第26話 熱帯夜の微熱、抑制されたショッピングモール

 五月の風が薫るゴールデンウィーク直前。

 三年生になって最初の「記述模試」が終わった。


「……よし。いけた」


 解答用紙が回収された瞬間、俺、市川蒼は小さくガッツポーズをした。


 凛とのスパルタ勉強会、そして先日の「パフェ戦略会議」の成果が出た。英語の長文も、現代文の記述も、手応えがある。目標としていたB判定ライン……いや、A判定すら狙えるかもしれない出来だった。


 会場を出ると、夕陽の中に氷室凛が待っていた。

 彼女もまた、晴れやかな顔をしている。


「……顔を見ればわかるわ。やったわね」


「ああ。凛のおかげだ」


「ふん。当然よ。……これで、約束のデート権は獲得ね」


 彼女はツンと澄ましているが、頭上のウィンドウには**【歓喜:MAX】【ログ:かっこいい! さすが私の蒼! よく頑張った! 褒めてあげたい! 頭撫で回したい!】**という文字が踊っていた。


「ああ。ショッピングモールに行こう。映画でも見て、買い物して……普通のデートをしよう」


「ええ。……『普通』の、ね」


 凛は意味深に微笑み、俺の手を握った。

 その手が、いつもより少し熱く、じっとりと汗ばんでいる気がしたのは、模試の熱気のせいだけではなかったのかもしれない。


          *


 その夜。

 氷室家の、凛の自室。

 模試の疲れで泥のように眠る……はずだったが、凛はベッドの上で寝返りを繰り返していた。


 部屋の電気は消えている。カーテンの隙間から差し込む月明かりだけが、彼女の白い肌を照らしている。


 眠れない。

 脳裏に焼き付いて離れない光景があったからだ。


(……忘れなきゃ。あんなの、事故だったんだから)


 数日前、蒼と迷い込んだ路地裏の店。

 ピンク色の照明。

 棚に並んでいた、刺激的なパッケージたち。


 そして、『18禁』という背徳的な響き。

 あの時は「変態!」と怒って飛び出したが、その衝撃は彼女の奥底にある「スイッチ」を入れてしまっていた。


 優等生として、清く正しく生きてきた彼女にとって、それはあまりに未知で、甘美な劇薬だった。


「……蒼くん……」


 闇の中で、彼の名前を呼ぶ。

 想像してしまう。


 もし、あそこで店員に止められなかったら。

 もし、蒼があの場所のような熱量で、私を求めてきたら。


 身体の芯が、じわりと熱くなる。

 凛はパジャマの上から、自分の胸に手を当てた。心臓が早鐘を打っている。

 その手は、無意識のうちにシーツを強く握りしめていた。


「……ダメ。……こんなこと考えちゃ、ダメ……」


 言葉とは裏腹に、呼吸は荒くなる。

 頭の中に浮かぶのは、参考書の数式でも英単語でもない。


 蒼の顔。蒼の手。蒼の唇。

 温泉旅行で触れ合った時の、彼のゴツゴツとした手の感触。

 力強く抱きしめられた時の、男の人特有の硬さと体温。


(蒼くんに触れられたら……もっと、熱いのかな……)


 凛は枕に顔を埋めた。


 想像の中で、彼の手が自分に触れる感触を追い求めてしまう。

 シーツの冷たさが、逆に肌の火照りを際立たせる。

 波のように押し寄せる衝動に、彼女の背中が小さく跳ねる。


【ログ(脳内):蒼……蒼……。したい。貴方と一つになりたい。キスだけじゃ足りない。もっと深いところで。貴方の全部で、私を満たしてほしい……!】


 あの日見たパッケージの女性のように、乱れてみたい。


 優等生の仮面を脱ぎ捨てて、彼の前ですべてを曝け出したい。

 そんな背徳的な願望が、熱と共に全身を駆け巡る。


「あ、あっ……蒼、くん……っ!」


 一瞬の空白の後、彼女は彼の名前を呼んで、深く息を吐き出した。


 ビクビクと身体を震わせ、余韻に浸る。

 汗ばんだ肌が空気に触れて冷たい。

 我に返った凛は、自分のしたことに顔を覆った。


「……私、何やってるの……変態は、私の方じゃない……」


 自己嫌悪。

 けれど、身体に残る火照りは消えない。


 明日のデート。

 彼に会ったら、私は正気を保っていられるだろうか。

 凛は熱の引かない身体を抱きしめ、浅い眠りについた。


          *


 翌日。日曜日。

 俺たちは郊外にある大型ショッピングモールに来ていた。


 模試のご褒美デートだ。

 映画を見て、服を見て、ランチを食べる。健全なデートプランのはずだった。


 しかし。


「……凛? 大丈夫か? 顔、赤いぞ」


 隣を歩く凛の様子がおかしい。

 待ち合わせの時からずっと、妙に距離が近い。というか、俺の腕に自分の体を預けるように抱きついている。


 歩くたびに柔らかい感触が伝わってきて、こっちの理性が削られる。


「……平気よ。ちょっと、人が多くて酔っただけ」


 凛は潤んだ瞳で俺を見上げた。

 その表情は、いつものクールさとは程遠い、どこかトロンとした艶めかしさを帯びている。


 そして何より、彼女の頭上のステータスが異常だった。


【状態:微熱(Fever)】

【理性:30(低下中)】

【欲望度:接触(MAX)、蒼の体温(90)、二人きりになりたい(80)】

【ログ:蒼の腕。硬い。……昨日の夜、想像した感触と同じ。ダメ、思い出しちゃう。身体が熱い。蒼に触れてないと立っていられない。ねえ蒼、気づいて。私がこんなに乱れてることに気づいてよ】


