第5話 完璧な王子様の好感度が、ドス黒いヘドロだった件

その日、校内は朝からある話題で持ちきりだった。


「ねえ、聞いた? 中村(なかむら)先輩が彼女と別れたんだって!」


「マジ!? チャンスじゃん!」


「あの優しい笑顔で見つめられたら、私、即死しちゃう……」


 教室のあちこちから、黄色い悲鳴と甘ったるい溜息が聞こえてくる。


 中村 圭介(けいすけ)。三年生で、生徒会の副会長。成績優秀、スポーツ万能、実家は資産家という、少女漫画から飛び出してきたような「王子様」だ。

 

 僕、市川蒼にとっても、彼は雲の上の存在だった。

 廊下ですれ違った時、彼は僕のようなモブ生徒にも爽やかに挨拶をしてくれた。その時の頭上の数値は**【好感度:50(友愛)】**。

 誰に対しても平等に接する、裏表のない完璧超人。それが如月先輩に対する僕の評価だった――今朝までは。


 放課後。

 僕は昇降口で靴を履き替えていた。凛は今日は日直で、少し遅れると言っていたので待っているところだ。


「……氷室さん。少し、いいかな?」


 不意に、甘いバリトンボイスが響いた。

 空気が華やぐような気配。振り返ると、そこには壁に寄りかかる如月先輩がいた。


 その視線の先には、ちょうど階段を降りてきた氷室凛がいる。


「……何の用ですか、中村先輩」


 凛は足を止め、露骨に嫌そうな顔をした。

 相手は学校のアイドルだ。普通の女子なら頬を赤らめるところだが、凛にとって彼は「通学路に落ちている空き缶」程度の認識らしい。


「ハハ、そんなに警戒しないでよ。ただ、君と話がしたくてね」


 中村先輩は一歩踏み出し、凛との距離を詰める。


 その仕草は洗練されていて、映画のワンシーンのようだ。遠巻きに見ている女子生徒たちが「キャーッ!」「お似合いすぎる!」と騒ぎ立てる。


 しかし。

 僕の目には、信じられないものが映っていた。

 いつも【50】で安定していたはずの如月先輩の頭上。


 凛に向けられたその数値が、どす黒い紫色に変色していたのだ。


【対象:氷室凛】

【欲望度:98(征服欲)】

【タグ:攻略難易度S / 観賞用 / プライド高そうな女ほど落として泣かせたい / 飽きたら捨てる】


 ――は?

 背筋が凍った。

 王子様の仮面の下にあるのは、吐き気を催すような歪んだ欲望だった。彼は凛を「人間」として見ていない。「難しいゲーム」あるいは「トロフィー」として見ているだけだ。


「氷室さん。君はいつも孤高だね。でも、本当は寂しいんじゃないかな?」


 中村先輩が、甘い言葉を囁きながら凛の肩に手を伸ばす。


「僕なら、君を理解してあげられる。君のその氷のような心を、溶かしてあげたいんだ」


 周囲からは「告白!?」「公開告白!?」と興奮した声が上がる。


 誰も気づいていない。


 彼の笑顔の裏にある**【本音:さっさと落ちろよ、生意気な女】**という悪意に。


 凛が、不快そうに身を引こうとする。だが、背後は壁だ。


 逃げ場がない。


「……やめてください」


「照れなくていいよ。さあ、こっちへ――」


 先輩の手が、凛の細い腕に触れようとした瞬間。


 ガシッ!


 僕は考えるよりも先に飛び出し、先輩の手首を掴んでいた。


「……え?」


 中村先輩が、驚いたように目を見開く。

 周囲の喧騒が一瞬で静まり返った。


 一番驚いているのは凛だ。「あ、アンタ……?」と目を白黒させている。


「……なんだい、君は。今、大事な話をしているんだけど」


 中村先輩の顔から、一瞬だけ笑みが消えた。


 見下ろされる威圧感。完璧超人のオーラに、僕の足はガクガクと震えている。怖い。正直、今すぐ逃げ出したい。


 でも、あのタグを見てしまった以上、凛を渡すわけにはいかない。


「こ、困ってるじゃないですか……離してください」


「困ってる? 彼女と僕は楽しく会話をしていただろう? 邪魔をしないでくれないか、モブくん」


 先輩が腕を振り払う。

 圧倒的な力だ。僕はよろめいて、無様に尻餅をついてしまった。


【判定:ゴミ / 排除対象 / 視界に入れる価値なし】


 先輩の頭上に冷酷な評価が浮かぶ。

 彼は倒れた僕を一瞥もしないまま、再び凛に向き直り、その美しい顔を近づけた。


「さあ、行こうか氷室さん。邪魔も入ったし、場所を変えて――」


「――触るな」


 鋭利な刃物のような声が、空気を切り裂いた。


 バチンッ!!


