第3話 死への道中にて
実家に辿り着くまでには、一か月はかかるだろうと俺は見積もった。
もちろん、もう電車など動いてはいない。
車も同じだ。動くものを探すのは奇跡に近い。
自分の足で歩くしかないのだ。
俺は使い古された地図を広げた。紙はすでに黄ばみ、折り目には裂け目が走っている。
それでも、まだ道筋を示す役割は果たしていた。
実家がある方角は、大まかには東だ。細かい道を把握することはできないが、幸いにもこの国は標識だらけだ。自動車用に設置された青い案内板が、まだ街道の上に突っ立っているはずだ。
あれさえ残っていれば、間違えずに進めるだろう。
「方向さえ間違わなければ、なんとかなる」
俺は自分にそう言い聞かせた。地図と標識。それだけが、これからの旅を導く唯一の道標だった。
地図を広げて眺めると、都市部の方角には、地図上でやけに緑色の部分が多い。
山なのか森なのか、とにかく道が複雑で、歩き抜けるのは困難に思えた。
一方で、もう一つのルートは太い線が東へまっすぐ伸びていた。大きな道があるということは、
それだけわかりやすく、迷う可能性も低いはずだ。
もちろん、実際に通れるかどうかは別問題だが、少なくとも地図上では「行きやすそう」に見える。
「よし、こっちで行こう」
そう口に出すと、少しだけ肩の力が抜けた。プロならもっと緻密に考えるのかもしれないが、俺はただの素人だ。
直感で決めてもいいだろう。
どうせ、時間なら腐るほどある。死に向かう旅に、締め切りなんて存在しないのだから。
地図に大きく描かれた湖を見つめながら、ふとこんなことを考える。
「最後の帰路だ。寄り道くらいしてもいいだろう」
心の中で呟いた。
道中、道端や建物の影にはやつらの姿があった。
だが、最初に見たときと同じく、動く気配はない。
ただ腐りきり、地面や壁に凭れかかっているだけだ。
かつてあれほど恐怖の象徴だった存在が、今ではただの「風景」に変わりつつある。
この数年間、不安と恐怖に支配されて生きてきた。眠れぬ夜を幾度も越え、常に足音とうめき声に怯えていた。
だが、状況は変わった。やつらが動かない――その事実だけで、胸の奥にほんのわずかな明かりが灯るのを感じた。
歩いては、途中で食料を調達し、好きなときに休む。そんな単純な行動を繰り返すのが、いまの俺の旅のスタイルだ。
もちろん完全に気を抜くわけにはいかない。
動かなくなったとはいえ、やつらがそこにいるだけで、わずかな警戒心は手放せなかった。
夏の山道は容赦がなかった。
舗装はされているが、アスファルトの照り返しと、延々と続く登り坂が体力を容赦なく削っていく。
靴の中は汗でぐっしょりと湿り、息はすぐに荒くなる。立ち止まっては、水を口に含み、空気を吸い込んでまた一歩を踏み出す。
進む、休む、また進む。それしかなかった。
山道の斜面、ガードレールの向こう、木々の間にも、いくつもの黒ずんだ影が横たわっている。俺は思わず立ち止まった。
「……こんなところにもか」
やつらは街に多いと思っていた。
人が集まる場所にこそあふれ、山の奥などはむしろ安全地帯だと、どこかで勝手に決めつけていたのだ。だが現実は違った。
人が逃げ込んだ先を追いかけてきたのか、あるいは彷徨った末にここまで来たのか。理由はわからない。
ただ、山の中にまでやつらがいたという事実が、意外で、少しだけ不気味だった。
一歩一歩、山道を踏みしめながら、心の奥底でかすかな変化を感じる。
絶望の中に閉じ込められていたはずの俺が、ほんの少しずつ前を向いている。長い間忘れていた感覚だった。
ようやく湖に着いたころには、体はすっかり疲れ切っていた。
足は鉛のように重く、肩に食い込む荷物は痛みに変わっていた。汗が乾いて塩の跡を残し、視界は陽炎のように揺れている。
湖畔の道沿いに、ちょうど日陰になった場所を見つける。俺はそこに腰を下ろした。
湖の感想よりも、今はただ体を休めることが先だった。
呼吸を整え、背中を草むらに預ける。
思考も感情も、すべて手放し、ただボーっとする。
無の時間。
しばらくして、改めて湖を眺めた。
確かに、でかい。
こんな巨大な水面は、他ではなかなかお目にかかれない。
関心はある。けれど……それだけだった。
驚きも、感動も、胸の奥を揺らすほどのものはない。
そして、ふと考えてしまう。
家に帰り、そこで生涯を終える――決めたはずの目的が、少し面倒に思えてきた。
あの家にたどり着くまでの道のりも、その先の終わりも、頭に浮かべるだけで疲れてしまう。
せっかく目標を見つけたのに、俺の心はもう揺らぎ始めていた。
昔からの悪い癖だ。最初は勢いよく頑張るが、長続きしない。
この世界がこうなる前から、俺はそういう人間だった。
部活でも、勉強でも、仕事でも。熱を入れて始めるのに、いつの間にか冷めてしまい、気づけば惰性に変わっていた。
そして今。世界が崩れ落ち、ちょっと前までは絶望の中で首を吊ろうと考えていた俺が、それでもようやく見つけた唯一の目標――実家へ帰り、そこで生涯を終えるという目的でさえ、この短い間で「面倒くさい」と思い始めている。
昔はヒーローに憧れていた。
漫画や映画の主人公のように、仲間を守り、最後まで立ち向かう強い人間に。
誰かにとっての希望になるような存在に。
だが、こうして汗だくで湖を眺め、心の底から「やっぱり無理だ」と思っている自分がいる。
到底、俺にはできない。
俺は物語の主人公なんかじゃない。ただの、どこにでもいる弱い人間なのだ。
まずは気持ちを切り替えようと、湖の水で顔を洗った。冷たさが火照った肌を刺し、一瞬だけ頭が冴える。
水滴を拭わずにそのままにしておくと、乾いていく過程さえも心地よかった。
「もう一度休んでから行こう」
そう決めて、湖畔に横たわった。空を見上げれば、白く霞んだ雲がゆっくりと流れている。まぶたを閉じればすぐに眠気が押し寄せ、俺はそのまま仮眠に落ちていった。
浅い眠りの中で、過去の記憶が脈絡もなく浮かんでくる。仕事の帰り道、家族との夕食、くだらない雑談。どれも二度と戻らないはずの光景が、夢の中で勝手に再生される。
――ビクッ。
急に体が跳ね、目が覚めた。
心臓が早鐘を打っている。耳を澄ませるが、周囲は静かだ。
蝉の声と、波打つ水音だけ。夢が終わった反動で、現実の静けさがやけに重くのしかかる。
気づけば、日は傾きかけていた。夕方の風は、昼間の灼熱を和らげ、歩きやすい空気に変わっていた。湖面も、赤みを帯びた光を反射して揺れている。
腰を上げ、肩の荷物を持ち直す。
「……行くか」
小さく呟き、俺は再び歩き出した。
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