第6幕: 夢と現、安息と嵐のはざまで(1)

 東京でも最高級と名高い大病院。

 特に、上層階の隅に設けられた特室は豪奢ごうしゃだった。

 病院というより、五つ星ホテルのように見えるほどだった。

  

 その一室。

 ベッドの上には、幾本ものチューブに繋がれた若い女性が横たわっていた。

  

 白いシーツに包まれ、まるで眠っているように静かだ。

 窓からの光が、頬を淡く照らす。

 長いまつげが影を作り、唇には血の気がない。

 生きているというより――。

 時間が止まってしまったみたいだった。

  

 それでも胸の奥でわずかに動く呼吸だけが、

 彼女がまだ生きていることを辛うじて示していた。

  

「少し、話をしたいの。――外してもらえるかしら?」

  

 整えられた真珠色の爪が、まるで装飾品のように輝く。

 点滴量を確認していた看護師は息を呑んだ。

 ……お金持ちのネイルケアって、やっぱり違う。

 年間で美容にかける額が、何百万にもなるって聞いたこともあるし。

  

 上流階級の人間というのは、何から何まで違う。

 そんな感想が脳裏をかすめた。

  

「……かしこまりました、奥様」

  

 張りつめた顔に浮かぶのは、冷たくゆがんだ笑み。

 打ったボトックスのように表情は動かず、どこか毒を含んでいた。

  

 看護師は本能で悟った。

 この人には逆らってはいけない。

 何百という患者家族を見てきた彼女の勘が、危険信号を鳴らしていた。

 彼女は深く頭を下げた。

 そして、そっと病室を出て行った。

  

 ドアが閉まり、機械の電子音だけが部屋を満たした。

 規則正しく点滅するモニターの光が、眠る女の頬に青白い影を落とす。

 中年の女性はため息をつき、ソファに腰を下ろした。

  

「――まったくしぶとい子ね。

 あんな事故で一人だけ生き残るなんて。

 どこまでも強運というか、図太いというか」

「母さん、その言い方は……」

「監視カメラのこと? 

 この病院のオーナーはうちの親戚筋よ。何も問題ないわ」

  

 彼女は冷ややかに笑う。

 そして、隣の青年――息子の肩を軽く叩いた。

  

「心を強く持ちなさい。これでホテルはあなたのものになるの。

 あの子がどれほどお義父様に取り入って、KAEIホテルを譲り受けようとしていたか。

 あなたには、赤字ぎりぎりのスポーツブランド部門しか回そうとしたのよ!」

「でも……」

「悔しくもないの? あなたのお父様は長男、あなたは嫡孫ちゃくそんよ! 

 それなのに、全部あの家に取られるなんて。

 ――啓司けいじ、母さんが動いたのは無駄だったと思う?」

  

 彼女の手の温もりは優しさではなかった。

 それは命令の重さだった。

 青年は何も答えられなかった。

 ベッドに眠る従姉――瀬那せなの顔を、ただ見ないように目を閉じる。

  

 ……瀬那。

  

 彼が気づいた時には、すべてが終わっていた。

 あの夜の事故も、その後の処理も。

 途方に暮れ、ただ目を閉じることしかできなかった……。

  

「植物状態っていうのは厄介ね。

 万が一、目を覚ますことがあるかもしれない。

 ――でもロンドンに留学する前でよかったわね。

 海外にいたら、計画を整えるのが大変だったでしょうし」

  

 その声には歪んだ確信があった。

 まるで、自分の過ちを正当化することが正義だと思っているかのように。

  

「でも、心配いらないわ。

 事故に関わった人間は、皆『罪悪感に耐えきれず』に亡くなったもの」

  

 彼女は小さく笑った。

 唇に浮かんだ笑みは氷のように冷たかった。

 そして、どこか妖しく美しかった。

  

 母の笑みを見た瞬間、啓司の胸の奥に虚しさが広がった。

 言葉にはならない感情だった。

 それでも彼は、その感情を必死に押し殺した。

 そしてもう一度、瀬那を見つめた。

  

 ……その瞬間。

 瀬那のまぶたが、ほんのわずかに震えたような気がした。

  



 ***

  


 闇の底から、かすかな呼び声が聞こえた気がした。

  

 ――私は、夢を見ていた。

 それが夢だと分かっていても、ほとんど思い出せない。

 幼い頃に戻っていたような気がした。

 啓司けいじと一緒に遊んでいた記憶の断片。

  

 小さかった私や尚志なおしに、いつも優しく接してくれた――『嫡孫』の彼。

 どこか息苦しそうに笑っていた顔が、胸の奥を刺す。

  

 ――啓司。あなたは知っていたの? 

 それとも今になって気づいたの?

  

 戻らない問いだと分かっていても、言わずにはいられなかった。

  

 ねぇ、啓司……。

 あなたは、どうだったの……?

