話になりました」
きっちりと頭を下げる俺の姿は、おそらく何ヶ月も前から大勢の人の間で予想されていただろう。
わずかなため息と、吹き出し笑いを堪える気配と、楽しげだったのに急にボリュームが下げられた会話と、何か考えているのだろうが無視して仕事を続ける人のキーボードの音とが、オフィスをぐるりと囲っていた。
部長は目の前のデスクに置かれた俺の辞表届を見て、俺を見て、周りを見て、そして大仰なため息をついた。
「そうか。まあ、お前くらいの人材なら他にやりようがあるだろう。そこそこの資格はあるし」
はい、その通りです。俺は声に出さずに即答した。
同時に、うすら暗い感情に気づいて瞼を半分伏せる。
散々邪険にしたくせに、辞めると言われた瞬間に罪悪感や自身の加害性に気づいて優しくなるなんて最低だな、と思ったが、もちろんこれも心の中で罵倒するだけにとどめておく。
声に出して人を馬鹿にすると、マナレベルが下がってしまいそうな気がする。風属性は表現力が豊かで言語化が得意なのだから、うっかり下手な事を言ってしまいかねないだろう。
泣きながら退職するなどといった無様な姿を晒すのは癪で、うっすらと笑顔を浮かべるよう気をつけていると、上司は少し考えるそぶりを見せ、やがてため息をついた。
「……残ってる仕事は」
「来週期限のが二つです」
「そうか、なら大丈夫だ。今月末までに荷物を片付けて、あと引継ぎは……」
あれこれと話している言葉が、まるで興味がない落語のように耳をすりぬけてゆく。俺自身が透明人間になったようだ。
それでいい。どうせ元から透明だったんだ。消えたところで業務に何も支障はないだろう。
プリンターのインクや紙がいつの間にか自動で補充されなくなってしまったり、調子が悪かったWi-Fiがいつの間にか直っていることがなくなってしまうくらいだ。
始終静かに受け答えをし、用意していた言葉を並べる俺を、上司は訝しげに見ていたが、最後まで何も言わなかった。
俺が何を企んでいても、何を考えていても、辞めるならどう思われても知ったことではない、ということなのだろう。お互い様だ。
辞める俺に誰がどんな感情を持っていようが、俺はもう自由だ。
俺にはリューゲンヴェルトという新しい舞台が用意されている。
・ ・ ・
「今の環境が、転生前のみなさんのマナレベルでは負荷が重すぎると思う人が、この中のほとんど全員かと思いました」
数日前の集会の時、リゼははっきりとそう言った。
最近ずっと魔法陣の真ん中で正座をしていた彼女が、今度はそこに立ち、リーダーとして部隊を率いる者の表情をしている。
「ひどい扱いをされ、罵詈雑言を雑巾相手にするように浴びせられ、時にはそれを苦に命を絶つ……。
私の場合、働く女性の尊厳も奪われました。セクハラはもちろん、『仕事ができる“女”』という立場が男性社員の劣等感を刺激してしまい、嫌がらせを受けたことも多数あります。
日本の労働環境は、多くの人々にとって心を乱す原因になります」
それを聞いて、俺はぎりりと奥歯を噛み締めた。
俺の職場にも、俺より仕事ができる女性社員が大勢いる。そんなの当たり前だ。
俺の場合、自分は仕事が下手だということが十分分かっているから、彼女らに対するどす黒い嫉妬や劣等感などは自分の問題だと分かっている。妬みを持ってはいるが、表に出すと自分が怪我をすると知っている。
だが、男としてのプライドが腫れ上がった人間であれば手を出すだろうと言うことは、容易に想像つく。掴み合いになれば自分が必ず勝つと分かっている相手に、平等な武器を与えられる戦いで負けることが悔しいのだ。
分からなくもない。だが、分かることと実行することは、別だ。
その被害者であったリゼが亡くなり、仕事から解放された結果、異世界でその能力を発揮して人々から称賛を集めているという結果は、彼女の語る過去を鑑みれば良かったのかも知れない。
