早朝の冷戦、そしてコートへ
1
翌朝、午前四時五十分。
世界はまだ、深い藍色の闇と静寂に支配されていた。
遠くで新聞配達のバイクの音が、微かな羽音のように響いている。
僕は泥棒のように足音を忍ばせ、自宅の階段を降りた。
家族はまだ寝ている。特に、昨日あんなに心配していた母さんに気づかれるわけにはいかない。
手には、昨日買ったばかりの『ゼビオ』の紙袋。中には真新しいバレーシューズが入っている。
まるで悪いことをしているような気分だ。いや、実際、彼女たちにとっては僕が「バレーへの復帰」を画策することは、自殺行為にも等しい重罪なのだろう。
(……よし、静かだ)
音を立てずに玄関のドアを開け、外の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。
秋の気配を含んだ風が、寝起きの肌を刺す。
僕はホッと息を吐き、門を開けて道路へ出ようとした。
――その時。
「おはよ、悠真。早かねぇ」
暗闇の中から、鈴の鳴るような、それでいて底冷えする声がした。
心臓が口から飛び出るかと思った。
門のすぐ横、街灯の薄明かりの中に、人影が立っている。
制服の上にパーカーを羽織り、巨大なスポーツジャグ(水筒)を肩から提げた少女。
霧島楓だ。
彼女はまるで、最初からそこの風景の一部だったかのように、自然に、静かに佇んでいた。
「う、わあああっ!? か、楓!?」
「しっ! 声デカいよ。お母さん起きちゃうでしょ」
楓は人差し指を口元に当てて、悪戯っぽく笑った。
その笑顔は可愛い。悔しいけれど、とびきり可愛い。だが、状況がホラーすぎる。
「な、なんで……ここに……」
「なんでって。悠真がコソコソ早起きして、朝練に行くつもりなのはお見通しだよ」
楓は当然でしょ、と言わんばかりに胸を張る。
「悠真のアラームが鳴る前に起きようと思ったら、三時から目ぇ覚めちゃってさ。……ずっと待ってた」
三時から。
今は四時五十分だ。彼女は二時間近く、この暗闇の中で僕が出てくるのを待っていたのか。
彼女の愛は、睡眠欲すら凌駕するらしい。
「……止めに来たの?」
僕がシューズの袋を抱きしめて尋ねると、楓は首を横に振った。
「ううん。止めても行くんでしょ? 昨日の悠真の目、マジだったもん」
「じゃあ……」
「だから、ウチも行く」
楓は肩にかけた巨大な水筒をポンと叩いた。中身がチャプンと重たい音を立てる。
「特製のはちみつレモン作ってきたよ。あと、タオルも着替えも持った。テーピングもコールドスプレーも予備がある」
彼女は一歩、僕に近づく。
「悠真がどうしてもやるって言うなら、私が一番近くで見ててあげる。怪我しないか、無理してないか、あの一年生にいじめられないか……監視しなきゃだからね」
監視。その言葉の響きが重い。
彼女は「応援」に来たのではない。「管理」に来たのだ。僕が傷つかないように、先回りして全ての石ころをどけるために。
「……楓、部外者は体育館に入れないんじゃ」
「大丈夫! 『マネージャー補佐』ってことにすればいいし! 佐多先生にもあとで言っとく! ほら、フェリーの時間ヤバいよ! 行くが!」
楓は僕の腕を強引に引っ張り、自転車置き場へと歩き出した。
抵抗しても無駄だ。彼女の握力は、決意の固さに比例して強くなっている。
僕は深いため息をつき、彼女に従う。
朝の冷気よりも、隣にいる幼馴染の体温の方が、肌に張り付いて離れなかった。
2
午前五時三十分。
僕たちは始発のフェリーに乗り、まだ薄暗い桜島南高校へと到着した。
校舎は眠っているように静まり返っている。
僕たちは校門を抜け、校舎の裏手へと回る。そこには、古びた『第2体育館』が黒い怪物のように鎮座している。女子バレー部が使う冷暖房完備の第1体育館とは雲泥の差だ。
入り口の鉄扉の前に、小さな影があった。
「……遅い」
種子島凛だ。
彼女はジャージ姿で腕を組み、スマホの画面をタップしながら睨みつけてきた。
画面の明かりに照らされた顔は、不機嫌そのものだ。
「五時三十分集合と言いましたよね。現在、三十二分。二分の遅刻です」
「ご、ごめん。フェリーの乗り継ぎが……」
