30.砂哭を解く者

 早朝にアシュマール族の集落を発った紫闇が王都・ザハラに着いたのは、日没前のことだった。市場はもう店じまいを終えていて、人通りは少ない。


 複雑に入り組んだ路地を迷いなく歩く。王宮も門が閉まる頃だろうが、構わなかった。


 夕日が沈むにつれ、王都の影は長く伸びた。路地の奥に溜まる闇が、胸の底にじわじわと焦りを染み込ませてくる。


 急がねば間に合わない。その思いだけが、紫闇の足を無理やり前へと押し出していた。王宮の灯りが見えた瞬間、紫闇は胸の奥の緊張が弾けるように息をついた。間に合ってちょうだい、と強く念じながら。


 最短距離で王宮の門に到着した紫闇はよく通る声で告げた。


「急ぎなんだよ、どけておくれ。私は呪術師・サリナ──ナディル王太子殿下に火急のお目通りを!」


 すると、門を守っていた衛兵がすぐさま反応した。


「サリナ改めシアン殿とハクガ殿がおいでになれば、無条件で通すように、との王太子殿下からのお達しです。どうぞお通りください」

「ありがとね!」


 今は守るべき礼儀作法も忘れて、紫闇は王宮に足を踏み入れると足早に王太子宮を目指す。


 王宮の回廊に足を踏み入れた途端、紫闇は胸の奥の鼓動がさらに早まるのを感じた。夕刻の王宮は本来、静けさに包まれる時間だ。だが今日は、どこか湿った鉄の匂いすら漂っていた。


 すれ違う下働きの者たちが不安げに目を伏せ、宮廷の空気そのものが、王太子の不調をひそかに訴えているかのようだった。


 紫闇は歩く速度を自然と早める。幸運にも、途中でラフィークに出くわした。


「シアン殿!」

「ラフィーク殿、ナディル王太子殿下のご容体は? ──解毒剤が手に入ったんだよ!」


 小声で叫ぶ紫闇に、ラフィークは身振りで落ち着くよう示すと、慌てて呼吸を整える紫闇に静かに告げた。


「説明するより、実際に見ていただいたほうが早いかと思います」


 寝室には、薬草と汗の混じった苦い匂いが漂っている。案内された紫闇が見たのは、苦悶に満ちた表情で寝台に横たわるナディルの姿だった。


 彼を見た瞬間、紫闇は思わず足を止めた。ここまで悪化しているとは考えていなかった。胸の奥が冷たく縮みあがり、指先から血の気が引いていく。あれだけ強靭な精神力を持つ男が、まるで脆い陶器のように壊れかけている。死の影が喉元まで迫っている──そう直感した。


 唇は乾いてひび割れ、浅い呼吸が胸もとでかすかに震えていた。顔色も青黒い──紫闇は、その呼吸がいつ途切れてもおかしくないと悟った。もはや一刻の猶予もない。


「ラフィーク殿、解毒剤をナディル殿下に!」


 紫闇は荷物から解毒剤の小瓶を取り出し、ラフィークに手渡した。


「しかし……」


 ラフィークは一瞬ためらった。得体の知れぬ液体。相手は王太子──もし間違っていれば、自分は死罪だ。だが、ためらえば殿下が死ぬ。


 紫闇の声は震え、喉が乾いたように掠れている。小声でラフィークに噛みついた。


「なにをグズグズしているんだい? アンタの気持ちもわかるけど──殿下の命は待ってくれないんだよ! 手遅れにならないうちに、さぁ早く!」


 だが、ラフィークはまだ迷っている。紫闇はラフィークの逡巡を見て、すべてを一瞬で悟った。立場も責任も重い男だ。だが、この場に必要なのは慎重さではなく、決断だった。過去に何度も命の境界に立ち会った紫闇には、それが痛いほどわかる。だからこそ迷わなかった。もし失敗すれば、自分が罰を受ければいい。それで殿下が助かるのなら、安いものだ。


 もどかしくなった紫闇は、驚くべき行動に出た。


「あぁもう、焦れったいねぇ! そいつを寄越しな、アタシが飲ませる! なにあったらアタシの責任だ。それでいいだろ?」


 そう言うが早いか、ラフィークの手からひったくるように解毒剤の小瓶を奪い取ると、紫闇は大股でナディルの傍に近寄った。止める間もない出来事だった。

 その顔は、冗談ひとつ挟む余地のない本気の色をしていた。


「シアン殿!」


 紫闇はなおも制止するラフィークを無視して、ナディルの上体を起こそうとした。誤嚥を防ぐためだ。


「細身に見えるのに意外と重いわねぇ……やっぱり鍛えてんのかしら……」


 冗談めかした声とは裏腹に、紫闇の指先は震えていた。


 女の細腕でどうにかナディルに薬を飲ませようと奮闘するその姿に、ラフィークは胸を突かれた。


「私が殿下の御身をお支えします。シアン殿は薬を」


 サッと手を伸ばして軽々とナディルの上半身を起こしたラフィークに、紫闇は鼻で笑った。


「おや、ようやく正気に戻ったのかい? じゃあそっちは任せるよ」


 紫闇は解毒剤の蓋を注意深く開けると、様子を見ながら慎重にナディルの口に含ませた。ひと口、またひと口と、飲み込んだのを確認してから、むせないように少量ずつ薬を与え続ける。


 ようやく小瓶が空になった頃、薬が効き始めたのか、ナディルの表情が少し穏やかなものに変わっていた。顔色も元に戻っているようだった。


「あとは様子を見守るだけだね。助かったよ」


 ナディルの身体を再び寝台に横たえたラフィークは、静かに頭を振った。


「お礼を申し上げるのはこちらのほうです。情けないところをお見せして、申し訳ありませんでした。そして──我らが王太子殿下をお救いいただいたこと、心から感謝いたします」


 そう言って紫闇に深々と頭をさげたラフィークに、紫闇はわずかに苦笑した。


「そんな顔しなさんな。せっかくの男前が台無しさね」


 それに、と紫闇は続ける。


「礼を言うのはまだ早いよ。まずはナディル殿下の意識が戻らなくちゃねぇ」

「そうですね。信じて待ちましょう」


 その日、紫闇とラフィークは王太子の寝室で、眠ることなく夜を明かした。


 夜は長かった。窓の外では砂漠の風が遠吠えのように唸り、寝室の灯は揺れ続けた。紫闇は何度もナディルの呼吸を確かめ、ラフィークはそのたびに胸を撫でおろした。沈黙は重く、少しでも異変が起きれば世界が崩れるかのようだった。いつ夜明けが来るのか、二人にはまるで見当がつかなかった。


 二人とも疲労でまぶたが重くなっていたが、誰も眠ろうとはしなかった。紫闇は時折、乾いた喉を鳴らしながらナディルの額に手を当て、体温のかすかな変化に意識を集中させた。ラフィークもまた同じ姿勢のまま、祈るように両手を組み、ただ安定した呼吸だけを願い続けていた。夜は終わりが見えないほど長く、静寂が痛いほどに胸へ沁みた。


 ナディルの意識が戻ったのは夜明け頃だった。長いまつげがわずかに揺れた。ラフィークと紫闇が、同時に息を呑む。


「う……」


 軽く呻いて、ナディルはゆっくりと目を開けた。瞼の裏にはまだ鉛が詰まっているようで、視界はぼやけていた。だが、胸の奥の重さがどこか薄らいでいる。なんだか久しぶりに呼吸が楽な気がした。


「おや、お目覚めかい? ナディル殿下」


 茶目っ気たっぷりに顔を覗き込んできた女性の顔に、ナディルは見覚えがあった。窓から差し込む朝日に照らし出された、派手な化粧の剥げた素顔は、どこかあどけなさの残る面差しで──胸の奥が不意にざわついた。


「……シアン殿か」


 そう呟いて、ナディルは思わず口に手を当てた。声が──出る。


「これはいったい……?」

「シアン殿が解毒剤を届けてくださったのですよ、殿下」


 状況が把握できずに戸惑うナディルに、ラフィークが声をかけた。その声すらも涙で潤んでいる。


「ラフィークか……状況を説明せよ」


 促されて、ラフィークは包み隠さずすべてを語った。ナディルが危篤であったこと、紫闇の献身、それらを黙って聞いていたナディルは、やがて緊張を緩めるように息を吐いた。


「そうだったのか……」

「まぁ、一気に全快ってわけにはいかないけどね。徐々に調子は戻ってくるはずさ。安心おし」


 そう言って、自らも安堵したように笑う紫闇に、ナディルは穏やかな微笑みを向けた。


「お前たちのお陰だな。礼を言う」


 その繊細でありながら秀麗な顔に微笑まれて、紫闇は胸の奥がふいに跳ねた。どぎまぎした自分に気づいて、思わず視線を逸らす。


(なにをしてるんだい、アタシ……)


 紫闇は、何故だか頬が火照るのを感じた。


「あー……うん、お礼は白雅に言ってちょうだいな。解毒剤を手に入れたのも、その効能を確認したのも、みんな、あの子のお陰なんだから」

「……そのハクガ殿の姿が見えないようだが」


 紫闇は、そこで初めて思い出したように肩を震わせた。


「そうなんだよ! 白雅もやられてしまったんだ。新型の砂毒『砂哭』にね」

「なんと……!」


 紫闇は順を追って、出来事を説明した。アシュマール族を訪ねた夜に襲撃されたこと。

 白雅がアシュマール族に気に入られて『アズラの民』の情報を得たこと。

 一人で『アズラの民』に会いに行った白雅。アズハルの狂気、『アズラの民』の壊滅、などなど。


「そのときに解毒剤が二本と、砂毒の標本。それから研究手帳なんかが手に入ったんだけどね……首領のアズハルが恐怖死しちまってさ。だから、解毒剤が足りないのさ」


 紫闇の説明に、ナディルは驚きをあらわにした。


「では、私が飲んだものは……そのうちの一本だったということか……」


 紫闇は頷いた。


「そうさ。白雅がね、言うんだ。ナディル殿下を絶対に死なせたらいけない、殿下はこの国の未来に必要な人だから、って……」

「──!」


 それで同じ毒に冒された我が身を顧みず、ナディルを助けようとしたというのか。ナディルは思わず呻いた。


 やはり血はつながっていなくても赤鴉によく似ている。いや、赤鴉以上に無鉄砲かもしれない。ナディルはそう思った。


「……ハクガ殿とシアン殿に、礼がしたい。急ぎ王宮内に砂哭と解毒剤の解析設備を整えさせよう。解毒薬の精製設備もだ……これで足りるか?」


 ナディルの言葉に、紫闇は我が意を得たりとばかりに笑った。


「さすがは、ナディル王太子殿下。よくわかっておいでだわ」


 そのなんのてらいもない笑顔に、ナディルは思わず目を逸らしてしまう。


「……必要なものがあれば、なんでも言ってくれ。ラフィークに用意させる。ラフィーク、それでいいな?」

「かしこまりました」


 ラフィークは深々と頭をさげたのだった。



 こうして王宮では、有識者による砂哭研究団が組織され、王宮の一角に急遽、対策本部と実験施設が設置された。


 砂哭研究団の長は言うまでもなく紫闇である。もともと呪術師・サリナといえば、この国では名の知られた存在である。王太子の命を救った功績もあり、反発はなかった。


 研究団が動き始めるにつれ、王宮の一角は、半刻も経たないうちに戦場前の砦と化した。医術師が走り、薬師が叫び、兵士が道具を担いで駆ける。


 紫闇が指示を出すたび、周囲の空気がさらに引き締まる。誰もが、この国の未来が今ここに懸かっていると理解していたからだ。


 他にも紫闇は蒸留装置や抽出装置など、淡々と必要なものを説明していく。ラフィークは慌ててそれらを紙に書き留めると、手配するために対策本部を飛び出していった。


 基本的なものは王宮内の医術師が持っていた。紫闇は、まずはそれらを使いながら、ラフィークに依頼した装置が届くのを待つことにした。


「まずはアズハルとやらの研究手帳を見せるから、気づいたことがあればなんでも言ってちょうだいな」


 王族付きの医術師や薬師たちに、広く意見を求め、まずは砂哭について研究する。それとほぼ同時並行して、解毒剤の成分の解析を進めた。


「情報によると、即死の毒は蠍毒、遅効性の毒は蛇毒らしいの。まずは、蛇毒の研究に集中しないとね」

「ですが、砂漠に生息する毒蛇だけでも何種類もいるでしょう。いったいどの蛇毒を使ったのやら……」

「それを突き止めるのが、アタシたちの役目だろ? 患者の症状に出血の話はなかった。となると、神経毒を持つ蛇毒の可能性が濃厚ってことになる。血液毒なら、内出血や血の混じった嘔吐が普通は見られるからね。まずはそこから攻めるよ」

