第2幕: 初めての獣との誓い(1)

 ――新しく『ダンジョンの主』になった女、だと?


 ケルベロス――ダルクは、目の前の人間を面白そうに見下ろした。

 細い肩、華奢な腕。

 肌の奥から漏れる魔力も薄く、風に散りそうなほど弱い。


 だが、その奥底で微かに灯る“火”だけは見えた。彼は片眉を上げる。

 まるで弱々しい焔が、消えまいと必死に揺れているようだった。


 こんなものが『主』とは、笑わせる。


 ……だが、退屈はしない。

 彼の唇の端がわずかに吊り上がった。


 この女からはいくつもの匂いが混ざっていた。

 ――焦げつくような復讐の匂いと、燃え尽きた灰のような虚しさ。

 それに混じる、寂しさと……奇妙な優しさ。


 矛盾した香りだ。混ざり合うはずのない色……

 壊れそうなくせに、火種を隠してやがる。


 ダルクは混沌界こんとんかいに縛られているのが嫌で、そこから逃げ出した。

 あの世界は、終わりのない闇と腐臭、飢えと叫びだけが支配する牢獄。

 どれほど力を誇ったところで意味はない。


 ――だから現界げんかいに跳び出した。

 すべてを焼き尽くしてでも、自由を掴むために。


 もちろん分かっている。

 混沌界こんとんかいの生き物が現界げんかいで魔力を使うには、『主』の存在が必要だ。

 だが――誰の鎖にも繋がりたくはない。

 主など要らない。命令に従うくらいなら、再び地獄に沈む方がましだろう。


 そんな彼の前で、女が小さく息を吸った。

 焦げた鉄と血が混ざるような、甘く寂しい匂いが鼻を掠めた。

 胸の奥がじり、と熱を持った。

 餓えた獣の本能が、静かに牙を鳴らす。

 だが、ダルクは笑みを深くした。


「……新しい主、か。弱そうだが――悪くねぇ顔してる」


 女の肩がわずかに震えた。それでも逃げない。

 その細い指が、胸の前でぎゅっと握られている。

 恐怖を押し殺し、立ち向かおうとする仕草。それが妙に気に入った。


「言っただろ。進化三級体の俺が、ようやくダンジョンを手に入れたばかりの、ひよっこと契約する理由なんてねぇ。

 魔力も、笑えるほど弱ぇし」


 言い放ちながら一歩踏み出し、噛みしめていた彼女の頬へ指を伸ばす。

 爪の先で肌をかすめるように触れ、低く囁く。


「そんなに俺と契約がしたいのか?」


 ティアは唇を噛み、静かに言葉を返した。


「……それでも、契約したいの」


 その声には、微かな震えと確信が共にあった。

 逃げたいのに、立ち止まる矛盾。

 ――その感情が、彼の胸をくすぐる。


「へぇ、素直で思ったより肝が据わってるな……」


 ダルクは笑い、少し顔を近づけた。


「さて、どうしようか? 

 お前を『味わわせて』くれるなら、契約してやってもいいかもな」


 その声に、彼女の肩がびくりと震えた。


「魔力は少ねぇが……いい匂いだ。腹が減る。狂いそうなほど、な」


 空気が熱を帯びる。

 彼女の呼吸の震えが胸に触れる距離で、ダルクは笑った。


「何をそんなに迷ってる?

 興味ねぇって言って帰ろうとした俺を、必死に引き止めたのはお前だろ」


 女の瞳が揺れた。

 彼はその反応を楽しむように、さらに一歩踏み込む。


「……まさか、知らねぇのか? 

 ガーディアンと主が、契約を結ぶとき『何』をするのか」


 炎のような橙色の瞳が、獲物を舐めるように細められた。

 女のまつげが震え、視線が床に落ちる。


 獣はしばらくティアを見下ろした。

 その瞬間、風が吹き抜け、彼女の髪が舞い上がる。

 紫紺しこんの髪が炎のように揺れ、淡い光を受けて煌めいた。


 ……生きることを諦めたような、しかし何かに執着して離さない眼。

 ダルクは息を呑んだ。


 ――矛盾だらけの女だ。

 弱いくせに、折れない。脆いくせに、眩しい。


 すべてが危うく、だからこそ――目を離せない。

 荒野こうやの空気がぴんと張り詰めた。


 その一瞬の静寂を裂くように、地の底から低い轟音が響く。

 ティアは慌てて顔をそむけた。

 砂塵さじんを裂き、巨大な影が姿を現す。ダルクは体を緊張させた。


「……来やがったな」


 灰色のローブを纏う中年の男。

 魔導連邦まどうれんぽうあお七芒星しちぼうせいに、一対の翼紋章よくもんしょうを刻んだ杖。

 口元には嘲るような笑み。


 三体のストーンゴーレムと、一体のアイアンゴーレムが彼を囲んでいる。

 どれも人間の数倍はある巨体で、歩くたびに地面が沈む。

 鈍い震動が足元を揺らした。


「見つけたぞ……今度こそ逃がさんぞ、ケルベロス!」


 ダルクの鋭い牙が、薄く光を反射した。


「またお前らか。……前に懲りなかったか?」

「ふん! 主もなく弱まった魔物が、よく吠える!」

「うるせぇ。お前らごときに膝はつかねぇ」


 低く唸りながら、肩を回す。

 骨が軋み、空気が震えた。

 ダルクはティアを一瞥し、低く呟いた。


「お前は下がってろ」


 だが、魔導師まどうしの目が彼女に向く。

 ――二つの黒い角。

 男の目がぎらりと光り、いやらしく細められる。


「……ほう、珍しいな! 混沌界こんとんかいの未知の種族か?

 ケルベロスと一緒に捕らえれば、面白い実験ができそうだ」


 命を弄ぶようなその声音に、ダルクの奥歯がきしんだ。


「くだらねぇ」


 足元にマナの火花が散る。

 熱風が吹き抜け、砂が舞った。


「チッ……!」


 次の瞬間、彼は砂塵さじんを蹴って前に出た。

 燃えるような赤光が、脚の筋肉を駆け抜ける。

 だが――本体に戻れば、この女が巻き込まれる。

 その思考がほんの一瞬、ダルクの動きを鈍らせた。


「捕らえろ!」


 魔導師まどうしの杖が閃き、魔法陣まほうじんが地面に走った。

 石の巨人が咆哮し、拳を振り上げる。

 空が裂けるような音。岩と鉄が衝突する度に、火花が散る。


 鎖状の光が、ティアの身体めがけて伸びた。

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