  

 あの日々のぬくもりが、指のあいだから零れ落ちる砂のように霧へと消えていく。

  

 息を詰めた私は、胸を押さえながら歩き出す。

  

 ここは……夢の中なのだろうか。

 目が覚めているようで、どこにも現実がない。

  

 白い霧が一面を覆っている。前も後ろも見えない。

 それでも、どこかへ導かれるように足が動いていた。

  

 ――そして、たどり着いた。

  

 そこにいたのは、『少年』だった。

  

 白銀の髪、翠玉すいぎょくの瞳、そして魚のヒレのような耳。

 ――あの夜、夢に現れた少年。

  

 今も血に濡れた衣をまとい、真紅の手を垂らしたまま静かに立っていた。

 小さな肩が震え、瞳は何も映していない。

 胸の奥を締めつける感覚。

 知らないうちに、私は彼へ歩み寄っていた。

  

 少年は私を見ず、遠くをじっと見つめている。

 その先には、揺らめく空気の幕があった。

 水面のようにたゆたう巨大な鏡。

 その向こう側では、光と影が交わる世界が浮かんでいる。

  

 ――石造りの広間。

 高い天井に青白い炎の燭台しょくだい。吹き抜ける風が低く唸る。

 荘厳な神殿のような場所だった。

  

 背の高い者たちが静かに佇んでいる。

 少年と同じ形の耳を持つ者たちだ。

  

 玉座には堂々たる体躯たいくの男が座り、その隣には薄衣うすごろものような白衣をまとう女がいた。

 銀の髪は波のように揺れ、光を受けてきらめいた。

 ――その美しさは、私が見たどんな存在よりも深く、眩しかった。

  

 二人のあいだには確かな愛情があった。

 そして――その光の中を駆け出す、ひとりの少年。

 今の彼からは想像もできないほど明るく、光のような笑みを浮かべていた。

  

「見てください、母上!」

  

 小さな指が光を掬った。

 空気が震え、神殿の柱が低く唸る。

 まるで何かが目を覚ましたかのように。

  

 ――それは、被造物ひぞうぶつには決して許されない、神の力だった。

  

「……ルネシアス?」

「……!」

  

 父王の瞳が驚愕に見開かれた。母の顔が凍りついた。

 何も知らぬ子は、ただ不思議そうに問いかけた。

  

「母上、どうして……そんな怖い顔をなさるのですか?」

  

 女は答えず、静かに立ち上がる。

 掲げた手の先に光が集まり、刃へと変わった。

  

 大地が鳴動めいどうした。

 指が触れた瞬間、王の胸に黒い痕が走った。

 その痕は瞬く間に全身へ広がっていく。

  

 夜が深まり、悲鳴がこだまする。

 女神はその背へと手を差し伸べた。

  

「ぐうう……っ、がはっ……!」

「お救いを……王よ、どうか……!」

  

 痛みに悲鳴を上げ、次々と地に崩れ落ちる民。

 地の底からきしむような唸りが上がり、空が震えた。

  

 ――今宵に限って、女神の月は異様なほど大きかった。

 その下で、巨大な津波が押し寄せていた。

 銀青の月光が波に砕け散る。

 うねりと共に、痙攣けいれんする民々の身体を呑み込んでいった。

  

「母上、どう……して……」

  

 それは問いではなく、現実への否定だった。

  

「……ごめんなさい」

  

 一瞬だけ迷いを帯びた瞳が、冷たく閉ざされた。

  

「それは、本来なら被造物には決して許されない力よ。

 あなたは――生まれたこと自体が罪なの」

「母上……?」

「あなただけが生まれなければ……こんなことにはならなかったのに」

「な、何を……言っているのか、わかりません……!」

  

 少年は否定する。

 ――それは、必死の否定だった。

  

「泥で作られたにすぎない被造物と身を交えるなど、神としては――いまわしいほどの恥。

 まして、そのあいだに子をもうけたことが露見ろけんすれば……」

  

 計り知れない力の気配が満ちていく。

 少年の身体は小刻みに震えていた。

 凍りついた空気の中、女は息子の頬を撫でた。

 それは愛ではなく、決別の手つきだった。

  

「……だから、仕方ないのよ」

  

 その言葉と同時に、結界の円が広がった。

 少年の身体を包み込む。

  

 蒼銀の月――彼女の象徴が、神殿の影を震わせた。

 城が崩れ、民が変じていく。

 肌の色が歪み、骨がきしみ――美しかった外形は怪物へと変じた。

  

 少年の瞳に映った最後の光は、息絶えた父。

  

「いやだ――!」

  

 叫んでも、父の身体は粉になって消えていく。

  

「神の血を持つゆえに、今は呪いが効かぬか……。

 だが、いずれ弱まる。

 ――これが私の最後の慈悲」

  

 彼女は背を向けた。巨大な石柱が立ち上がる。

 それが少年を閉じ込めた。

 永遠に抜け出せないように、闇へと深く、深く――。

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