(……おいおい、マジかよ)


 ログの内容が切実すぎる。


 昨日の夜、何があったんだ。

 俺は動揺を隠しつつ、彼女をエスコートして人混みの少ないフロアへと移動した。

 ウィンドウショッピングをしていても、凛の視線は商品ではなく俺に向いている。


 試着室に入る時も、「……一緒に入る?」なんて冗談めかして言ってきたが、目が笑っていなかった。本気だ。あれは本気で俺を引きずり込もうとしていた目だ。


「……少し、休憩しようか」


 俺たちは屋上のテラスベンチに座った。


 夕暮れ時。家族連れは帰り始め、周囲にはカップルの姿が増えている。


 風が心地よい。

 凛はベンチに座るなり、俺の肩に頭を預けてきた。

 甘いシャンプーの香りと、彼女自身から発せられる熱気。


「……蒼」


「ん?」


「模試、頑張ったご褒美……まだもらってない」


 彼女の手が、俺の太ももの上に置かれる。

 そして、ゆっくりと内側へ、指を這わせてくる。


「っ……凛、ここは外だぞ」


「誰も見てないわ。……暗いし」


 凛が耳元で囁く。

 吐息が首筋にかかる。ゾクゾクとした電流が背筋を走る。

 彼女のステータスウィンドウが、警告色に点滅している。


【リミッター解除:承認待ち】

【ログ:もう我慢できない。いい子でいるの疲れた。蒼が欲しい。今すぐ。ここでキスして。触って。私をぐちゃぐちゃにして。……ねえ、私が悪い子になっても、受け止めてくれる?】


 彼女の指が、俺のズボンの上から、熱を持った部分に触れようとした瞬間。


 俺はガシッ、と彼女の手首を掴んで止めた。


「……ダメだ」


 絞り出すような声で言った。


 拒絶じゃない。俺だって限界ギリギリだ。

 こんな無防備な顔で誘われて、何も感じない男なんていない。


 でも、ここで流されたら、俺たちは戻れなくなる気がした。


「……どうして? 私のこと、嫌い?」


 凛が泣きそうな声で訴える。


「違う。好きだ。大好きだ。……だからこそ、今じゃない」


 俺は彼女の手を、自分の唇に押し当てた。


「俺たちは受験生だ。これから一番大事な時期に入る。……中途半端な気持ちで一線を越えたら、きっと何かが崩れる」


 それは俺の直感だった。


 欲望と克己。

 そのバランスを保てるほど、俺たちはまだ器用じゃない。

 一度タガが外れれば、きっと勉強どころではなくなって、互いに溺れてしまう。


「合格してからだ。……全部終わって、春になったら。その時は、もう我慢しない」


 俺は彼女の目を見て、宣言した。

 凛の瞳が揺れる。

 熱に浮かされていた瞳に、少しずつ理性の光が戻ってくる。


「……春まで、お預け?」


「ああ。……その代わり、利子つけて返すよ」


 俺が言うと、凛はふてくされたように唇を尖らせ、それから俺の胸に顔を埋めた。


「……バカ。……意地悪」


 彼女は俺のシャツをギュッと握りしめた。

 震えている。

 それは欲望の震えではなく、俺に止められたことへの安堵と、未来への約束に対する震えだった。


【状態:鎮静(Cool Down)】

【欲望度:合格への執念(Limit Break)】

【ログ:……わかった。わかったわよ。蒼の言う通りね。今しちゃったら、私、勉強なんて手につかなくなる。……合格するまで我慢。その代わり、合格したら覚悟しなさいよ。一週間部屋から出してあげないんだから】


 一週間監禁されるらしい。

 恐ろしい未来だが、それを励みに頑張るしかない。


「帰ろう、凛。……明日は単語テストだろ」


「……ええ。満点取ってやるわ」


 凛が顔を上げる。

 その頬はまだ赤いが、瞳には強い意志が宿っていた。

 

 俺たちは手を繋ぎ、ショッピングモールを後にした。


 危うい一線を越えそうになった夜。


 けれど、踏みとどまったことで、俺たちの絆はより強靭な「戦友」のものへと進化した気がした。


 次の春、合格通知を手にした時、この我慢が最高のスパイスになることを信じて。


 俺たちは熱を帯びた体を夜風で冷ましながら、それぞれの家路についた。

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