第17話 進路調査票は、二人の未来予想図(ライフプラン)である
季節は巡り、マフラーが恋しい時期になった。
高校二年生の冬。それは、学生にとって「猶予期間の終わり」を告げる季節でもある。
「はい、それじゃあ『進路希望調査票』、今日中に提出なー」
担任が無慈悲に配った一枚のプリント。
教室の空気がズンと重くなる。
第一志望、第二志望、就職か進学か。文系か理系か。
僕、市川蒼にとって、それは「現実」という名の鈍器で殴られるようなものだった。
「……はぁ」
ため息をつきながら、白紙のプリントを見つめる。
僕の成績は中の下。特にやりたいこともない。強いて言えば「平穏に暮らしたい」くらいだが、それを書いたら担任に呼び出されるだろう。
ふと、隣の列を見る。
窓際の席で、氷室凛がさらさらとペンを走らせていた。迷いがない。
彼女が書き終えたプリントを裏返す瞬間、文字が見えてしまった。
『第一志望:国立T大学 法学部』
――T大。
国内最難関のトップ大学だ。
わかってはいたけれど、改めて突きつけられると眩暈がする。
容姿端麗、成績優秀。彼女は選ばれた人間で、僕は……。
「……何ジロジロ見てんのよ」
視線に気づいた凛が、鋭く僕を睨んだ。
マフラーに顔を埋め、寒さで鼻の頭を少し赤くしている。可愛い。けれど、その目は氷のように冷たい。
「あ、いや。凛はすごいなと思って。T大だろ?」
「当然でしょ。私の頭脳に見合う場所はそこしかないわ。……アンタは? どこのFランク大学に行くつもり?」
「まだ決めてないよ。……ていうか、僕の頭じゃT大なんて逆立ちしても無理だし」
僕が自嘲気味に言うと、凛はピクリと眉を動かした。
不機嫌そうに唇を尖らせる。
「……ふん。まあ、アンタのスペックじゃね。せいぜい近場の私立がお似合いよ」
突き放すような言葉。
いつもなら「ひどいな」と笑って流せるのに、今日はなぜか胸にチクリと刺さった。
T大に行けば、彼女は東京へ行ってしまう。
僕は地元に残るかもしれない。
進路の違いは、そのまま二人の距離になる。
不安になる僕の視界に、彼女の頭上のウィンドウが入った。
【思考中:ライフプラン再計算】
【入力値:蒼の偏差値(ゴミ) / 物理的距離 / 遠距離恋愛の成功率】
【シミュレーション結果:エラー発生。エラー発生。……修正プログラム起動中】
彼女の脳内でも、何やら不穏なエラーが起きているらしい。
凛は「チッ」と舌打ちをして、調査票をカバンに押し込んだ。
放課後。
僕は一人でファミレスにいた。
家に帰っても親に「進路どうするの」と聞かれるのが憂鬱で、ドリンクバーだけで時間を潰しているのだ。
「……はぁ」
参考書を開いてみるが、内容は頭に入ってこない。
T大に行く凛と、何者でもない僕。
釣り合わない。
付き合い始めたばかりで浮かれていたけれど、現実は残酷だ。彼女の足を引っ張りたくない。
「……ここ、いいかしら」
不意に、頭上から声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこに氷室凛が立っていた。
私服のコート姿。手には参考書を抱えている。
「凛!? なんでここに……」
「GPSよ」
「えっ怖っ」
「嘘に決まってるでしょバカ。アンタの行動パターンなんて、アメーバより単純だから予測可能なの」
彼女は勝手に僕の前の席に座り、コートを脱いだ。
「……勉強、してたの?」
「一応ね。進路調査票、明日までだし」
「ふーん。まあ、アンタの脳みそじゃ、どれだけ足掻いてもミジンコレベルでしょうけど」
凛はドリンクバーを取りに行き、メロンソーダを持って戻ってきた。
そして、テーブルの上に自分のノートを広げる。
沈黙。
いつもなら彼女の「心の声」を読んでニヤニヤするところだが、今の僕はそんな気分になれなかった。
彼女がT大に行って、キラキラしたキャンパスライフを送る中、僕は……。
「……ねえ、凛」
「何」
「T大、受かるといいな。応援してるよ」
精一杯の強がりだった。
凛の手が止まる。
彼女はペンを置き、じっと僕を見た。
「……何それ。他人事みたいに」
「だって、実際すごいことだし。凛なら絶対受かるよ。……東京行っても、元気でな」
言ってしまった。
別れを前提にしたような言葉。
自分が傷つく前に、予防線を張るような卑怯な言葉。
ダンッ!
