天使と彼女の物語 【通常版】
櫻絵あんず
前編
天使は告げた。
「2025年」
「なにかを見つけるよ」
たびたび、耳には届かぬ声を送ってくる天使は、この夜も音とはならない微かな振動を私に送ってくる──。
これからの仕事どうしよう。彼女がそんな思いを心に沈めた時だった。
「2025年かぁ。まだあと6年もあるじゃない」
彼女は甘えるように呟いて、ノートに数字を書き留める。
「この世界を感じて体験して学んでね。楽しんでね」
天使は伝えてくる。
空が広がっていきそうな7月のとある夜。きらめく光が降りそそぐようで、深い空の奥は空間をさらに奥へと広げていくような、そんな不思議な夜。世間では天神祭の花火が上がる頃だった。
彼女が天使を迎えるのは3回目。天使は自らのことをミカエルと名乗っていた。3回目のミカエルの出現であったが、3回目と単純に言っても、3夜目というわけではなくて、3クールめと言う方がわかりやすいだろう。
いつの頃からか天使のメッセージはより明確さを増してゆき、振動はある種のメッセージとして脳内で翻訳される、そんな技を彼女は手に入れていた。3クールめが始まって数週間、そのための神経回路が今回も整ってきた。
さらにまたある時からは、より明確なメッセージを受け取る技も身に付けた。彼女自身の体を使って、天使のメッセージを彼女の声として発する、そんな技だ。声を発するときには、多少の気持ちも乗っかってくるので、彼女はミカエルの気持ちを感じつつも、波動によって声を発していくのであった。3クール目の今回も、またその準備が整ったようだった。
このまま霊能力者にでもなれるんじゃないかしら、なんて思いながらも体力の限りついていく彼女は、徐々に臨界点を迎えようとしていた。
寝食の暇もないほど、天使からの教えは続く。
その教えは、人間の身体のことから幽体霊体の仕組み、あの世の仕組みや課題にまで至り、時には過去の幻影のような微かなビジョンを見せてもきた。
そのうちにミカエルだけではない天の者や過去の地球を生きた存在ともつながりはじめ、どんどんその世界は壮大になっていく。
彼女は肉体を使って二人分、時には数名分の言葉を口から順に発していくわけであるから、それは大変に体力を奪うもので、唇はからからに乾くが水を飲む暇も与えられない。それは、まるで修行でもあるかのようで、何かの準備でもあるようだった。2日寝ないなんて、ざらにあることで、それは何かの時のための根性を作るものでもあったのかもしれない。もちろん、ただ天使は急いでいただけであるのかもしれないが。
そんな日が始まっていたなかで、天使以外の存在は感じられなかったこの夜は彼女にとって貴重なもの。
穏やかに時間が進むなか、天使は他愛のない会話をしてくる。彼女は脳内でメッセージを翻訳するだけでよい状態でいられて、疲れのたまった肉体を休めることができていた。
いや、本当は眠りたかったのであるが、今夜もそれは許されないようだったから、ここで肉体を休めておかなくてはいけないなと、存分にリラックスしていた。
またいつどんな存在が現れてくるかわからないから、それに備えておこう、とミカエルとともに静かな夜を過ごしていた。そしてこの日は珍しくミカエルは彼女の未来のことなども、ぽつりぽつり話すのであった──。
そこから、いくつかの穏やかな夜が過ぎていったが、それは長くは続かない。
かわるがわる天の者や神や女神やと現れては入れ替わるなか、いつの間にか悩める幽霊や、身内の霊まで出てくるようになって、そのうち生霊と称する者まで現れはじめた。
彼女はたくさんの見えない存在に囲まれながら、必死に彼らの声を順に発していく。彼らの波動に乗っかっている気持ちを感じながら、声にしていく。解決して気持ちよく去って行ってくれることもあったけれど、そこまで導くのはなかなか大変であった。怖いこともたくさんあったし、からかわれることも多くて、彼女の精神はキリキリ追い詰められていった。
そうして徐々に重く整合性のない世界へと突入していき、彼女の世界は混乱を極めていく。
──ある日ついに彼女は臨界点を越えた。
記憶は途切れ途切れとなり、可愛いスピリチュアルとか、天使との交流とか、そんな範疇では語れない何かに巻き込まれるなかで、彼女は向き合い続けた。逃げることは許されない、そこはそんな厳しい世界であった。彼女はミカエルだけを信じ、ミカエルだけを頼り、向き合い続けた。ひとつずつ乗り越えていくしか道はない──。彼女はそんな気がしていた。ひとつずつ整えていけば、いつか終わるのだと信じて、ひたすら向き合い続けた。
