プロローグ 仮面舞踏会の夜
夜の帳が王都を包み込む頃、〈薔薇の宮殿〉の尖塔に灯がともった。
それは年に一度、王家が主催する仮面舞踏会の始まりを告げる合図。
空には雲が薄くかかり、銀の月がぼんやりと滲んでいた。
星々はその光を隠し、まるでこの夜だけは、空までもが仮面をかぶっているようだった。
宮殿の中庭には、香の焚かれた噴水が静かに水音を奏で、
白い大理石の回廊には、仮面をつけた貴族たちが次々と姿を現す。
羽根飾りのついた仮面、宝石を散りばめた仮面、
笑顔を模したもの、涙を流すもの、無表情なもの――
誰もが“本当の顔”を隠し、誰かになりすまして踊る夜。
その中で、ひときわ目を引く馬車が、宮殿の正門に滑り込んだ。
漆黒の車体に、深紅の薔薇を模した紋章。
それは、ヴァルモンド公爵家の紋章だった。
「セレナ様、お時間です」
控えの間で待機していた侍女が、静かに声をかける。
私は鏡の前で、最後の仕上げに仮面を手に取った。
黒曜石のように艶やかな仮面。
目元だけを残して顔の上半分を覆うそれは、
まるで私の“本当の顔”を知っているかのように、ひんやりと肌に馴染んだ。
「……似合ってる?」
鏡の中の私は、誰よりも美しく、誰よりも冷たかった。
深紅のドレスは血のように鮮やかで、
首元には黒いチョーカーが巻かれている。
それは、貴族の間で“忠誠”を意味する装飾。
だが私にとっては、まるで首輪のようだった。
「完璧です、セレナ様。まるで……」
「悪役令嬢のようだと?」
侍女は言葉を飲み込んだ。
私は微笑んだ。仮面の下で、いつものように。
「それでいいのよ。今夜も、私は“そういう役”を演じるのだから」
扉が開かれた。
琥珀色の灯りが、私の足元を照らす。
深紅のドレスの裾が、静かに床を滑る。
私は一歩、また一歩と、舞踏会の大広間へと足を踏み入れた。
音楽が止まり、視線が集まる。
仮面の下の瞳が、私を見つめる。
誰もが私を知っている。だが、誰も“私”を知らない。
――それでいい。
それが、私の役割。
大広間には、無数の光が揺れていた。
天井から吊るされた水晶のシャンデリアが、星のように煌めき、
壁際の燭台が、仮面たちの影を床に踊らせる。
音楽が再び流れ始める。
優雅なワルツの調べに合わせて、仮面たちが舞い始めた。
誰が誰かもわからぬまま、笑い声と衣擦れの音が交差する。
私は、舞踏の輪の外に立っていた。
誰も私に声をかけない。
それが当然だった。
“ヴァルモンドの令嬢”に近づくには、相応の覚悟がいる。
そして、私自身もまた、誰かと踊る気などなかった。
「……仮面の下で、誰もが自由を演じているのに」
私は、手にしたグラスの中の琥珀色の液体を見つめた。
仮面をつけたまま、仮面を演じる。
それが、私の舞踏会。
「ようこそ、仮面の姫君」
その声は、背後からふいに降ってきた。
低く、澄んでいて、どこか懐かしい響きがあった。
振り返ると、そこには銀の仮面をつけた人物が立っていた。
男装の軍服に身を包み、背筋を伸ばしたその姿は、
まるで舞台の上の騎士のようだった。
「……あなたは?」
「名乗るのは、仮面を外す時にしましょう。今夜は“誰でもない”夜ですから」
その人物――彼は、私の手を取った。
手袋越しの手は、驚くほど温かかった。
「踊っていただけますか、セレナ・ヴァルモンド嬢」
名を呼ばれて、私は一瞬、息を呑んだ。
仮面の下の私を、彼は知っている。
それは、舞踏会のルールに反すること。
けれど、なぜかその声には、拒む理由を見つけられなかった。
「……ええ、喜んで」
私は手を預けた。
音楽が変わる。
ゆるやかな旋律が、私たちの足元を包み込む。
彼の手が、私の腰に添えられる。
もう片方の手が、私の指を優しく導く。
まるで、私の心の奥を見透かすような動きだった。
「あなたは、仮面の下で泣いている」
「……そんなふうに見える?」
「ええ。とても」
私は笑った。仮面の下で。
それは、誰にも見せたことのない笑みだった。
「あなたこそ、仮面の下で何を隠しているの?」
「それを知りたいなら、踊り続けてください。
この夜が明けるまでに、あなたにすべてを見せましょう」
その言葉に、胸が高鳴った。
仮面の下の私が、確かに“生きている”と感じた。
――この夜は、何かが変わる。
そんな予感が、月の光のように静かに心を照らしていた。
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