第20話 東京遠征、一年早い決戦前夜
2月14日。
世間一般では、チョコレートの甘い香りと恋人たちの浮ついた空気が支配する「聖バレンタインデー」だ。
しかし、来年の受験を見据えた高校二年生にとって、この日は甘いイベントではなく、未来を占う「前哨戦の日」である。
東京。私立W大学のキャンパス前。
予備校主催の『高2生対象・難関大本番レベル模試』を受けるため、地方から上京してきた僕、市川蒼は、圧倒的な人の波に飲まれていた。
「……うわ、人多すぎだろ……」
吐く息が白い。
周りは皆、同じように「来年の合格」を狙う、賢そうな眼鏡をかけた秀才や、余裕しゃくしゃくの進学校の生徒に見える。
僕の能力――人の「好感度」や「パラメーター」が見える目――は、こういう時、逆に仇となる。
【受験生A:E判定からの逆転狙い(闘志)】
【受験生B:全国模試10位(余裕)】
【受験生C:緊張度90(場の空気に飲まれている)】
視界に入ってくる情報のすべてが、僕のメンタルを削りに来ていた。
僕はまだ実力不足だ。凛に監修された地獄のスパルタ指導を乗り越えてきたとはいえ、この「全国のライバル」たちに囲まれると、足がすくむ。
(……ダメだ。帰りたい。こたつに入ってミカン食べたい。まだ高2だし、来年頑張ればいいじゃん……)
弱気な思考が渦巻く。
胃が痛い。吐きそうだ。
もし今日の結果がボロボロだったら?
「一年かけても無理」という現実を突きつけられたら?
凛は余裕でT大に行って、僕は置いてけぼり?
いや、凛のことだ。「蒼が来ないなら、私がW大にレベルを落としてあげる」とか言い出しかねない。それはそれで申し訳なさすぎて切腹ものだ。
正門の前で立ち尽くしていると。
「――おい」
背後から、氷点下の声が聞こえた。
振り返ると、雑踏の中に、一際目立つ美少女が立っていた。
ベージュのトレンチコートに、チェックのマフラー。長い黒髪を風になびかせ、腕を組んで仁王立ちしている。
「り、凛!?」
氷室凛だ。
なぜここにいる?
彼女の志望する国立T大の下見に行くと言っていたはずだ。T大とW大は場所が離れているし、わざわざこっちに来る理由は……。
「な、なんで……T大のキャンパス見学に行くんじゃなかったのか?」
「……はあ。アンタのGPS反応が、正門前で5分間も停滞してたからよ」
凛は呆れたようにため息をつき、カツカツとヒールを鳴らして近づいてきた。
「どうせ『怖い』『帰りたい』『ママに会いたい』とか考えてフリーズしてたんでしょ? アンタの思考回路なんて手に取るようにわかるわ」
「……ぐうの音も出ない」
「だから、喝を入れに来てあげたのよ。感謝しなさい」
彼女は僕のネクタイ(今日は模試だが制服だ)をグイッと掴み、引き寄せた。
「……こんなところでビビってんじゃないわよ。まだ『練習(もし)』でしょ? アンタの家庭教師は誰だと思ってんの?」
強い瞳。
でも、至近距離で見ると、彼女の目の下に薄っすらとクマがあるのがわかった。 僕の対策勉強に付き合って、自分の勉強時間を削って、さらに睡眠時間まで削っていた証拠だ。
彼女の頭上のウィンドウを見る。
そこには、彼女の強がりとは真逆の、痛々しいほどの不安が表示されていた。
【心拍数:150(頻脈)】
【状態:祈り】
【ログ:お願い。心を折らないで。自信を持って。神様仏様学長様。蒼に「戦える」って思わせて。もし蒼がここで自信を失ったら、来年まで持たない。蒼のいない大学生活なんて砂漠。地獄。意味がない】
彼女の方が、僕の何倍も怖がっていた。
僕がこの「会場の空気」に押しつぶされることを危惧して、自分の見学を後回しにして駆けつけるほどに。
「……ごめん、凛。ビビってた」
僕は深呼吸をして、彼女の手を握った。
冷たい。氷のように冷え切っている。
「でも、もう大丈夫だ。凛が来てくれたから」
「……ふん。単純な細胞ね」
凛は素っ気なく手を離すと、バッグから小さな包みを取り出した。 赤いリボンがかけられた、手のひらサイズの箱。
「……はい」
「これ……」
「今日は2月14日。……言わなくてもわかるでしょ」
バレンタインチョコだ。
模試の当日に渡すなんて、タイミングが良いのか悪いのかわからないが、彼女なりのエールなのだろう。
「試験の合間に食べなさい。糖分補給よ。……変な薬とか入ってないから安心していいわ」
凛は顔を背けて言った。
しかし、ウィンドウには成分表示が出ていた。
【アイテム:『必勝愛妻チョコ(激重・先行投資版)』】
【原材料:カカオ、砂糖、合格祈願、執念、私の愛、私の魂、来年の予約】
【効果:集中力∞上昇 / 食べた瞬間、私への愛が再確認される呪い付き】
重い。物理的な質量以上に、想いが重い。
でも、それが今の僕には何よりの燃料だった。
「ありがとう。……これ食べて、絶対良い判定取ってくる」
「当たり前よ。E判定なんか取ったら、チョコ代として一生下僕になってもらうから」
凛はそう言うと、僕の襟を整え、背中をバン! と叩いた。
「行ってらっしゃい、蒼。……待ってるから」
その「待ってる」という言葉が、模試の終了まで待っているという意味なのか、来年の春、同じ大学生として待っているという意味なのか。
きっと、両方だ。
僕は「行ってきます」と力強く答え、正門をくぐった。
もう、周りのライバルの偏差値なんて気にならなかった。
僕には、最強の女神(勝利の女神兼鬼コーチ)がついているのだから。
*
試験会場の教室は、本番さながらの鉛筆の音と緊張感で満ちていた。
1科目目、英語。
問題用紙を開く。
(……あ)
見たことのある構文だ。
冬休み、凛が「来年はこういう傾向が来るはず」と言って無理やり解かされた予想問題にそっくりだった。
(凛の予想、的中しすぎだろ……エスパーか?)