凛がテーブルを叩いた。
店内の視線が集まる。
「……ちょっと、表出ろ」
「え?」
「いいから来いっつってんの!」
凛は僕の襟首を掴み、強制的に席を立たせた。
会計を済ませ(僕が)、店外へと引きずり出される。
外は冷え込んでいた。
吐く息が白い。
ファミレスの裏手にある、ひと気のない駐車場。街灯が寂しげに点滅している。
凛は腕を組み、鬼のような形相で僕を睨みつけていた。
「……アンタさ、何なの?」
「何が……」
「さっきの言い草。『東京行っても元気で』? ハッ、笑わせないで。別れる気満々って顔してんのよ」
図星だった。
僕は視線を逸らす。
「……だって、しょうがないだろ」
「は?」
「凛はT大を目指してて、僕は……たぶん地元の三流大だ。世界が違うんだよ。遠距離なんて続かないし、凛にはもっとふさわしい奴が……」
みっともない。
彼女の彼氏としての自信が、音を立てて崩れていく。
「それに、僕は凛の邪魔をしたくない。凛には夢を叶えてほしいし……」
「――黙れ、このネガティブ製造機!」
凛の怒声が響いた。
ビクリとして顔を上げると、彼女は目に涙を溜めて、悔しそうに唇を噛んでいた。
「勝手に決めつけないでよ! 誰が別れるって言った!? 誰が邪魔だって言った!?」
彼女は一歩踏み出し、僕の胸ぐらを掴んだ。
身長差のせいで、彼女が背伸びをして見上げる形になる。
近い。
怒りと、悲しみと、そして愛情に満ちた瞳。
「アンタの偏差値が低いことなんて、付き合う前から百も承知よ! 今さら何ビビってんのよ!」
身も蓋もないことを言われた。
「でも……現実問題、距離はどうするんだよ。凛は忙しくなるし、会えなくなるし……」
「そんなの、計算済みに決まってるでしょ!」
凛は叫ぶと同時に、僕に見せつけるように自分のスマホ画面を突き出した。
「見なさい、これ!」
画面には、スプレッドシートで作られた、緻密な表が表示されていた。
タイトルは**『蒼といっしょ♡ 50年ライフプラン(確定版)』**。
「……は?」
僕は目を疑った。
そこには、驚くべき計画が記されていた。
• 2026年4月: 凛、T大入学。蒼、東京の私立〇〇大学(偏差値50前後、蒼でも受かる穴場学部)に入学させる。
• 住居: 中間地点の〇〇駅周辺で半同棲(週末婚状態)。
• 学習管理: 凛が蒼の単位を完全管理。留年阻止。
• 就職: 蒼は人柄採用で堅実なメーカーへ。凛は官僚or弁護士になり経済的支柱に。
• 2030年: 結婚(仮)。式場はハワイ。
……なんだこれ。
僕の進路まで勝手に決まっている。しかも、妙に現実的なラインで。
「アンタがバカなのは計算に入ってるの! だから、アンタでも受かる東京の大学を私がリサーチして、過去問も傾向と対策も全部用意したわ!」
凛は涙声でまくし立てた。
「アンタが勉強できないなら、私が教えればいい! 距離が離れるのが嫌なら、アンタを東京に連れて行けばいい! 全部私がなんとかする!」
彼女の頭上のウィンドウが、まばゆい光を放っていた。
【演算結果:問題なし】
【障害排除:偏差値の壁? 破壊します。距離の壁? 消滅させます。】
【結論:死んでも離さない。地獄の果てまで連れて行く。私の人生にはアンタが必要不可欠なのよバカ!】