 乾いた音が響く。

 凛が、仲村先輩の手を強烈に払い除けたのだ。


 それだけではない。彼女は先輩を睨みつけ、地獄の底から響くような声で言い放った。


「アンタの手、腐った生ゴミの臭いがするんだけど。ちゃんと洗ってる?」


「……は?」


 中村先輩の笑顔が凍りつく。


 凛は止まらない。彼女は倒れている僕の前に立ちふさがると、先輩を完全に敵としてロックオンした。


「さっきから聞いてりゃ、安っぽいドラマの台詞ばっかり並べ立てて。中身空っぽなのよ、アンタ」


「ひ、氷室さん……? 何を言って……僕は君のことを思って……」


「思って? ハッ、笑わせないで。アンタの目はね、ショーケースの商品を値踏みする客の目なのよ。薄汚くて、卑しくて、反吐が出る」


 凛の言葉は的確だった。

 まるで、僕と同じように「数値」が見えているかのように、先輩の本質を見抜いていた。

 

 中村先輩の顔が赤黒く歪む。


「……き、君ねぇ。僕が優しくしてやれば調子に乗って……! そこの冴えない男より、僕の方が全てにおいて優れているだろう!?」


「優れてる? どこが?」


 凛は鼻で笑った。


「顔が良いだけの中身スカスカな男より、不器用でも必死に私を守ろうとしたこいつの方が、1億倍マシよ。比較対象にすらならないわ」


 シーン……と、昇降口が静まり返る。

 公開処刑だった。


 プライドをズタズタにされた如月先輩は、わなわなと震え、何か捨て台詞を吐こうとしたが――周囲の生徒たちの視線が「え、先輩ってあんな人だったの?」と変わり始めていることに気づき、顔を真っ青にして逃げ去っていった。


 騒ぎが収まり、生徒たちが遠巻きにヒソヒソと話す中。


 凛は僕の方へ向き直った。

 さっきまでの修羅のような形相は消え、いつもの不機嫌な顔に戻っている。


「……立てる?」


 差し出された手。

 僕はその手を借りて立ち上がった。


「ありがとう、凛。助かったよ」


「勘違いしないでよ。アンタが私の所有物だから守っただけ。自分のカバンに泥がついたら払うでしょ? それと同じ」


 相変わらずの憎まれ口だ。


 でも。

 彼女の頭上のウィンドウは、さっきの修羅場とは打って変わって、桜色に染まっていた。


【状態:感動のあまり号泣(心の中で)】

【ログ:守ってくれた守ってくれた守ってくれた!! 怖かったのに! 足震えてたのに! 私のために王子様に立ち向かうとか何それ勇者? 私だけの騎士(ナイト)? 尊すぎて呼吸困難。酸素ボンベ必要。今すぐ抱きつきたいけど公衆の面前だから我慢我慢我慢……】


 ウィンドウの中で、デフォルメされた凛がペンライトを振ってオタ芸を打っていた。


「……それにしても、無茶するわね。あいつ、意外と力強かったし」


 凛は僕の手首を掴み、じっと見つめた。

 そこには、先輩に掴まれた時にできた赤い跡が残っていた。


 彼女の眉が悲しげに下がる。


「……赤くなってる」


「あ、これくらい大丈夫だよ。すぐ治るし」


「黙りなさい。傷モノにされた責任を取りなさいよ」


 理不尽な命令だ。

 凛は鞄から湿布を取り出し(なぜ常備しているのか)、手際よく僕の手首に貼った。その手つきは、驚くほど優しい。


【思考:痛いの痛いの飛んでいけ。あいつの手首、呪っとこうかな。蒼に傷をつける奴は全員抹殺リスト入り決定。……でも、私のために怪我した勲章だと思うと、ちょっとだけ興奮する……❤】


 後半の歪んだ愛情は見なかったことにしよう。

 

「……帰るわよ。今日はアンタの家まで送ってあげる」


「え、逆じゃない?」


「アンタが弱ってるから特別措置! 途中で野良犬に襲われたら困るし!」


 彼女は僕の手首――湿布を貼った部分を避けて、そっと制服の袖を掴んだ。

 

 夕暮れの帰り道。

 袖を引く彼女の強さは、いつもより少しだけ弱くて、でも体温が伝わるほど近かった。


 完璧な王子様よりも、不器用で口の悪い彼女の方がいい。


 僕がそう思った瞬間、彼女の頭上にポコンと新しいログが表示された。


【好感度:ERROR / 今、私のこと好きって思った? 思ったよね? 受信しました! 同期完了! 今日は赤飯! 婚姻届の用紙ダウンロードしとくか……】


 ……やっぱり、前言撤回していいかな。


 僕の思考を読み取ったかのようなタイミングの良さに戦慄しながら、僕は彼女に引かれて歩き出し

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