彼女の声が脳内で再生される。
『いい? ここは文脈で判断しないで、文法構造を見なさい! バカ!』
『この単語は高2のうちに覚えなさいって言ったでしょ! 海馬腐ってんの!?』
試験中なのに、罵倒されている気分になる。
でも、おかげでペンが止まらない。
解ける。戦えるぞ。
休憩時間。
僕は凛からもらったチョコを一粒口に入れた。
ビターな味わいの中に、ほのかな甘み。
高級チョコの味だ。たぶん、一粒数百円するやつだ。
噛み締めると、身体の奥から熱が湧いてくる気がした。
2科目目、国語。
3科目目、日本史。
最後の科目が終わるチャイムが鳴った時、僕は完全燃焼していた。
手応えは……ある。
少なくとも、「来年なんて無理だ」という絶望はない。
「……ふぅ」
大きく息を吐き、僕は教室を出た。 廊下の窓から見える東京の空は、冬晴れの青色だった。
*
正門を出ると、夕暮れ時になっていた。
冷たい風が吹く中、多くの受験生(高2生)が解放感と不安の入り混じった顔で帰路についている。
僕は人混みの中に、彼女の姿を探した。
まさか、ずっと外で待っていたわけじゃないよな?
近くのカフェにでも入っていてくれればいいけど。
「……あ」
いた。
朝と同じ場所。枯れ木のそばで、寒そうに足をバタバタさせているトレンチコートの少女。
鼻の頭も、耳も、真っ赤だ。
「凛!」
僕は駆け寄った。
「お前、ずっとそこにいたのか!? カフェとか行けよ!」
「……う、うるさいわね。カフェ混んでたし……ここなら、アンタが出てくるの一番最初に見つけられるし……」
凛は震える声で言い訳をした。
身体が芯まで冷え切っているのがわかる。
「バカ! 風邪引いたらどうすんだよ! 凛だって大事な時期なのに!」
「……だって……心配だったんだもん……」
凛がうつむく。
その瞳から、ポロポロと涙がこぼれた。
「アンタが『やっぱ無理だ』って顔で出てきたらどうしようって……慰めの言葉考えてたら、動けなくなって……」
彼女は僕のコートの裾を掴んだ。
「……どう、だった?」
すがるような目。 僕がここで心を折れば、彼女の計画も、二人の未来も狂ってしまう。彼女はその責任を、全部ひとりで背負い込んでいたのだ。
僕は彼女の手を両手で包み込み、温めながら言った。
「……解けたよ」
「え?」
「凛が教えてくれたところ、いっぱい出た。……たぶん、来年に繋がる結果にはなったと思う」
凛が目を見開く。 そして、へなへなと力が抜けたように、僕の胸に倒れ込んできた。
「……よ、よかったぁ……!」
彼女は僕にしがみつき、子供のように泣きじゃくった。
「バカ! 心配させやがって! 寿命が縮んだわよ! 責任取ってよ! うわぁぁぁん!」
「ごめん、ありがとう。……凛のおかげだよ」
周囲の生徒たちが「なんだあれ」「痴話喧嘩?」「模試終わっただけだろ」とジロジロ見ているが、今の僕たちには関係なかった。
彼女の頭上のウィンドウには、今日一番の輝かしいログが出ていた。
【ミッション:『蒼のチャレンジ模試』完了】
【結果:希望(Clear)】
【状態:安堵 / 虚脱 / 幸福】
【ログ:よかった。本当によかった。神様ありがとう。これで来年も一緒に戦える。……足の感覚ないけどどうでもいい。蒼の体温あったかい。好き。】
僕は冷え切った彼女を強く抱きしめた。 チョコの甘さと、彼女の涙のしょっぱさが混ざり合う、忘れられないバレンタインになった。
*
帰りの新幹線。
指定席に並んで座った僕たちは、泥のように眠っていた……はずだったが。
「……んぅ……」
僕の肩にもたれかかって眠る凛。
その寝顔は天使のように安らかだ。
しかし、彼女の手は僕の左手をガッチリとホールドし、離そうとしない。
ふと、彼女の頭上に寝言代わりのウィンドウが浮かんだ。
【夢の中:一年後の合格発表】
【シミュレーション:二人でキャンパスを歩く。看板の前で写真撮影。アパートの鍵を渡す儀式。……そして夜の祝賀会(意味深)】
夢の中では、もう一年後の計画を練っているらしい。
僕は苦笑しながら、窓の外を流れる夜景を見た。
東京の明かり。
来年の春、僕たちはこの街で暮らすことになる(合格していれば)。
まだ終わりじゃない。むしろ、今日が始まりだ。
次は、凛の番だ。
国立T大学。日本最難関の頂。彼女ならきっと届く。
僕は、眠る彼女の髪をそっと撫でた。
「……あと一年。一緒に走ろうな」
小さな声で呟く。
凛が「ん……」と身じろぎして、さらに深く僕の腕に顔を埋めた。
戦いはこれからだ。
けれど、この温もりがある限り、僕たちは無敵だ。
バレンタインの夜、新幹線はまだ見ぬ「来年の春」へ向かって疾走していた。
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