嵐の日
アオがひと回り大きくなった夏の午後。
リビングの床いっぱいに、クレヨンが散らばっていた。
外では、アブラゼミが途切れなく鳴いている。
ソラちゃんは机の上から、いつものようにその様子を見ていた。
「うまく風が
「いいの。アオの空には、ちゃんと風が吹いてるよ」
けれど、その日のアオの心は晴れなかった。
学校で描いた風の絵を「なんか髭が生えてるみたい」と笑われた。
その言葉が、小さく頭の中に響いていた。
クレヨンの先が紙を削る音が、だんだんと荒くなった。
線が重なり、ついには紙が裂けた。机の上に白い屑が散り、風の形は歪んでいた。
アオは手を止めたまま、動かなかった。
ただ、セミの声だけが遠くで鳴き続けていた。
「ソラはアオの絵、好きだよ」
「うるさい!」
「アオ……」
「もう知らない! どっか行ってよ!」
アオはソラちゃんをつかみ上げ、指先でぎゅっと押しつぶすように握った。
勢いよく振ろうとした腕には力が入り、動きが途切れたように、ほんの一拍だけ空中で固まる。
その静止が崩れると同時に、手は何かが切れたようにほどけ、ソラちゃんはその勢いに押し出された。
音もなく短い弧を描き、椅子の陰に落ちる。
それと同時に、アオがためらったその一拍だけ、世界が遅れて動いた。
太陽の光もセミの音も、夏の匂いも。
アオは、そのあとに何が起こるかなんて、想像もしていなかった。
不意に空気が裏返るように揺れた。
カーテンが裏返り、窓の鍵がかすかに鳴る。
それが鳴り終わるのを待つ前に、肌に張り付いていた温度を剥がすような冷たく重い風が部屋の奥まで一気に押し寄せた。
紙が舞い、クレヨンの箱が床を転がる。絵の具の水面が波打ち、光が細かく跳ねた。
紙の上で、青空がざわめいた。
青が滲み、黒が這い、雲の縁が波打つ。
線が歪み、紙の中の風景が生き物のようにうねりはじめる。
音はなかった。ただ、閃光だけが音もなく空を裂いた。
椅子の陰に落ちていたソラちゃんが、淡い霧のようなものに包まれて揺れていた。
その霧は、ソラちゃんの輪郭を吸い上げるようにして混ざり合いながら、さっきまでアオが描いていた紙の中へ、風と一緒に入り込んでいく。
紙の上で、描いた風が現実の風に共鳴するように震えた。
「……ぼくの絵……?」
ソラちゃんの姿が風に揺れ、輪郭が消えかけていた。
「ソラちゃん!」
声が届く前に、世界が裏返った。
──目を開けたとき、アオはすぐにわかった。
ここは、自分の絵の中だ。
考えるよりも早く、呼吸のように自然にそう確信していた。
足もとはクレヨンのざらつき。
一歩ごとに粉が舞い、足跡がすぐに崩れる。
空はクレヨンの線でできていたが、水と光が混じり、流れ、重なり、空そのものが呼吸しているようだった。
だが、それはもう、いつもアオが描いていた優しい世界ではなかった。
空が裂け、風が
荒れた空模様が、今のアオの心の中と響き合っているように見えた。
嵐の中心には、ソラちゃんがいた。
パンのあいだから覗く丸い顔。
小さな耳が風に打たれ、縫い目の影が風にかき乱されている。
それでも、こちらを見つめていた。
「アオ……こわい……!」
「待ってて! すぐ行く!」
だが、足もとの線が捻れていく。
地面が歪み、アオの身体は前へと投げ出される。
支えを失った足が空をつかむように滑り、膝が崩れ落ちた。
世界そのものが、消えかけていた。
この嵐が続けば、ソラちゃんごと絵の世界がちぎれてしまう。
──考えるより先に、それが一瞬でわかった。
「どうすれば……!」
指先にひんやりとした感触が触れた。
崩れかけた地面の線の裂け目に、白いクレヨンが転がっていた。
考えている暇なんてなかった。
ただ、あの嵐を吹き消して、ソラちゃんを守らなきゃ──その思いだけが、半ば本能のようにアオの腕を動かした。
アオはクレヨンを握りしめ、空に向かって描いた。
一本の白い線を──そしてもう一本。
壊れかけた世界をもとどおりにするように、風のかたちを必死に描き直した。
それは、あの嵐を吹き飛ばす風になれという、祈りそのものだった。
紙の上で、アオが描いた白の線が波打った。
すぐにアオの手の動きに呼応するように、白い息のように立ち上った。
線は清らかな風となり、天と地を結ぶように駆け抜け、軌跡を描きながら吹き抜けた。その中心には、見えない大きなものが確かに息づいていた。
黒い雲は瞬く間に澄み切った空気になった。
空は太陽を取り戻し、暖かな温度と光を再び宿した。
「……アオ」
アオは駆け寄り、ソラちゃんを抱きしめようと手を伸ばした。
風はふたりを包み込み、世界は輪郭を取り戻していく。
──目を開けると、そこはいつものリビングだった。
アオは、何が起きたのか理解できないまま、その場にへたり込んでいた。
世界がゆっくりと現実へ戻っていく気配を、遠いところから眺めているようだった。
しばらく身じろぎもせずにいたアオの視線の先のタンスの隙間で、ソラちゃんがひっそりとうずくまっていた。
アオは、呼ばれるように立ち上がる。
頼りない足取りで一歩ずつ近づいていき、何も言わずにソラちゃんを拾い上げる。
手の中の重みはほとんどないはずなのに、その存在は、はっきりと感じ取れた。
埃がついたままのソラちゃんを、アオは静かに、そして決して離すまいとするように抱きしめた。
床には、白いクレヨンの粉が散っていた。
アオはその日から、嵐を止めた白いクレヨンを、お守りのように持ち歩くようになった。
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