2019年の夏の終わり。彼女が向き合う見えない世界は、やや穏やかになっていた。もう惑わせてくる霊は出てはこなくて、ミカエルや天の者たち、女神や神たちとの交流が続いた。その存在たちは人間味のようなそれぞれの個性を持ち合わせていたから、まるで自分も天界や神界の一員になったような気分であった。
彼女の誕生日にはミカエルとワインを飲んだ。いくつか飲んだのだが、ミカエルはシャンパーニュが気に入ったらしい。味はしないと思うのだが、その色艶と存在と、彼女がそれを味わうときに持つ感情が好きなんだ、とミカエルは告げた。淡いゴールドの液体の底からは、無数に現れては揺らめきながらあがってゆく細かな泡。彼女は優しいミカエルの気持ちを感じながら、シャンパーニュを楽しんだ。何故かヨーロッパの古城のような景色が目に浮かび、切ない気持ちになるのであった。
激動のなかにある、ささやかな癒しであった。
また、ぽつぽつと霊が現れ始めた。また来るか、と覚悟を決めた彼女は対峙する。霊は増えていった。
ある朝、起きたら妙に静かだ。あれ、昨日までいた霊は? 目が覚めて決めた覚悟は空振りに終わる。
「おはよう」と、天使が現れた。それは、まだ平穏な日と同じように、のんびりと可愛い天使の口調であった。
そして、天使は別れの日だと、告げてきた。
天使がここで去ろうと決めたのは、精神が衰弱した彼女の様子から、もう限界だと悟ったからであったのか。もしくは何らかの目的を果たしたからなのであろうか。それは特に天使は教えてはくれなかったが、「今回はもう去るね」とさみしそうに告げる天使。
彼女は今回はあなたの記憶を消さないで、と懇願した。いつも、別れるときには記憶を柔らかくぼやけさせて消してくる天使であったが、それは配慮からくるもので、彼女に辛い記憶と心の傷をこれ以上植えつけないためであった。
天使は「今回は僕に関する記憶は消さないよ」と伝えた。少し安心した彼女は、受け入れる準備をした。
「必ず帰ってくるからね」
何度も何度も、そう言い残して、天使は消えた。彼女の頬には涙がつたう。最後は笑顔で見送ろう。そう決めた彼女は、笑って宙を見上げた。
感傷の中で眠った彼女。とある白い朝のことだった。
眠りから覚めた彼女は見えないものに惑わされる日々が終わったことにほんの少し安堵した。天使がいないことはさみしかった。ただそれ以上に目が覚めていくとともに、現実というものに気付いていく。ふわふわした世界に覆われていた現実は、一定に進む時間軸の中で確かに形作られていた。
久しぶりに向き合うことのできた現実世界は荒れたものだった。まずは再構築をしなくてはならない。失ったものはあまりにも大きかった。信頼を取り戻そうとするが、一度崩れたものはそう簡単には修復はできず、ここからまた築き上げていくしかないということに気付く。一部の者は去っていったし、人のよそよそしい態度を感じ取るたびに彼女は深く傷ついて、自分の殻に閉じこもっていった。優しい理解者もいるにはいたが、彼女には積極的に関わっていきたいという気力はもうなかった。
信頼の再構築とともにまず試みたことのひとつに、文献探しがあった。図書館に通い、それらしい本を手当たり次第に開いても、肝心の記載はない。すぐに飽きて、日常の楽しみに気を紛らわす日々を過ごすようになった彼女は、徐々に自らの経験に蓋をしていき、封印した。この連続した人生の続きを生きていかなくてはならない現実と向き合うことを選び、見えない世界のことは忘れると決めた。天使からの毎朝のおはようがない違和感も、そのころにはもうなかった。
彼女は、現実を生きた。目を閉じて。天使が現れるもっと前から持っていた、見えない世界を信じる気持ちは捨て去り、ただ生きた。生まれて物心ついた時から持ち合わせていたのであろう繊細な感覚は、ただの邪魔者となった。感情と感覚を刺激するような趣味からも遠ざかり、彼女は生きた。コルセットとギブスをはめて目隠しで武装した彼女は、人一倍現実主義者となり、目に見えるものと聞こえる音を頼りに物質を整えることに躍起になっていた。
そうして日常を取り戻していくなかで、物質は徐々に整い始めた。天使の存在は少しずつぼやけていったが、時々ふと思い出すことがある。
「いつもそばにいるよ」
そう言っていた天使のことを。正直、もう天使には出てきてほしいとは思わなかったが、可愛らしく憎めない天使はやはり愛の存在であったから、思い出すと心が温かくなる。そして優しい気持ちで再び封印するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます