第3幕: 紅に染まる覚悟(4)
「……ずっと怯えても、どうにもならないのは分かってる」
ここまで来て震えるだけなら、意味がない。
最初に殺す相手が人間であるのは――覚悟を固めるには、むしろいい。
ティアは自分に言い聞かせるように、強引に瞳を開いた。
肉片、血。匂い。
――息を詰め、体の震えを抑え込む。
ラドがそっと、彼女を包むように抱き寄せた。
「……さすが我が主です」
その時、死にかけの女冒険者が、最後の力で顔を上げた。
血に濡れた瞳が、ビホルダー――つまりティアの見ている『こちら側』をまっすぐ射抜く。
そしてティアは悟った。
――もし声を発する余力があれば、きっと
その歪んだ眼差しに宿っていたのは、
ぞっとするほど濃い呪詛と、焼けるような憎悪。
ラドが静かに囁く。
「……ええ、そのまま直視なさい。
彼らの死は、主にとっての『始まり』なのです」
「……理解してる」
ほどなく女の首が折れた。
閉じきらないその瞳は、最後の瞬間までティアを睨みつけている。
ティアの口から、ほろ苦い言葉がこぼれた。
「……私が先に襲ったわけでもないのに。
勝手に踏み込んできて、被害者ぶって……呪いながら死ぬなんて」
「人間らしい反応ですね」
互いに命を懸けて戦っていた。
それなのに、自分の死を哀れみながら相手を呪っていく――その矛盾が、どこか滑稽で。
ティアは口角をゆるやかに持ち上げた。
そうだ。これが人間。
義務のように残っていた罪悪感は、跡形もなく消える。
ただ、自分が人間性を失っていく感覚だけが、薄い恐れとして残る。
ティアは顔を背けた。
冒険者の隊を瞬く間に
「ダルク、よくやった。お疲れ様」
『この程度は朝飯前だぜ』
堂々と首を上げながらも、尻尾が小さく揺れる。
しかし血にまみれた三つの頭が同時にこちらを向く様は――凶暴というより、
ティアは、嬉しそうに振れる尾を見て、思わず息をのんだまま笑いを堪えた。
『主、俺、やっただろ? 撫でてくれてもいいだろ?』
ラドは呆れたようにその姿を見下ろす。
「そこのケモノ。そんな汚らしい姿で主の手を求めるな。
まずは洗え」
『おっと、そうだったな』
ダルクは慌てて姿を変えた。
人の形を取った彼は、厚い胸板と割れた腹筋を見せつけるように笑う。
「こんな雑魚ども、一瞬だっただろ?
これからも守ってやるから、主は安心して」
「まずは洗え。主様は汚れたものを好まれぬ」
「へいへい、分かったよ!」
「主もお上がりください。
この場はスケルトンどもに片付けさせます」
突っ立っているだけだったスケルトンたちが、ぎこちない音を立てて動き出した。
それほどまでに、さっきのダルクは圧倒的だった。
ティアはふと、目眩のような感覚に襲われる。
――もしダルクがいなかったら。
ラドはいる。
だが彼はダンジョンに合わせて自らを制限している。
どんな結末を迎えていても、おかしくなかった。
もしかしたら――彼女は、
胸が締めつけられるように痛む。
――いつか現れる勇者が来るその日まで、生き延びなければ。
そのためには、このダンジョンを成長させなければならない。
強いガーディアンを集め、襲いかかる者を撃退する。
人間たちにとって、徹底的に『悪』となって。
そうすれば――勇者が、自分を殺しに訪れるだろう。
***
「……主、入ってもいい?」
「ダルク? いいよ、入って」
許可をもらうやいなや、ダルクは軽い足取りで部屋に入ってきた。
風呂上がりなのだろう。蒸気のような湯気が、その逞しい体から立ちのぼっている。
「今日は、本当にお疲れさま」
「疲れ? そんなもん感じる前に終わったぜ。
――主こそ、平気なのか?」
軽く笑ってみせるその顔。
だがティアの脳裏によぎるのは、
ついさきほど見た『本当の姿』だった。
まさに魔物――。
迷いも
人間には到底受け入れられない存在。
「私?」
「顔が真っ青だったぜ。……もしかして、俺の姿が――嫌だったか?」
「あなたが嫌だったわけじゃないの。
ただ、戦いに慣れていないだけ。
……血が、ちょっとね。で、それは?」
「これ? 酒。主が好きそうかなって思ってよ」
赤紫のガラス瓶。
ワインのような形の瓶が、光を反射した。
追い返そうとしたティアは、ふと考えを変えた。