「言い訳は結構。ペナルティとして、アップのランニングを二周追加します。心拍数を上げる手間が省けましたね」
凛は冷徹に告げ、ふと僕の隣にいる「ピンク色の異物」に気づいて眉をひそめた。
「……で? なぜ部外者がここにいるんですか?」
「おっはよーございまーす、一年生!」
楓は凛の敵意をスルーして、わざとらしく元気な挨拶を飛ばした。
「悠真の保護者の霧島楓です! 今日から悠真のケアは私がやるから、あんたはタイム計測だけしてていいよ!」
「はあ? 意味が分かりません。ここは神聖なトレーニングの場です。部員以外は退去を――」
「私がマネージャー補佐やるって言ってるの! ほら悠真、はちみつレモン飲む? まだ温かいよ!」
「いらないって……まだ運動もしてないのに」
バチバチと火花を散らす二人。
凛はこめかみを押さえ、「はぁ……」と深い深いため息をついた。
「……まあいいでしょう。先輩がどういう環境で『飼育』されてきたか、データとして観察させてもらいます」
「誰が飼育よ!」
凛は無視して、ガチャンと重い音を立てて体育館の鍵を開けた。
鉄扉が軋みを上げて開き、カビとワックスの混じった、独特の匂いが漂ってくる。
懐かしくて、胸が締め付けられる匂いだ。
「さあ、入ってください。――ここが今日から、貴方の『職場』です」
凛に背中を押され、僕は薄暗い体育館へ足を踏み入れる。
スイッチを入れると、水銀灯がブーンという低い音と共に、時間をかけて点灯し始めた。
照らし出されたのは、ネットが張られただけの、何もないコート。
そして、床には凛が準備していたであろう、無数のパイロンと、ビデオカメラが三脚で設置されていた。
「……準備良すぎだろ」
「当然です。さあ先輩、着替えてください。まずは『現状の絶望』を知ってもらいますから」
凛がボールカゴからボールを一つ取り出し、床に落とす。
ダム、ダム……と、ボールが弾む音が、静寂の体育館に響き渡った。
その音を聞いた瞬間、僕の心臓がドクンと跳ねた。
(……やるしかない)
僕は楓の手をそっと外し、更衣室へと向かう。
昨日買ったばかりの、白いシューズを抱えて。
3
着替えを終え、シューズの紐を締める。
キュッ、と床をグリップする感覚。
コートの中央に立つと、対面には凛がボールを持って立っていた。
コートサイドのベンチには、楓が不安そうな顔で座り、水筒を抱きしめている。
「まずは基礎能力の確認です。私が打つボールを、セッター位置のカゴに入れてください」
「……分かった」
「手加減はしませんよ。データ通りなら、取れるはずですから」
凛がボールを放り投げる。
細い腕が鞭のようにしなり、スパイクが放たれた。
速い。女子マネージャーの打球とは思えない鋭さだ。
――来る。
右だ。クロス方向。
目は反応している。脳も理解している。
僕は右足を踏み出し、腕を組む。
しかし。
「……ッ!?」
足が、重い。
イメージした場所へ、身体がついてこない。
あと半歩。その半歩が届かない。
バチンッ!
ボールは僕の腕の先、数センチのところをすり抜け、床に叩きつけられた。
「……あれ?」
僕は自分の手を見る。震えている。
一昨日は凛を助けるために、無意識で完璧に動けたはずだ。なのに、意識して動こうとすると、身体が鉛のように重い。
「……鈍ってますね」
凛が冷淡に告げる。
「一昨日の『火事場の馬鹿力』は、あくまで緊急回避。普段の身体機能は、一年間のブランクと怠惰な生活で、錆びついてボロボロです」
彼女は次のボールを構える。
「頭では分かっているのに、身体が動かない。……一番イライラする状態ですね。でも、それが今の現実(スペック)です」
「くそっ……もう一球!」
僕は構え直す。
凛のスパイクが飛んでくる。
今度は触れた。でも、弾いてしまった。ボールは明後日の方向へ飛んでいく。
「悠真! 無理しないで! 転んだらどうするの!」
楓が悲鳴のように叫ぶ。
「黙っててください! 先輩、集中!」
凛が怒鳴る。
息が切れる。汗が噴き出る。
取れない。上がらない。
かつて「天才」と呼ばれた感覚と、現在の「ポンコツ」な肉体のギャップに、吐き気がするほどの自己嫌悪が襲う。
(……動けよ、俺の足!)