「みなさんのマナに揺らぎが見られることにも、私は前回の集会の時からうっすら気づいていました。瞑想はきっちり出来ても、睡眠時間を確保しても、それぞれの精神がマナに与える影響は大きいのです」
俺は仕事のことを思い出しながらその話を聞いていた。
マナ覚醒瞑想という、荒れた心を落ち着かせる時間。以前のような突発的な怒りや不安はなくなったが、その時間を確保するために睡眠時間を削り、仕事に集中できなくなり、ミスをして咎められ、また瞑想に逃げる。
このループのうちどれかひとつを断ち切らなければ、永遠にぐるぐると回り続けるだけのような気がする。
似たようなことが起きていると、ジルとカイルも話していた。
瞑想が上手くいくようになってからは、ポーションも料金を払って追加し、順調に続けられているが、仕事に支障が出るようになった、と。
特にカイルは俺と似ていて、広告代理店で納期に追われているらしく、最近の睡眠時間は3時間前後だと話していた。
彼の目の周りの隈や、時折俺たちの話にも集中できていなさそうな態度を心配してお互いに相談し合っていた。仕事が忙しすぎてマナ覚醒瞑想が上手くできなくなるのが怖い、と。
俺と同じように、カイルもオンラインサロンで数時間かけてリゼに相談していたらしい。ということは、他の参加者たちにも少なからず、リゼに助けを求めた人がいたに違いない。
「マナ覚醒瞑想は、途中で途切れると一気にマナコアの力が落ち、取り返すのに数日かかってしまいます。だから、出来る限り瞑想を優先してもらうよう私も話してきましたが……。
みなさんの生活環境や仕事の状況まで考えていなかった私の責任です。ごめんなさい」
軽く頭を下げるリゼの表情は悔しそうだった。
だが俺は──俺たちは、そうして考えてもらえるリゼの存在が嬉しかった。全員がオンラインで相談したことで、リゼが問題を浮かび上がらせてくれた。そして、対策を取ってくれるようになった。
うちの上司よりよっぽど話しやすい。きっと改善してくれるだろうという期待が持てるぶん、俺の会社よりよっぽど頼りになる。
「あまり極端な手段には出たくなかったのですが……マナコアにかかる義務的な重圧を少しでも減らして欲しいのです。
重い責任、追ってくる締め切り、心を削る評価、ひとつのミスも許されない環境、諦めや見下す視線を向けてくる人間。
そういった問題をみなさんが抱えているみたいなので、できれば、マナコアが安定するような仕事を検討して欲しいのです」
リゼは悔しそうな表情のまま、だが新たな大プロジェクトにみんなを巻き込む女上司のような目で、俺たちに話した。
「マナフィールドに選ばれたみなさんが今働いている職場は、転生前の一時的な仮の居場所。なので、変えることをどうか恐れないで下さい。次の仕事も仮の居場所なのですから。
できれば定時で帰って瞑想時間を確保でき、重い責任がない、マルチタスクを避けられる、生活リズムが安定する仕事にするとマナの揺らぎが減ると思います。
アルバイトでも、単発でも、なんでも構いません。無職になると生活が立ち行かなくなるので、働くことはやめてはいけませんよ。みなさんの……健康が一番大切なので」
にこりと笑ったリゼの纏う空気に、一点の曇りもない。それどころか底まで澄んだ泉のようだ。
その笑顔に惹かれ、俺含め参加者たちが感嘆の声を漏らす。隣に座っていたカイルが「辞めてもいいってことだよな?」と、懇願に近い声で俺に耳打ちした。俺も同じことをたずねたかった。
俺より立場が強くなる部下。当たりの強い上司。終わらない仕事。いつの間にか背中に乗せられる他人のタスク。増えるミス。冷や汗をかく遅刻。雑談さえも許さない同僚。近寄りさえしない女子社員。上がらない評価。存在しない定時。存在しない労基法。存在しない昇給。
あれを、捨ててもいいのだろうか。
呆然と見上げる俺の目線に気づいたリゼが、ふわりと優しく笑う。
「大丈夫です。辞めることは……逃げではありません。
みなさんが輝ける場所に行くための、準備です」
