第2話「転生したらたんぽぽだった」

風が、吹いている。


それが最初に理解したことだった。


身体がない。いや、正確には人間の身体がない。腕も脚も、声を出す喉もない。あるのは、風に揺れる茎と、光を受ける葉と、土に這う根だけ。


俺は、たんぽぽだ。


冗談みたいな話だが、これが現実らしい。人間として死んで、植物として生まれた。転生、輪廻、そういう類の何かが起きている。


でも、パニックにはならなかった。


なぜなら、ここは穏やかだったから。


太陽が、暖かい。


人間の時とは違う感覚で、光を浴びている。肌で感じるのではない。身体全体で、葉の一枚一枚で、光を吸い込んでいる。それが心地よくて、満たされていく。


ああ、これが光合成か。


知識としては知っていたけど、体験するのは初めてだ。太陽の光がエネルギーに変わる。葉緑素が働き、二酸化炭素が糖に変わっていく。その過程が、身体の中でゆっくりと進んでいく。呼吸をするように、自然に。


食事も、水も、何もいらない。ただ光を浴びて、ただ風に揺れているだけで、俺は存在できる。


シンプルだ。


朝日が昇ると、身体が目覚める。昼の強い日差しに身を晒し、夕日が沈むと静かに眠る。そのリズムが心地よくて、人間の時に感じていた焦りや不安が、嘘のように消えていた。


人間の時は、やることが多すぎた。起きて、食べて、働いて、眠る。その合間に娯楽を挟んで、SNSをチェックして、時間を潰す。常に何かをしていないと不安だった。


でも今は、何もしなくていい。


風に揺れるだけでいい。


視界は、人間の時とは全く違う。


目があるわけじゃない。でも、光の強弱や、影の動きは感じ取れる。空が青いことも、雲が流れていることも、なんとなくわかる。


遠くで、鳥が鳴いている。


近くで、虫が飛んでいる。


誰かの足音が聞こえて、また遠ざかっていく。


音は聞こえる。でも、人間の時ほど明瞭ではない。全てがぼんやりとしていて、でもそれが心地よい。


時間の感覚も、曖昧だ。


朝が来て、昼になって、夜が来る。それは光の変化でわかる。でも、何日経ったのかはわからない。一週間かもしれないし、一ヶ月かもしれない。


ただ、春の匂いがする。


土の匂い、草の匂い、花の匂い。それらが混ざり合って、優しい空気を作っている。人間の時は気づかなかったけど、世界はこんなにも香りに満ちていたのか。


雨が、降ってきた。


最初は小さな雫が、葉に当たる。ぽつり、ぽつりと、リズムを刻む。やがて本降りになり、俺の身体全体を濡らしていく。


冷たい。


でも、嫌じゃない。


雨は俺に水を与えてくれる。根が水を吸い上げ、茎を通り、葉まで届く。身体中に水が巡っていく感覚。これも、人間の時には味わえなかったものだ。


雨音が、世界を包む。


他の音は消えて、ただ雨だけが響いている。静かで、穏やかで、でもどこか寂しい。


人間の時、雨の日は嫌いだった。


濡れるのが嫌だったし、傘を差すのも面倒だった。洗濯物も乾かないし、気分も沈む。雨の日に良いことなんて、何もなかった。


でも今は、雨が愛おしい。


これがないと、俺は生きていけない。


雨が止む。


雲が晴れて、また太陽が顔を出す。濡れた葉が、光を反射してきらきらと輝く。虹が、空にかかっている。


綺麗だ、と思う。


人間の時も虹は見たことがあった。でも、こんなに美しいとは思わなかった。色が、光が、こんなにも鮮やかだったなんて。


足音が近づいてくる。


小さな足音。子供だ。


「あ、たんぽぽ!」


高い声が響く。女の子の声だ。


俺の視界に、小さな手が伸びてくる。まだ幼い、柔らかそうな手。その手が、俺の茎を掴む。


引っ張られる。


根が、土から離れていく。


ああ、摘まれるのか。


痛みはない。でも、確かに感じる。俺という存在が、この場所から引き剥がされていく感覚。


「ママー、たんぽぽ取ったよー!」


嬉しそうな声。


俺は、彼女の手の中にある。


もう土には繋がっていない。光も、風も、届かない。ただ、彼女の体温だけが伝わってくる。


これで、終わりか。


でも、不思議と悲しくはなかった。


彼女が喜んでくれたなら、それでいい。俺の存在が、誰かを笑顔にできたなら、それは悪くない。


時間が経つ。


彼女の手の中で、俺は少しずつ萎れていく。水がなくなり、光がなくなり、生命力が失われていく。


視界が、ぼやけてくる。


音も、遠くなる。


でも、まだ意識はある。


人間の時と同じだ。死んでも、意識は消えない。


やがて、彼女の手が開く。


「ふーっ!」


息を吹きかけられる。


その瞬間、俺の身体が弾けた。


いや、身体ではない。綿毛だ。


俺は、いつの間にか綿毛になっていた。


白くて、軽くて、ふわふわとした綿毛。それが何十個も、何百個も、一斉に舞い上がる。


風に乗る。


空へ、空へ、昇っていく。


軽い。こんなにも軽いのか。重力なんて、まるで感じない。ただ風に身を任せて、どこまでも飛んでいける。


下を見ると、女の子が笑っている。


その隣には母親がいて、二人で空を見上げている。


俺は、彼女たちの上を飛んでいく。


もっと高く、もっと遠くへ。


空は、果てしなく広い。


雲が近い。鳥が横を通り過ぎる。風が、俺を運んでいく。


どこへ行くのかはわからない。


でも、怖くはない。


これが、たんぽぽの役目だ。種を運ぶこと。新しい場所へ、命を繋ぐこと。


そして、俺もまた――


意識が、薄れていく。


綿毛が、どこかに着地する。


土の匂いがする。


また、終わりか。


でも、終わりじゃない。


次がある。次へ行く。


俺は、そう理解した。


風が、俺をどこかへ運んでいった。


(了)

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