その時。
ガララッ、と体育館の扉が開いた。
「おー、やってるやってる。朝から元気やなぁ」
入ってきたのは、ジャージ姿の一ノ瀬隼人と、眠そうな目のセッター・三雲翔、そして巨体の3年生・剛田猛だった。
男子バレー部の現役メンバーたちだ。
「一ノ瀬……」
「凛ちゃんから連絡もらってな。『新しいオモチャが入ったから見に来てください』って」
隼人はニカっと笑い、僕のボロボロの姿を見て、嬉しそうに目を細めた。
「……お帰り、日向。待ってたぜ」
その言葉に、僕は膝に手をつきながら、苦笑いするしかなかった。
まだ「ただいま」と言えるようなプレーはできていない。
でも、この汗と、床の匂いと、筋肉の軋みだけは、確かに僕が「ここ」に帰ってきたことを告げていた。
4
「さて、観客も増えたことですし。実戦形式といきましょう」
凛が手を叩き、その場の空気を引き締める。
彼女は当然のように、上級生である隼人たちにも指示を飛ばし始めた。
「一ノ瀬先輩はスパイク。三雲先輩はトスの配分を変えながら上げてください。剛田先輩はブロックに入ってコースを限定してください。……ターゲットは、日向先輩一人です」
「うへぇ、俺たちも使う気満々かよ。人使いの荒いマネージャー様だ」
セッターの三雲が、眠そうに頭をかきながら定位置につく。彼は進学クラスの秀才で、常に冷めた目をしているが、トスの技術は確かだ。
「まあいいじゃねえか。俺はずっと待ってたんだからな。……悠真のレシーブを」
キャプテンの一ノ瀬が、ボールを片手で掴み、ニッと笑った。
その笑顔は眩しいが、目の奥には獲物を狙う獣のような光が宿っている。
「悠真。中学の時、お前が俺のスパイクを一度も拾わずに終わったの、覚えてるか?」
「……ああ。練習試合だったな」
「あの時はお前、俺のスパイクが『コースアウトする』って見切って、指一本触れずに見逃した。……あれ、地味に傷ついたんだぜ? 『拾う価値もねえ』って言われたみたいでよ」
隼人はボールを床に叩きつけ、強くグリップを確かめた。
「今日は逃がさねえぞ。今の俺のスパイク、真正面から拾ってみろよ」
挑発だ。
でも、それは心地よい挑発だった。
陰湿な黒岩監督の罵倒とは違う。純粋に「勝負したい」という熱量。
「……お手柔らかに頼むよ。身体、錆びついてるんだ」
「ハッ、嘘つけ!」
隼人がコートの奥へ下がる。三雲がネット際へ移動する。
僕はリベロの位置――コートの後衛中央に腰を落として構える。
「悠真! 危ないよ、一ノ瀬くんのスパイク重いんだから!」
ベンチから楓が立ち上がり、タオルを握りしめて叫ぶ。
「静かに。……データ収集のノイズになります」
凛が冷たく制し、ビデオカメラの録画ボタンを押した。
「始め!」
5
凛の合図と同時に、ボールが上がる。
三雲のトスアップ。性格は悪いが、丁寧で打ちやすそうなトスだ。
隼人が助走に入る。タン、タタンッ! という力強い踏切音。
身体が宙に舞う。
高い。2年生になって、打点はさらに上がっている。
(……ブロック一枚。コースはクロスか、ストレートか)
剛田先輩のブロックがついているが、隙間がある。
隼人の視線、肩の開き、筋肉の収縮。
膨大な情報が、スローモーションのように僕の脳内に流れ込んでくる。
――クロスだ。鋭角に叩き込んでくる。
僕は右足に体重を乗せ、半歩動こうとした。
だが。
(……重いッ!)
足が鉛のように動かない。
さっきの基礎練習で露呈したスタミナ不足と筋力低下。
頭では「そこ」だと分かっているのに、肉体が拒絶する。
ドォンッ!!