仮の居場所から離れて、準備をする。
全てをやめてしまってもいいのだと分かった途端、心が山奥の泉の水面のように穏やかになった。隣に座るカイルとジルも、同じようにほっとしたような表情でリゼを見上げている。
続けることの美徳、耐えることの素晴らしさ、みんな辛いんだからと抑えつけられる辛さ……それらからどう逃げるかばかりを考えていた俺たちの目の前に、リゼは新しい鉢を準備してくれている。
置かれた場所で咲けないなら、咲ける場所に行けばいい。
どこかで聞いた言葉を口の中で繰り返しながら、俺はリゼが提案する明るい逃げ道に踏み出した。
・ ・ ・
「今まで、あんまりとやかく言ったことはなかったけど……」
月末の最終出勤日の夜、デスク周りの荷物を整理していると、数年先輩の社員が話しかけてきた。入社してすぐに現場に放り込まれた俺に、慣れるまであれこれと世話を焼いてくれた人だ。
「……しんどかったよな。お前が全部悪いわけじゃないんだ。俺ももっと気にかけてやればよかったけど、忙しすぎて」
俺はリュックに文房具などを適当に詰めながら、結局そうやって自己保身に走るんだな、と感情が冷めてゆくのが分かった。忙しすぎてはいらないだろ、と思いながら。
俺は手を止めず「そうですか」と答えた。
これまでなら歯切れ悪くあれこれ答えていただろうが、辞めると分かればもうどうでもいい。どう思われてもいい。何を言ってもいいし、何を言われても気にならない。明日からここに来なくていいのだから。
罪悪感がひとかけらもないわけではない。
だが、彼は選ばれなかった人で、自分は彼より、上司より、この会社より大きな存在から選ばれた特別な人間なのだ──そう思えば、「仕方ない」という感情だけが滲み出てくる。
リュックを背負い、先輩に会釈してオフィスを出た。彼からそれ以上、何か声をかけられることはなかった。
エレベーターホールの自販機前で、元部下の上司が他の同僚たちと一緒に缶コーヒーを飲んでいた。エレベーターを待つ俺を見つけると、少し気まずそうな笑顔で手をあげた。
「お疲れ様っした、江河さん」
いつもより小さな声。彼が入社したての時の挨拶を思い出す。部活の挨拶のノリが抜けない彼のことを、とてもいい奴だと思っていた。
俺はせめてもの、彼と……自分への抵抗として、無言でエレベーターに乗った。
外に出ると、月が夜空の上で煌々と輝いていた。
俺は無意識に、スマホケースに入れた咲優輝の写真に手を添える。
彼女が死んだのも、こんな夜の日だった。
咲優輝がリューゲンヴェルトで暮らしていることは、リゼを通じて確定している。こんな日の夜、俺が日本での仮の居場所を捨てて、彼女に一歩近づいた場所に立っている気がして、無意識に足を踏み鳴らした。
「明日から…………仕事しなくていいんだな」
ひとりでぽつりと呟いた。
それは、ほんの僅かな不安と、呆れるほど大きな解放感に満ちていた。その場に膝をついてしまいそうだった。
俺は駅に向かって駆け出した。
緩む口元から、安堵の呼吸が何度も漏れる。
リゼの言うとおり、生活はしないといけないから、新しい仕事を探さないといけない。だけど、もうこのオフィスに戻らなくていい、もっと簡単で、定時で帰れて、マナ覚醒瞑想が毎日きちんと出来る仕事でいいと、リゼは話していた。
『みなさんが輝ける場所に行くための、準備です』
間違ってない。俺を探し求めてくれる人のためにやってるんだ。
俺は風だ。
自由に世界を駆け巡る風なんだ。
何かにとらわれるなんて、きっと元から性に合ってないんだ。
楽しくなって、信号を渡る時、思い切りジャンプした。「いよっっしゃああ!!」と叫んだ俺を、通行人がすごい勢いで避けていく。
だけど、それでもよかった。俺を一度も選んでくれなかったこの世界の人たちを置き去りにして、俺はたった一人の夢の女性を選ぶんだ。
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