第13話:完璧な凡人、危機を救う

健太が「力の制御と隠蔽」の修行を始めてから、さらに二ヶ月の月日が流れた。


この間、彼の生活は、静かな緊張の中にあった。李強一味の監視の目は相変わらず鋭く、時折、彼らの仲間の一人が、健太の小屋の周りをうろつくこともあった。しかし、健太は彼らが望む「卑屈なよそ者」の演技を完璧に貫き通し、薬草の献上も滞りなく続けたため、彼らの疑念は徐々に薄れつつあった。


健太の「微細な運息」と「隠匿の姿勢」の技術は、もはや彼の第二の皮膚となっていた。彼は、いつでも練体第二重の力を解放できる状態にありながら、そのエネルギーを体表から数ミリ下の皮膚直下で完全に封じ込めることができるようになった。彼の外見は、ただの痩せぎすで、日焼けした凡人であり、誰もその内に秘められた力が、村の全員を瞬時に制圧できるほど強大であるとは想像できなかった。



ある日の午後、村の近くを流れる小さな川が増水し、その流れが村の生活用水路を支える古い石垣の一部を崩し始めた。


この水路は、村の畑への水供給に不可欠な生命線だ。石垣が完全に崩壊すれば、村の農業は大打撃を受けることになる。


村人たちは大騒ぎになり、総出で石垣の修復に当たった。しかし、崩れかかった石垣を補強するために必要な大きな石材が、近くにない。運び込もうにも、増水した川岸は足場が悪く、村の男たち数人がかりでも、大きな石一つを運ぶのが精一杯だった。


「だめだ!このペースでは、夜までに石垣全体が崩壊してしまう!」


村のリーダー格の男が、焦燥した声を上げた。

その時、李強とその仲間たちが現場に到着した。李強は、この状況を利用して、村での自分の権威を再確認しようと考えた。


「皆の者、ひるむな!力のある者だけで、この辺りの石を運び込むぞ!」


李強は、自身が最も屈強な男であることを誇示するように、重い石材を一人で持ち上げようとした。しかし、川岸のぬかるんだ足場と、石材の重さが相まって、彼は顔を真っ赤にして唸るだけで、持ち上げることができない。



健太は、水路の修復作業から少し離れた場所で、静かに事の成り行きを観察していた。彼の表情は、周囲の焦燥感とは裏腹に、驚くほど穏やかで無関心を装っている。まるで、自分には全く関係のない遠い国の出来事を見ているかのようだ。


彼は、常に肩をわずかに内側に丸め、背中を猫背気味にし、視線をやや下に落とす「隠匿の姿勢」を崩さない。これは、彼の筋肉の隆起を曖昧にし、全身の気を沈み込ませ、「気のない痩せぎすの男」という印象を周囲に刷り込むための、泥臭い演技だった。


健太の体内で、練体第二重の力は渦を巻く泥水のように、体表直下の皮下一寸で微細に、そして猛烈に循環している。しかし、その力は彼の意識によって極限まで「希釈」され、「無害な振動」へと変えられている。もし彼が指先一本にその力を集中させれば、鉄の塊ですら紙のように引き裂けるだろう。だが、今、彼が操作しているのは、その力の99%を封じ込める技術だ。


李強が重い石材に呻吟する声が、健太の耳に届く。


「くそっ……!誰だ!誰でもいい、力を貸せ!」


その李強の怒鳴り声に、村人たちは一瞬ひるみ、誰も進み出ない。皆、李強の威圧的な態度を恐れつつも、李強にも持ち上げられない石をどうにかできるとは思えなかったからだ。


健太の心臓が、微かに、しかし一定のリズムで打つ。彼は無能な傍観者としての役割を果たすために、ゆっくりと、しかし確実に行動を開始する。


健太は、自分の立ち位置から李強のいる場所まで、周囲に悟られないよう、最小限の力の運用でぬかるんだ足場を確保しながら歩みを進める。彼の歩調は重く、鈍く、見るからに「重労働が苦手そうな男」のそれだ。


「あ、あの……李強さん……」


彼は、蚊の鳴くような、自信のない声で李強に声をかけた。彼の顔には、びくびくとした、それでいて逃げ場のない諦めが貼り付いている。李強の仲間の一人が、不快そうに健太を一瞥した。


李強は、額に汗を浮かべ、持ち上がらない石から手を放して振り向いた。彼の目に映ったのは、みすぼらしい、腰の引けたよそ者の姿だ。


「なんだ、お前か。貴様のような役立たずの痩せっぽちに、何ができるというのだ?邪魔だ、引っ込んでいろ!」


侮蔑の言葉が投げつけられる。健太は、その言葉にわずかに顔を青ざめさせ、さらに卑屈に頭を下げる。


「い、いえ、でも、皆さんが、大変そうなので……わ、私のような者でも、少しばかりの力になれるなら……あの、ええと……二人でなら、もしかして、運べるかもしれません……」


健太は、まるで李強に許しを請うかのように、石材の一端を指差した。この行動は、李強の自尊心をくすぐり、健太の無力さを証明する絶好の機会を与えた。李強は鼻で笑った。


「ふん。まあいい。貴様の微々たる力でも、ないよりはマシか。いいか、邪魔をするなよ、よそ者」


健太は、言われるがままに石材のもう一方の端に膝をついた。彼は李強と同じ側の手袋をはめた手を石の底に滑り込ませる。


ここが肝心だ。


健太は、李強が石を持ち上げようと力を入れ始めた瞬間を見計らい、自分の力を李強の持ち上げる力の限界値に「合わせる」。彼は緻密な運息を用いて、石の総重量のわずか三分の一だけを持ち上げるように、体内のエネルギーを極限まで細かく調節する。この調節は、まるで繊細な天秤の針を扱うように、精度を要する。


「う、うおおおお!」


李強が叫び、顔を真っ赤にして持ち上げる。健太もまた、李強の呻きに呼応するように、わざと喉を絞って苦しげな「うっ……」という短い声を上げ、顔をしかめた。彼の体は、本物の苦痛を伴っていないにも関わらず、力の出しすぎで震えているかのように、わずかにガクガクと揺れている。


そして、二人分の力が合わさった結果、石材はゆっくりと、重々しく、しかし確実に、ぬかるみから引き上げられた。それは、二人にとって限界ギリギリの重さであるように見える。


李強は、持ち上げた石の重さに驚愕しつつも、自分の力が主たる要因であると確信した。


「よし!見たか!貴様のような役立たずの助力で、この石が動く!よそ者、貴様は俺の踏み台になれ!さあ、運ぶぞ!」


健太は、肩で荒い息をしながら、李強に引っ張られるようにして、重い石材を運び始めた。彼の顔には、安堵と疲労、そして李強への怯えが混じった、凡庸極まりない表情が浮かんでいる。彼は泥に足を取られ、体全体を使い、見るからに苦労して石を運んでいる。


この瞬間、村人たちの目には、健太はただの「李強の力によって、ようやく役立てた臆病なよそ者」として映った。彼らの疑念は、この泥臭い重労働の光景によって、完全に洗い流されつつあった。


健太の体内の真の力は、今日もまた、凡人という名の、最も強固な檻の中で、静かに潜伏し続けている。

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