隼人のスパイクが床に突き刺さる。
僕が手を出すよりも早く、ボールは弾丸のように横をすり抜けていった。
「……くそっ」
「おーおー、反応できねえか? 元・県選抜!」
隼人が着地し、悔しそうに、でも楽しそうに煽る。
悔しい。
あそこに落ちると分かっていたのに。あと一歩が届かないなんて。
「次、一本!」
僕は無意識に叫んでいた。
二本目。弾く。
三本目。追いつけない。
四本目。足がもつれる。
汗が目に入る。肺が焼けるように熱い。
楓が「もうやめて!」と叫んでいるのが聞こえる。
でも、止まれない。
凛は無言でカメラを回し続けている。その目は「まだできるでしょ?」と冷酷に告げていた。
(……拾いたい)
恐怖とか、トラウマとか、そんなものはどうでもよかった。
ただ、目の前に落ちるボールを地面に落としたくない。
スパイカーが全力を込めた「想い」を、無駄にしたくない。
ラスト、五本目。
隼人が今日一番の高さで跳んだ。
強烈なクロススパイク。
足はもう限界だ。動かない。
なら――。
(……選ぶな。考えずに、ただ委ねろ)
僕は思考を捨てた。
理屈で動こうとする脳の命令回路を切り、身体に染み付いた「本能(プログラム)」だけに主導権を渡す。
刹那。
世界から音が消えた。
僕は気がつけば、床すれすれに飛び込んでいた。
フライングレシーブ。
腕を伸ばすのではない。ボールの軌道に、腕という「面」を置きに行く。
ドパァンッ!!
重い衝撃が両腕を襲う。
でも、痛みはない。芯で捉えた感触。
ボールの勢いを完全に殺し、回転をかけ直し、ふわりと真上に上げる。
ボールは美しい弧を描き、セッター三雲の頭上へ吸い込まれるように落ちていった。
完璧なAパス。
「……うわ、マジか」
三雲が思わず声を漏らし、条件反射でトスの構えを取る。
打つアタッカーがいないのに、トスを上げざるを得ないほどの、極上のボール。
ボールが床に落ち、弾む音が静寂に戻った体育館に響いた。
「…………」
僕は床に這いつくばったまま、荒い息を吐いていた。
心臓が破裂しそうだ。
でも、視線の先、天井の照明が滲んで見えるのは、汗のせいだけじゃなかった。
「……っしゃあッ!!」
隼人がネットを揺らして叫んだ。
彼はコートをくぐり抜け、倒れている僕の元へ駆け寄ると、背中をバンバンと叩いた。
「見たかおい! 今の上げやがった! 完璧じゃねえか!」
「いって……痛いって、一ノ瀬……」
「お前、やっぱりスゲーよ! 身体ボロボロでも目は死んでねえ!」
三雲もネット越しに、呆れたように笑っている。
剛田先輩が「いやあ、今のコース塞いでたと思ったんだけどなあ」と頭をかいている。
そして。
「……悠真」
楓が駆け寄ってきた。
彼女は僕の汗だくの顔をタオルで乱暴に拭きながら、泣きそうな顔で睨んでいた。
「バカ。ボロボロじゃん。……膝、擦り剥いてる」
「ごめん」
「……かっこよかったけど。でも、バカ!」
彼女は僕を抱き起こすと、水筒の蓋を開け、口元に突きつけた。
特製のはちみつレモン。
甘酸っぱい液体が、乾いた喉に染み渡る。
「……悪くありませんね」
最後に、凛が近づいてきた。
彼女はタブレットの画面を僕に見せる。そこには、今のレシーブの瞬間のデータが表示されていた。
「フォームの崩れ、許容範囲内。ボールインパクト時の脱力、Sランク。……やはり先輩は、私の計算(プラン)に必要なパーツです」
「……褒めてるのか、それ」
「最高の賛辞ですよ。道具として優秀だと言っているんですから」
凛はニヤリと笑い、僕の手を引いて立たせた。
「ですが、スタミナはEランク以下です。二分で息が上がるとか、老人ですか? 明日から基礎体力を徹底的に叩き直しますから、覚悟しておいてください」
「……お手柔らかに頼むよ、マネージャー」
朝練終了のチャイムが鳴る。
窓の外はすっかり明るくなっていた。
身体は悲鳴を上げている。
楓はまだ怒っている。
凛のメニューは地獄の予感しかしない。
でも、僕の胸の中にあった重たい鉛のような塊は、ほんの少しだけ軽くなっていた。
こうして、僕の「拒否権なし」のバレーボール生活は、幕を開けたのだった。
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