躓く城門と抱擁の城壁
碧
蒼の深淵と黄金の跪拝
一五二五年四月一〇日、クラクフの中央広場。
その日、バルトの空は、春の到来を告げるにはいささか厳しく、しかし、王国の晴れ舞台を祝福するには十分な、澄み切った青を広げていた。広場の石畳は、前夜の雨の湿り気をまだ僅かに残しており、昇り始めたばかりの太陽の光を鈍く反射させている。
ポーランド王国の首都は、爛熟したルネサンスの熱気に包まれていた。当時のポーランドは、ジグムント一世の治世下、まさに黄金時代の幕開けにあり、その繁栄は、集う人々の絢爛たる装い、きらびやかな建築の細部にまで見て取れる。広場は、黒海方面から流入する穀物貿易で得た富によって織りなされた、色彩豊かな貴族のローブ、聖職者の厳粛な法衣、そして大勢の国民の歓声で埋め尽くされている。その歓喜は、国家自身が奏でる、厚みのある音楽のようでもあった。
その躍然たる都の中心、ヴァヴェル城の門前で、歴史的式典が始まろうとしていた。
門前に立つ一人の青年――ポーランド王国は、自らの力を示す最高の舞台に、高揚感を隠すことなく立っていた。彼は、城門を見上げる群衆の熱い視線と、自身の存在とが共鳴し合うのを身体で感じていた。彼の赤色の瞳は、太陽の光を受けてまばゆく輝き、黄金の長く滑らかな髪は、まるで彼の舞台を祝福するかのように穏やかな風に吹かれて揺れていた。穀物の豊かさを象徴するかのような、健康的な肌艶と朗らかさを纏うポーランド王国。彼のオーラは、優しく、そして圧倒的に明るい。国内を照らす太陽のようなその明るさは、広大で肥沃なポーランドの大地が生み出す生命力そのものであり、中央ヨーロッパの大国として揺るぎない自信の結晶であった。
(俺は、ポーランドの威信を、このバルト海全域に轟かせるんだ)
隣に立つ国王ジグムント一世の凛とした立ち姿に目を向けながら、ポーランド王国は静かに、しかし熱い思いを抱いていた。彼が抱く勝利は、単なる領土の拡大ではない。かつて、神の名の下に暴威を振るい、長きにわたり対立してきたドイツ騎士団国が、自らの封土となり、人の世の王侯として膝を屈すること。これは最早、騎士団国の敗北と、己への忠誠を内外に示している。その事実が、彼の胸に最高の悦びを与えていた。爽やかな面立ちの下には、自らの力を他者に認められることへの純粋な歓楽が満ち溢れていた。
一方、本日の式典のもう一人の主役――ドイツ騎士団国は、騒がしいポーランドの群衆の中で、まるで透明な存在であるかのように静謐であった。
彼の聖母のような美しい顔立ちには、感情の波が一切見えない。絹糸のような白金色の髪は光をはじいているが、その群青の瞳は、このクラクフの晴れやかな空とは対照的に、どこまでも冷たく、深海の静寂を湛えていた。彼の視線は、群衆の歓喜を、貴族の視線を、国王の威厳を、そして隣に控える総長アルブレヒトの緊張をすべて肌で感じている。
この光、この熱狂。すべては、人の世によって定められた流れ。騎士団国としての終焉も、公国としての始まりも運命。
彼の心は、自らの屈辱という感情を、まるで霧のように払いのけていた。屈辱とは、自己の尊厳を、他者の価値基準で測ることから生じる。しかし、ドイツ騎士団国にとって、国としての自己の価値も、この場に集う人間や他国の価値も、秤にかけるまでもなく、等価であった。故に、従属も独立も、彼の魂を震わせるほどの意味を持たなかった。
ドイツ騎士団国の長い睫毛が瞬いたその時、式典が始まった。