圧倒された。
彼女の愛は、僕のちっぽけな不安なんて遥かに凌駕するほど、重く、深く、そして強引だった。
「……凛、お前……」
「わかったらグジグジ悩んでないで勉強しなさい! 今日からスパルタよ! 私と同じ空気を吸いたければ、死ぬ気でペンを握れ!」
彼女は僕の胸ぐらを離し、乱れた髪を乱暴にかき上げた。
その頬を、涙がつたっている。
僕は……なんて馬鹿だったんだろう。
彼女はとっくに、二人の未来のために戦っていたのだ。僕が一人で勝手に諦めている間に。
愛しさが込み上げてきた。
どうしようもなく。
「……ごめん」
僕は彼女を抱きしめた。
冷たい空気の中で、彼女の体温だけが温かい。
「……っ、な、何よ……」
「僕が間違ってた。諦めない。……凛と一緒にいたいから、僕も頑張るよ」
腕の中の凛が、小さく震えた。
そして、おずおずと僕の背中に腕を回し、しがみついてきた。
「……当たり前よ。置いていったりなんか、絶対しないんだから」
「うん」
「アンタが落ちこぼれても、私が養ってあげる覚悟はあるけど……でも、やっぱり一緒に歩きたいの」
素直な言葉。
頭上のウィンドウには、さらに甘い本音が流れていた。
【好感度:∞(Endless Love)】
【ログ:抱きしめられた。あったかい。よかった。諦めないでくれた。私が蒼の人生背負う。重い? 重くてもいいよね? 運命共同体だもん。……大好き】
僕は彼女を少しだけ離し、涙で濡れた目元を指で拭った。
「その『ライフプラン』、詳しく教えてくれる?」
「……有料よ」
「出世払いで頼む」
「……高いわよ」
凛は鼻をすすりながら、少しだけ笑った。
泣きはらした目と、赤い鼻。
どんなモデルよりも、今の彼女が世界で一番可愛いと思った。
翌日。教室にて。
「はい、市川。……ほう、書いたか」
担任が僕の進路調査票を受け取った。
そこには、昨日の夜、凛に監修されて書き直した志望校が書かれている。
僕の実力より少し高い、東京の私立大学だ。
「お前、本気か? 今の成績だとかなり頑張らないといかんぞ」
「はい。わかってます」
「……まあ、いい顔してるな。頑張れよ」
担任はニヤリと笑って受け取ってくれた。
席に戻ると、窓際の凛と目が合った。
彼女は頬杖をつき、つまらなそうに外を見ているフリをしている。
でも、僕が席に着くと、小さく手元のスマホを操作した。
ブブッ。
僕のポケットでスマホが震える。
LIMEの通知だ。
『放課後、図書室。遅刻したら殺す(ハート)』
物騒なメッセージ。
でも、彼女の頭上には、希望に満ちた未来予想図が見えていた。
【現在進行中のミッション:『蒼といっしょに合格大作戦』】
【進捗:スタートラインに立ちました】
【モチベーション:合格したら同棲。合格したら同棲。合格したら毎日チューし放題……】
不純な動機が混ざっている気がするが、それが彼女の原動力なら文句はない。
僕は彼女に向かって、小さく頷いた。
凛はふん、と鼻を鳴らして顔を背けたが、その耳が真っ赤に染まっているのを、冬の陽射しが照らし出していた。
受験戦争という名の、僕たちの新しい「共同作業」が幕を開けた。
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