第9話 幻想と現実の隙間
帰りの電車の中で、参加者フォームへの入力は済ませてしまった。
氏名、住所、電話番号、性別……よくある項目に機械的に入力しながら、俺はぼんやりとリゼの言葉を思い出していた。
──貴方の人生は、ここから始まります。
──私は……『貴方』を待っています!
その言葉を頭の中で繰り返しながら、俺は茫然とした頭のままマンションのドアを開けた。
散らかり放題の部屋の床に荷物を落とすと、万年床の布団の上にどさりと倒れこんだ。
「変に頭使った……」
湿気で嫌な匂いがする布団で、先刻まで嗅いでいたフルーツのような甘い匂いの記憶が打ち消されてしまう。
不思議な空気と言葉と香りが漂う会場から、好きなアニメグッズやラノベに囲まれた自分の部屋に戻ると、まるで小旅行から帰ってきたような気分になった。
……でも、夢じゃなかった。
今もまだ目が覚めていないのであれば。
ざくり、と目を切り裂くようだった、リゼの持つ聖剣の光。
スポットライトを反射しているだけだと分かっているが、あの輝きが瞼の裏に深い切り傷を残している気がする。
「異世界の、人民軍騎士団、団長リゼ、か……」
現実とフィクションが混ざっている。今でも信じられない。完全には。
だが、ほんの少し──いや、半分近くは、彼女の言葉を信じ、惹かれ、頼ってみたいという自分の弱さを自覚する。
あんなふうに言ってくれる人に、人生で初めて出会った。
初対面のリゼを差し置いても、ライナは俺の小説を隅々まで読んでくれて、まるで本物の小説家を前にしたかのように興奮し、感想を伝えてくれた。
腹の上のあたりが、ゆるやかな熱を持つ。
これまでに一度も知ることのなかった火だ。
相手の素性はまだ底なしの暗闇の奥にあるが、誰であれ、自分を本気で求めてくれたのだということは、ライナの態度でわかる。
そして、学校でも仕事でも、例えお世辞でも、そんなふうに自分を必要としてくれる人なんて、誰もいなかった。
いつも足蹴にされ、虐げられ、笑われ、罵られ、それに見合うだけの理由を俺は俺に見つけ続け、諦めて、諦められて、生きてきたのだから。
──もう大丈夫ですよ。私が必ず、貴方の真の力を発揮できる場所に案内します。
──貴方のこれまでの人生の苦しみは、全部、私が引き受けますから。
信じたい気持ちと、疑わしい気持ちが頭の中で炎を絶やさない。
ただでさえ弱っているからこそ、安易に前者に傾いてしまいそうになる自分が辛い。
いずれ、連絡が来るのだろう。
来なければ来ないでいいだけの話だ。
ただの、無料につられた俺が、怪しい自己啓発セミナーを騙った連中に個人情報を抜かれただけだ。……嫌すぎるが。
「……小説、新しいの書くか」
ネットに投稿していた異世界転生ファンタジーの小説は、講演会の前日に完結した。新作のネタがなく、しばらくは休もうと思っていた。
だが俺は重い腰を上げ、机の上のパソコンをつける。そして、いつものように画面の横に、プリントした咲優輝の写真を置く。
そして、まだタイトルも決まっていない小説のストーリーを、ワープロソフトでざっくりとしたメモを打ち込み始めた。
ヒロインが料理で生計を立てる、異世界転生ファンタジー小説。
彼女の写真を見ているうち、きっと料理が得意に違いない、という妄想が頭をよぎった。
異世界に転生した咲優輝が食事処を開いて、現地の作物や肉を研究しながら料理し、村の人や冒険者や果ては魔族にまで慕われる、のんびりかつ幸福な転生後の話を思いついた。
主人公は咲優輝のほうではなく、異世界転生してきたアラサーのサラリーマン。
彼と咲優輝が店で出会い、お互いに転生者だと分かると、そのまま共に働くことになった。
やがて店にやって来る美女の魔道士やエルフや獣耳の魔族の少女と主人公が親しくなり、ハーレム状態となるが、彼が心から愛しているのは咲優輝……というストーリーだ。
妄想だと分かっている。願望だと分かっている。
だから俺はこの話の主人公を咲優輝にするのではなく、同じ転生者のサラリーマンにした。
俺自身の理想の形として、いつか俺が死んだ時、咲優輝に会えるように、と願った結果だ。
もし、咲優輝に異世界で会えたなら。
キーボードを打つ手がぴたりと止まる。
トラックの前に飛び出した時の記憶が脳を殴る。ヘッドライトの眩しさと、リゼが持っていた聖剣に反射した光が、恐ろしいほどに重なる。
甘く優しいリゼの言葉を思い出す。
──リューゲンヴェルトなら、貴方は戦えます。救えます。必要とされます。誰よりも、私が貴方を求めています。
──どうか、私と共に来てください。この世界よりも、貴方にふさわしい場所へ!
ここではない場所に咲優輝がいるのなら、会えるのだろうか。
もし、それが叶うのなら。
謝りたい。そしてお礼を言いたい。こんな俺を助けてくれた、魅力的な女性に。
きっと笑って許してくれるだろう。だけど、そんな彼女が異世界で暮らしているのなら、俺がさらに幸せにしてあげたい。
絶望の末に訪れるとしか思えない死の先に希望を無理やり突き刺して、俺はキーボードを叩き続けた。
現世での苦しみを忘れて、異世界で幸せに生きている咲優輝の人生を、俺はひたすらに書き続けた。
救われない現実を生き抜けば、最期、死んだ人に会えるかも知れない。それは大昔から人間が抱いてきた夢だった。
だから、いつかこうなって欲しい、という設計図のように、書いた。
他人と関わることを避けてきた俺が、初めて心から全てを捧げて幸福にしてあげたいと思った人が、死後、異世界にいるのなら。
いつか俺がこの世の全てに絶望したとしても、笑って死ねるかも知れない。
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