25.蒼き宮廷の静寂

 翌朝。白雅と紫闇はローラン国の王宮を訪れていた。王宮の前には、普段より多いはずの兵士が立っていた。空気が、どこか刺々しい。


 白雅は、兵士たちの指先がわずかに震えているのを見逃さなかった。その震えは寒さではない。恐怖に触れた者の震えだった。昨夜、この城になにかあったのだろうか──そんな気配が漂っていた。


「そこで止まれ。その方ら、王宮に何用だ」


 呼び止められた瞬間、白雅の背にわずかな緊張が走った。用件を告げる。


「ナディル王太子殿下にお目通りしたい」


 しかし、門番の態度はけんもほろろだった。


「王太子殿下は誰にもお会いにならない。帰るがよかろう」


 しかし、白雅が次になにか言うよりも早く、紫闇が前へ出た。


「では、赤鴉の使いである呪術師・サリナが来た、とだけお伝えくださいまし」


 その瞬間、空気がピタリと止まった。まるで砂漠の風が急に息を潜めたかのように。その変化に、白雅は背筋をヒヤリとさせた。


「……なに? セキア……? それに呪術師・サリナだと?」


 二人いる門番たちがなにやらヒソヒソと話し合い、それから一人は慌てて王宮の中へと走っていった。もう一人の門番が咳払いをする。


「一応お伝えはするが、お会いになるという保証はない。期待はせぬように」

「えぇ。ご厚意に感謝しますわ」


 紫闇はにっこりと微笑んだ。まともに見てしまった門番の顔が見る間に赤く染まる。


 ややあって報告に向かった門番が戻ってきた。後ろにもう一人誰かを連れている。


 年の頃は三十歳前後。柔和な顔つきの男性だった。物腰まで柔らかく、場の空気を静めるような穏やかさがある。その佇まいは、張り詰めた空気の中に差す朝の光のようだった。


「──本当にサリナ殿ですね。お久しぶりです。巫女の選定式以来ですか」


 彼が近づいた瞬間、ざわついていた空気が自然と落ち着いていく。低く落ち着いた声には、砂漠を渡る風のような温かさがあった。


「お久しぶりでございます、ラフィーク殿。現在は紫闇と名乗っておりますの。以後はそちらの名でお呼びいただけると幸いですわ」


 紫闇が丁寧に一礼する。どこか洗練されたその挙措に、白雅は思わず目を奪われた。


「……知り合いなのか?」

「ナディル王太子殿下の側近、ラフィーク殿さ。昔いろいろあってね」


 紫闇の返答はどこか曖昧だ。だが、白雅は疑問に思いつつも深くは聞かなかった。ガルハーンといい、ラフィークといい、紫闇には謎が多い。


「シアン殿ですね。承知しました。お連れの方は……」


 ラフィークの視線が白雅に向けられる。紫闇は慌てて白雅に頭をさげさせた。


「ご紹介が遅れて失礼しました。こちらは白雅と申します。私の娘のような存在ですわ」


 娘、という言葉に、ラフィークは目元を和らげたようだった。


「そうなのですね。はじめまして、ハクガ殿。ラフィークと申します」

「……白雅と申します」


 娘、と呼ばれた瞬間、白雅の胸がふっと温かくなる。それを悟られまいと、視線を床に落とした。


 ラフィークは白雅が『白い子供』だと知らないとはいえ、初対面からこうも友好的に接してもらうのは、白雅としてはあまりないことなので、逆にある種の居心地の悪さを味わっていた。


「シアン殿、ハクガ殿、ナディル殿下がお会いになるそうです。どうぞ、こちらへ」


 入口で剣を預け、ラフィークに案内されて、王宮の門をくぐる。そこから先は豪華絢爛の異世界のようだった。


 王宮の回廊を進むと、磨きあげられた白石の床は水面のように滑らかで、足を踏み出すたび、自分の影が揺れて見えた。中庭の噴水の水音が、遠いどこかから細く流れ込んでくる。


 王宮全体は数棟の建物や中庭で構成されており、各棟は中庭を中心として回廊でつながっている。白雅たちが案内されたのは王太子宮だ。


 回廊を進むにつれ、白雅は妙な違和感を覚えた。豪奢な造りに反して、人の気配が驚くほど薄い。通常なら侍女や兵士の姿がもっとあっていいはずだ。どこか、張り詰めた沈黙だけが宮中を満たしているように感じられた。


 扉を三度叩く直前、ラフィークの指先がわずかに強張った。普段は穏やかな彼が、ほんの一瞬だけ息を潜める。その仕草に、白雅はこの扉の向こうにある『ただならぬ現実』を直感した。


「失礼します。ナディル殿下、お客人をお連れしました」


 すると中で鈴がニ回鳴るような音がして、ラフィークは扉を開けた。中はナディル王太子の寝室だ。


 扉が開いた瞬間、白雅は思わず息を呑んだ。寝室には、香木の匂いと薬草の苦味がかすかに混じり合った空気が満ちていた。静寂は深いはずなのに、どこか張り詰めている。空気そのものが、病では説明できない『見えない手』に触れられているような気がした。


 静まり返った空間の奥、寝台に一人の男が身を起こしていた。


 歳の頃は三十ばかり。褐色の肌に、長い黒髪が肩へ静かに流れている。朝焼けの色を宿した瞳が、白雅をまっすぐに見つめていた。その静かな視線に触れた瞬間、白雅の胸の奥で氷と炎が同時に閃いたような、不思議な感覚が走った。


 ローラン国の王太子・ナディルだった。


「殿下、こちらは呪術師・サリナ殿改め、シアン殿とそのお連れ様のハクガ殿です」


 ラフィークがそう紹介すると、ナディルは無言で頷いた。


「申し訳ありません。本来ならばお客人をお通しする場ではないのですが……」

「構いませんわ。お初にお目にかかります、ナディル王太子殿下。紫闇と申します」

「はじめまして、白雅と申します。まずは、これをどうぞ」


 白雅はあるものを二つ、ラフィークに差し出した。それを見たナディルとラフィークは目を丸くした。


「これは黒板と白墨ではありませんか。なるほど、これで殿下と筆談をなさるおつもりなのですね」


 これならば文字を消してしまえば、会話の内容は証拠として残らない。そのために王宮に来る前、市場で買い求めたのだ。


 ナディルとラフィークにも、どうやらその意図は伝わったようだ。ラフィークからナディルへと小さな黒板と白墨が手渡された。ナディルの手が走る。


『セキアの使いだと聞いた』

「申し訳ありません、殿下。それは方便ですの。詳しくはこちらの白雅からお聞きになってくださいませ」


 ナディルの視線が白雅に向いた。白雅は外套の頭巾にそっと手をかけた。心臓が一拍だけ強く鳴った。赤鴉の名を語る以上、逃げることは許されない──。指先が布に触れた瞬間、心臓の鼓動が世界の音を追い越した。


 外套の頭巾を脱ぐと、雪のように白い髪と、血のように紅い瞳があらわになった。


「!」


 ナディルとラフィークの目が驚きに見開かれる。白雅は下腹に力を込めると、意を決して話し始めた。


「信じてもらえるかわかりませんが、私は十三年前、赤鴉に命を助けられ、彼に育てられました。赤鴉から殿下のことも伺っています。此度、殿下の危機と伺い、赤鴉の代わりに参上した次第です」


 ナディルの指が一瞬だけ止まり、白雅を正面から見据えた。そして白墨が再び走った。


『……証拠はあるのか?』


 白雅は首からさげた革の小袋を引っ張り出した。その中には、赤鴉からもらった佩玉が入っている。手の中の革袋は、いつもより少し重く感じた。赤鴉から託された重みを、今この場で差し出すことに、わずかな躊躇が胸の奥で軋んだ。


「赤鴉こと──韋煌国王・紅煇から貰った佩玉です。表と裏に、それぞれ紅煇王個人の紋と韋煌国の紋が刻まれています」

「──!」


 佩玉をラフィークに渡すと、ラフィークからナディルの手に渡った。紅煇王の紋は、細工師の息遣いまで聞こえそうなほど精緻で、手に取った者にまで王の呼吸が伝わるかのようだった。


 ナディルは佩玉を矯めつ眇めつ観察していたが、やがてため息をついて白墨を手にした。

 一瞬、その黄褐色の瞳が揺れた。遠い記憶が胸を掠めたように。


『……本物だ。セキアが韋煌国の王に即位した話はセキア本人から聞いている。これで疑いの余地はなくなったな。まさか、あのセキアが『白い子供』を拾い育てていたとは思わなかったが』


 佩玉が白雅の元へと戻ってくる。白雅はもう一度、佩玉を大切に首からさげた革袋の中にしまい込んだ。


「よければ事情をお聞かせください。私は赤鴉に救われました。今度は私が赤鴉の友人である殿下のお力になりたいんです」


 白雅の紅い瞳とナディルの黄褐色の瞳がしばし睨み合う。やがて、ナディルは小さなため息をつくと、白墨を走らせた。


『お前……セキアに育てられたわりには、まっすぐに育ったのだな』


 書かれた文字を見た紫闇が自慢げに胸を張る。


「ま、アタシのお陰よね」

「紫闇、しーっ!」


 白雅の小声は完全に無視され、紫闇は肩を回しながら続けた。


「あー、だめだわ。丁寧に喋るのは肩が凝るねぇ」


 どうやらナディルは笑ったようだった。


『よい。楽にするがいい。それに、普段の話し方で構わん』

「……いいの?」


 紫闇はチラリと白雅を見て、それから現金にも相好を崩した。


「それじゃあ、お言葉に甘えまして……あー、やっぱりこっちの話し方が楽だわ」

「紫闇ってば……」


 あまりの変わり身の速さに白雅は呆れてしまう。だが、確かに普段の話し方のほうが何倍も楽だった。


 チラリとナディルやラフィークに視線を向ける。ナディルは気にした様子もなく平然としているし、ラフィークに至ってはなんだかニコニコしていた。


「改めて……私は白雅だ。よろしくな」

『会えて嬉しいよ、セキアの養い子。そうそう、事情を聞きたいのだったな。詳しいことは、そこにいるラフィークから聞いてくれ』

「かしこまりました」


 ラフィークはナディルに一礼すると、白雅たちに事情を説明した。


 始まりは三日前。喉の痛みを訴えたナディルの声が突如として出なくなったのだ。お抱えの優秀な医術師に診せるも、原因はわからないという。


「それで独自に調査してみたところ、城下町で人々が『沈黙の呪い』の噂をしているとわかりました」


 ラフィークの話は、白雅と紫闇が町の医術師から聞き出した情報と一致していた。


「実は……我々のほうでもその噂を調べてみたのだが……」


 白雅は情報の出所は伏せて、要点をかいつまんで説明した。自らの見解も併せて。話をするうちに、ナディルとラフィークの顔色がどんどん青褪めていった。


「……砂毒、ですか。噂には聞きましたが、実在するとは……」


 ラフィークは眉間を押さえ、息を吐いた。


『あれは古い伝承の類とばかり思っていた』


 言葉に詰まったラフィークのあとを、ナディルが補った。


『それに『アズラの民』と長老会のつながりか……確かに最近、妙に大人しいと思っていたのだ。少し前まではあれほど王族を排斥しようと躍起になっていたのにな……迂闊だった』


 悔しさに表情を歪めるナディルに、白雅は身を乗り出した。


「心当たりがあるのか?」

「三日前の昼に、殿下は長老会の一人と接触しておられます」


 答えたのはラフィークだった。


「……今、そいつは?」

「翌日に死体となって発見されました。殿下に嫌疑をかけるためかと思っていましたが、今思えば口封じだったのでしょうね」


 沈黙が降りた。事態は思った以上に深刻であるようだ。


 長い沈黙を破ったのは白雅だった。


「……『アズラの民』については、なにか知っているか?」


 それに答えたのは意外にもナディルだった。


『直接は知らないが、薬草や呪術に詳しい『アシュマール族』と呼ばれる遊牧民がいると聞く。彼らを訪ねてみるがいい』


 真っ先に反応したのは紫闇だ。


「アシュマール族かぁ……昔、一度だけ会ったことがあるわ。まぁ、散々追い払われたけど。確かに、彼らは薬草や呪術に詳しいけど、それ以上に排他的なことで有名でね。無駄足になる可能性が高いんだけど……どうする? 白雅」


 白雅の答えは淀みがなかった。


「もちろん行くよ。でなきゃ『アズラの民』に会えないんだろ?」


 紫闇は大きなため息をつく。


「はぁ……仕方がないねぇ。アンタが行くんならアタシも行くよ。なにか収穫があれば報告に来るから。それでいいかい? ナディル殿下」


 ナディルは紫闇に頷きを返した。その瞳に、ふっと昔日を思う影が差す。


『あぁ、任せる。しかし……お前たちを見ていると、昔の私とセキアを思い出すよ。ハクガ殿はセキア似だな。無意識に人を振り回すところが、そっくりだ』

「!」


 赤鴉に似ていると評された白雅は、胸の奥で、温かいような苦しいような感情が入り混じった。その感情に名前をつけられず、白雅はただ唇を噛んだ。返す言葉が見つからない。紫闇は苦笑するしかなかった。


「そうでしょ。似てないようで、よく似てるのよねー。振り回されるほうは大変よ。でも……だからこそ魅力的なのよね」

『違いない』


 ナディルは視線を伏せ、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。かつて赤鴉と肩を並べた日々を思い出しているのだと、白雅にもわかった。


***


 王宮を辞して、市街地へと戻る。すると白雅に語りかける声がした。


『あの王太子の肉体……奥底に、異質な呪の残滓が蠢いておった』

「──! どういう意味だ? 璙」


 その言葉が落ちた瞬間、白雅の背筋をゾワリと冷たいものが這いあがった。驚く白雅に、竜神は淡々と告げた。


『あの者を冒す砂毒は、どうやら人為的に細工されているらしい。じわじわと長く苦しめるためにな』


 白雅は息を呑んだ。嫌な予感が、背筋を氷のように撫でていく。足元の砂が、急に不安定になったような錯覚を覚えた。胸の内側が冷たく捻じれ、呼吸の浅さだけが自分のものだと確かめるように胸を上下させた。ほんの一瞬、足が止まった。


(まさか──)


 胸の奥で、冷たい水が一気に流れ落ちたような感覚がした。足元の砂が崩れ落ちる幻まで見えた。白雅はその不吉な予感を振り払うように首を振り、紫闇へと向き直った。


 竜神の言葉を紫闇に伝える。紫闇は目を見開いて呟いた。


「そっか。それで王太子殿下は伏せっていたんだね……」


 紫闇は腕を組み、眉をひそめた。


「毒にまつわる呪術ってのはね、元の毒に『別の毒』を重ねて性質をねじ曲げるんだよ。追加された毒の特徴にもよるけど、璙王が言うようにじわじわと苦しめるようにもなれば、即座に命を奪うようにもなる……」


 どこか遠い目をして紫闇は語り続けた。


「呪術師にとって毒は、ただの害ではなく『形を持った意志』みたいなものさ。悪意を込めれば、毒はそのまま呪いに化けるのさ」


 彼女はそこで言葉を切った。


「……これは、明らかに人災だよ」


 紫闇の声が、ひどく低く落ちた。風が吹いているはずなのに、空気がどこか淀んでいるように感じられた。


「──なんだか、話が大ごとになってきたねぇ」


 未来に垂れこめる暗雲を振り払うかのように、白雅は首をひとつ横に振る。


「それでも、私たちのやることは変わらないさ。アシュマール族に接触して『アズラの民』を見つける。話はそれからだ」


 そう宣言した白雅の声音は心なしか硬い。赤鴉の友人も、名も知らぬ『声の出ない旅人』たちもどちらも助けたかった。


 迷いが完全に消えたわけではない。だが、歩みを止めれば、誰かの痛みだけが世界に取り残されてしまう。その想像が、彼女の背を静かに押した。


 高すぎる陽光は、冬のように冷たかった。影が鋭く伸び、行く先を無言で示しているように思えた。


 白雅はその光をまっすぐに見据え、歩き出した。

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