「はい!」


 砂漠で神経毒を単独で持つ毒蛇といえば、眼鏡蛇か夜行性の黒蛇だ。そのうち眼鏡蛇の神経毒は猛毒である。紫闇は対象を黒蛇に絞った。


「んー……黒蛇の毒も必要だねぇ……今夜にでも捕まえて来れるかい? ラフィーク殿」


 紫闇の無茶振りに、普段穏やかなラフィークの頬が珍しく引き攣っていた。


「……王太子殿下直属の兵たちを動員しましょう」

「よろしく〜」


 そう言う紫闇の意識はもう別の方向を向いている。砂哭の毒性強化に使われているのは蛇毒だとしても、解毒剤に必要なのは蛇毒への対策だけではない。おそらく簡単には手に入らない特殊な薬草が配合されているはずだった。


「なんだったっけなー……確か、前に調べたことがあったはず。あーあ、もうちょっと真面目にやっときゃよかったなぁ、巫女修行」


 ブツブツと小声で呟く紫闇の声は、誰の耳にも届かない。やがて紫闇は焦りから爆発した。


「あーもう、餅は餅屋よ! ちょいと薬師のお兄さん。砂漠の神殿の中だけで育つ特殊な薬草があったわよね? アレの名前、なんていったっけ?」

「シハーブのことですか?」


 喉元まで出かかって、それでも出てこなかった名前が今、目の前に転がり落ちてきた。紫闇は目を輝かせた。


「そう、それ! シハーブよ。それが必要だわ」

「え? ですが……シハーブは現在、神殿から持ち出せなくなっています」


 ラフィークの言葉に、紫闇の目が点になった。


「へ……? なんで?」

「近年、急激にシハーブの数が減少しているようで……保護のために三年前から持ち出し禁止になりました」


 今度は思いっきり打ちひしがれた紫闇に、周囲は若干引き気味だ。感情の浮き沈みが激しい。


「そんな……そもそもなんでそんなに数が減ったのさ」

「どうやらシハーブだけにしか罹らない病気があるようです。そのためどんどん枯れてしまい、今は残った株を慎重に増やしている最中だとか」


 紫闇は眉をひそめた。


「シハーブだけ? それは妙だねぇ……」


 他の薬草は平気でシハーブだけが罹る病気か。それはそれで大ごとだった。


「んー……そうね。まずは神殿に行って、実際にシハーブの状態を見ないことには。病気を治すのが先決かもしれない」


 医術師の一人が目を見開いた。


「──! 治せるのですか!?」


 思わず身を乗り出す周囲の人々に、紫闇は、違う違う、と手を振った。


「治せる可能性があるかもしれないってだけよ。この国に治療法がなくても、外国にはあるかもしれない。そうなれば世界中を旅して回ったアタシの経験が生きるってもんでしょ」


 確かに、それは一理ある。なんといっても彼女は呪術師・サリナだ。一般人が見つけられないなにかを発見するかもしれなかった。


「では、シアン殿自ら神殿へ?」

「えぇ。まずは、この目で確かめないことにはね。砂哭の毒性解析、黒蛇の毒の抽出、解毒剤の成分確認──」


 紫闇は一拍おいて、周囲を見渡した。


「……そのあたりは、アンタたちに任せてもいいかい? ──頼りにしてるよ」


 紫闇はその瞳にありったけの信頼を込めた。そして最後にパチン! と片目を瞑ってみせる。


「もちろんです!」

「おまかせください!」


 医術師も薬師も、紫闇の色香にあてられたかのように頬を上気させて意気込んだ。


 ただ一人、ラフィークだけが、まだ純粋な少女だった頃のサリナを思い出して、あの頃と変わらぬ奔放さに、懐かしさと不安の入り混じった遠い目をしたのだった。

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