……どうせ、今夜は眠れそうにない。
目を閉じれば、死んでいった人間たちが浮かぶ……。
耳にこびりつく
あの光景が頭から離れなかった。
「……わかった。少し待って。グラスを探してみる」
棚を開けると、透明なクリスタルの杯が二つ。
ティアは驚きとともに息を呑んだ。
ここまで繊細なものまで――本当に、ラドは何から何まで用意がいい。
ダルクが瓶の栓を抜くと、甘い香りがふわりと広がった。
「……苺の匂い?」
「ベリの酒。度数の低い甘酒みたいなもんさ。
主が弱いかもしれないと思ってな」
「気が利くのね」
ティアはグラスに注がれる赤い液体を、ぼんやりと見つめた。
深い紅が光を受けて宝石のように輝く。
「どう? 口に合うか?」
「……おいしい。お酒っていうより、果汁みたい」
「それはよかった」
ひと口、そして、もうひと口。
冷たい甘さが、喉の奥で溶けていく。
淡く笑うティアの唇。
冷たく、
ダルクの喉が小さく鳴った。
――その笑みは、見る者の息を止めるほど儚かった。
「安心しな。度数も弱いし。今夜くらいは、力を抜いて休めよ」
「そうね……。頼もしいガーディアンもいることだし」
声の調子が、いつもより柔らかい。
少し甘く響いて、空気がゆっくりと温度を変えた。
ダルクの
彼はもう一度グラスを満たし、ティアはまた飲み干した。
「ダルクは飲まないの?」
「俺はいい。甘すぎるしな。主がうまそうに飲んでんなら、それで十分だ」
彼女の満足そうな表情に、自然と頬が緩む。
気に入ったのか。もっと探してこよう――そんな考えがよぎったその時。
ティアがふっと浅く息を吐き、椅子の背にもたれた。
「……まさか主、もう酔った?」
「……いや、まだ……たぶん?」
「マジかよ。子どもでも飲めるっと聞いてたんだけどな。やめとくか?」
「いい。……酔いたいの。今夜くらいは」
その声は、かすかに震えていた。
強がりではない。ただ心が疲れ切っていた。
「……私のいた世界では、人が目の前で死ぬなんて滅多にないの。
互いに殺し合うことなんて……ほとんどなかった。
なのに――ここに来てしまったからには、こんなものにでも頼るしかない……」
……忘れたい。
けれど、忘れたら――あの人たちを殺せなくなる。
ティアは顔を上げた。
普通の家なら、窓の外に月が照っていたはず。
けれどここは光一つない、深い地下の迷宮。
胸の奥が、静かに痛んだ。
――目を閉じれば、今も『家』にいるようで。
大きな窓に映る青い山並み。
老眼鏡を掛けて新聞を読む祖父。果物をすすめる母。
……犬と笑い合う弟、
その笑顔だけが、今も
もう二度と見ることはできない。
だからこそ、どんな手を使ってでも取り戻したい。
……そんな、痛ましいほどの
「主は……契約してここに来たんだよな。
理由、聞いてもいい?」
「……復讐しなきゃいけない者たちがいるの」
「誰だ?」
ティアの口元に、ゆっくりと血のような笑みが浮かんだ。
「親族。――いや、『かつて』親族だった者たち」
「やっぱりな。そんな目をしてた」
「どんな目?」
「どんな目って?
――全部憎しみに食われて、他のもんなんてどうでもよくなってる目だよ」
ティアは黙った。
酒が入っていなければ決して口にしなかった言葉。
少し後悔しながらも。同時に――だからどうした、とも思った。
この世界はどうせ異界。
この獣は、決して彼女を裏切れない存在だった。
「……それで?」
「何が?」
「わざわざ悟ったような口ぶりで、何を望んでるわけ?」
「主、俺は――」
ダルクは唇を噛み、視線を伏せた。
言葉を選ぶように、しばし黙る。
ティアは鼻で笑い、手の中のグラスを回した。
地球では決して口にすることのなかった言葉が、酒に溶けて滑り落ちる。
「なんでそんなに『いい子』のぶりするの?
触れたくてたまらないくせに」
「……気づいてたか」
「尾に火でもついた犬みたいに、ずっとうろついてたじゃない」
「じゃあ、知ってて……どうする?」
その声が、妙に低く響いた。ティアは一瞬言葉を失う。
暗い中、彼の瞳が獣の光で揺れた。
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