第2話 奪われた靴

 あの日から、私は常に救急セットを持ち歩くようになった。


 マテウスを見つけたのは、それから三日後のことだ。彼は海岸沿いの道路「マルジナル」のヤシの木陰で、車が通り過ぎるのを虚ろな目で眺めていた。


 私の姿を認めると、彼は身構えた。だが、私が両手を挙げて敵意がないことを示すと、警戒を解かずにその場に留まった。


「痛むか?」


 私は彼の隣にしゃがみ込み、ガーゼと消毒液を取り出した。

 マテウスはされるがままになっていた。消毒液が傷口に沁みたのか、一度だけ小さく顔をしかめたが、声は上げない。


「金は、もう渡さない」

 私は包帯を巻き終えてから言った。


「その代わり、これを使ってくれ」

 差し出したのは、スポーツブランドの運動靴だ。私の私物だが、サイズは少し大きいくらいで履けるはずだ。そして、ポルトガル語で書かれた子供向けの絵本とノート、鉛筆。

 マテウスは靴を見て、次に私の顔を見た。


「……なんで?」

 掠れた声だった。初めて聞く彼の声は、思いのほか幼かった。


「裸足じゃ、怪我をするからだ。それに、このノートで勉強をしよう。字が読めれば、騙されずに済む。いい仕事にも就けるかもしれない」


 私が提案したのは「教育」だった。


 一時的な施しは奪われる。だが、知識や経験は誰にも奪えない。それこそが、貧困の連鎖を断ち切る本当の解決策だと信じていた。


 それから週末ごとの奇妙な「授業」が始まった。

 マテウスは驚くほど物覚えが良かった。アルファベットの書き順を教え、簡単な計算を教える。

 彼は新しい靴を大事そうに履き、私の前で少しだけ誇らしげな顔を見せるようになった。


「タケル、これはなんて読むんだ?」


「それは『希望』だ、マテウス」


 海風が吹く木陰で、私たちは笑い合った。

 私は手応えを感じていた。これだ。私がやるべきだったのは、対等な人間としての交流と、未来への種まきだったのだ。外交官としての大きな仕事よりも、目の前の一人の少年の未来を変えること。その実感に、私は酔っていたのかもしれない。


 だが、その蜜月は長くは続かなかった。


 ある日、私が大使館の裏手でタバコを吸っていると、運転手のジョアオが近づいてきた。


「相馬さん。あの子との付き合い、まだ続けているんですか」

「ああ。彼は賢いよ。きっと学校に行けるようになる」


 ジョアオは悲しげに首を振った。


「ムッシュ。あなたは『スラムで新品の靴を履く』という意味が分かっていない」

「靴くらいで大げさだな。あれは中古だよ」

「ここでは、靴底のゴムさえ金になるんです」


 嫌な予感がした。

 次の週末、約束の場所にマテウスは現れなかった。

 さらにその翌週も。

 居ても立っても居られず、私はジョアオに頼み込んで、マテウスが住んでいるとされるエリアの入り口まで車を走らせた。

 迷路のように入り組んだバラック小屋。下水と生ゴミの腐臭が鼻をつく。

 その路地の奥から、ボロ布を纏った子供が出てきた。


 マテウスだった。


 私の視線は、真っ先に彼の足元に向かった。

 裸足だった。あの白いスニーカーはない。赤土に汚れた、傷だらけの足指がそこにあった。


「靴は、どうした?」

 私の問いに、マテウスは視線を逸らした。


「なくした」

「嘘をつくな! 大事にするって約束したじゃないか!」


 私は思わず大声を上げていた。裏切られたような気分だった。あれほど教えたのに。未来のために必要だと説いたのに。

 マテウスは私を睨み返した。その目から、あの時の親愛の情は消え失せていた。


「親父が持ってったよ」

 彼は淡々と言った。

「酒に変えたんだ。昨日の夜、全部飲んじまった」

「なんで止めなかった! あれはお前の……」

「止められるわけないだろ!」


 マテウスが叫んだ。その剣幕に、私はたじろいだ。


「あんたは『未来』とか『勉強』とか言うけどな、俺たちが欲しいのは『今』なんだよ! 本も靴も食えねえんだ! 腹が減って死にそうな時に、アルファベットが何の役に立つんだよ!」


 彼は足元の小石を蹴り飛ばした。


「あんたの暇つぶしに付き合うのは、もううんざりだ。俺は今日、パンを手に入れなきゃならない。あんたと遊んでる時間はないんだ」

 マテウスは背を向け、路地の闇へと消えていった。

 私は彼を追えなかった。

 私の手には、彼に渡そうと思って持ってきた新しいノートが握られたままだった。その白さが、今の私には酷く空々しく見えた。


 教育は重要だ。それは間違いない。

 だが、明日の命も知れない彼らにとって、「十年後の成功」を説くことがどれほど残酷なことか。私は、安全な場所から「正しさ」を押し付けていただけだったのだ。


 奪われた靴。それは、私が彼と見ていた夢の代償だった。

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