アルブレヒトが、ポーランド国王ジグムント一世の前に進み出る。重厚な城門の前、大勢の視線が注がれる中、騎士団総長は片膝を折る。ポーランド国王に忠誠を誓う総長の背中を見守る、その瞬間。ドイツ騎士団国は、自らの肉体に、そして存在に、強烈な重みを感じた。聖なる戒律によって支えられていた魂が剥がれるような痛みが彼の身体を襲う。それは、血の代わりに聖水を流していた肉体が、俗世の冷たい血を注ぎ込まれるような感覚であった。
ドイツ騎士団国の存在を塗り替えようとする、総長の所作と国王の言葉。聖なる戒律によって支えられていた魂が、音も無く軋み始める。新しい世俗への魂へと置き換わる予兆、変容が始まる直前の、極限の静寂。彼は未だ、神に仕える騎士団の化身として立っている。しかし、その足元には、見えない地割れが引き裂こうとしていた。
彼の意識は、周囲の光景を捨てて、自己の深淵へと沈み込む。彼の魂に響くその圧迫感は、言葉や動作による説明を必要としない、根源的なものであった。ただ一つの事実――屈辱――が、すべての感情や意味を押し潰すような、たった一つの研ぎ澄まされた事実として、彼の内部に深く刻み込まれた。
(彼らは、膝を屈した俺という存在を、勝利の証として受け止めるのだろう……)
国王と、国家と、そしてクラクフに集う国民の喜びは、あまりに純粋だった。彼らは、目の前の野蛮な騎士が、祖国に屈する姿を愉快に、満足げに眺めている。
その騎士の瞳は、自らの身体が、目の前の人の王の決定によって、今まさにプロイセンを治める公国へと変容を強いられているという、冷徹な事実を映し出していた。彼は、ドイツ騎士団国として、その変化の開始点に立ったのだ。
ドイツ騎士団国は、ポーランド王国の真紅の瞳を見つめた。その瞳に映る、勝利の光。そして、満たされた優越感。ポーランド王国は、この式典が、バルト海沿岸の秩序を決定づける外交的勝利であることに、深い満足感を覚えているようだった。彼の朗らかな顔には、僅かな自尊心が見て取れる。それは、紛れもない、王国の強さの証であった。
「ドイツ騎士団国……いや、プロイセン公国よ。お前はこの旗を、我が宗主権の下で、高々と掲げるがよい」
国王からアルブレヒト公へ、ポーランドの白鷲の紋章がついた旗が渡される。その布の擦れる微かな音さえも、ドイツ騎士団国の耳には、屈辱の宣言として響いた。この光景は、彼の脳裏に、鮮やかな、しかし感情の抜けた屈辱の絵画として刻まれた。その絵画は、色彩に富んでいながら、まるで一枚の版画のように、冷たく、不変であった。
その時、彼の群青の瞳の奥で、微かに、そして激しく炎が揺らめいた。それは、静かな水底に沈んでいた、彼の野蛮な本質が、この静かな屈辱を糧として貪欲に吸収している証であった。戦闘状態に入ると、彼はこの博愛の面形を脱ぎ捨て、血と鋼の衝動に駆られる。その狂気の火種が、いま、この屈辱の場で、静かに、しかし着実に育成されていた。
(屈辱ではない。これは、俺の新たな顔だ。この属国の立場は、やがて来るべき、独立と拡張のための、最も美しい罠となる)
ドイツ騎士団国は、ポーランド王国の優しく明るい微笑みに、静かに、そして無表情で応じた。彼の唇は、わずかに微笑んでいるように見えたが、それは表情筋の微かな痙攣に過ぎなかった。その無表情こそが、彼が従属国という立場を、個人的な感情で受け止めていないことの証明であることを物語っていた。
クラクフの日差しは強くなり、黄金時代を謳歌するポーランド王国の栄光を、どこまでも照らし続けていた。しかし、その光の届かないドイツ騎士団国――もとい、プロイセン公国という新しい国家の魂の深部には、青く冷たい復讐の炎が、静かに、しかし確実に燃え上がっていた。
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