第3話「魔女」
世界の終わりを、ふたりで歩き始めてから、どれくらい時間がたったのか分からない。
さっきまでいた学校が、もう遠くに感じられた。
振り返れば、体育館の屋根がぎりぎり見えるかどうか。
叫び声も、泣き声も、今ここまでは届いてこない。
通学路は、知っているようで知らない景色に変わっていた。
壊れた自転車。
片方だけ落ちているスニーカー。
道端に散ったプリント。
ガードレールにぶつかったまま放置された軽自動車。
ほんの三週間前まで、ここを制服姿で歩いて、テストの点数で一喜一憂していたなんて、実感がわかない。
(みんな、どこへ行ったんだろ)
(“どこか”にはいるんだろうけど……人間としては、もう)
胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。
魔女は、私の袖をつまんだまま、半歩うしろを歩いていた。
歩幅をちょこちょこ合わせているのが分かる。
さっきの戦いのときみたいな鋭さは影をひそめていて、ただ不安そうに周りを見回していた。
「……あの、その……さっきは、本当にありがとう」
自分でも驚くくらい、声がかすれていた。
魔女は、こてん、と首を傾ける。
頬に指を当てて、何かを探すようにして──
「……どういたし……た」
最後のほうは、言葉にならずに空気へ溶けた。
でも、その途中までの音だけで十分だった。
“言おうとしてくれた”ことごと、ちゃんと届いた。
「今の、十分だよ」
そう言うと、魔女は少しだけ瞬きを早くした。
それが照れなのかどうかまでは、まだ分からない。
◇
曲がり角の先から、何かが擦れる音が聞こえた。
ずる……ずるっ……
喉の奥が、勝手に固くなる。
サムが食われていく光景が、頭の裏側で一斉に再生される。
「……っ」
立ち止まった私の前で、魔女がそっと袖から手を離した。
歩道に放置された自転車へ向かう。
フレームをつかみ、ぐい、と引いた。
金属が短く悲鳴をあげる。
ハンドルが、根元から丸ごと抜けた。
その瞬間、駐車していた車の影から、ウォーカーが二体よろめき出た。
皮膚が垂れ、服は泥と血で固まっている。
目は、どこを見ているのか分からない白さだった。
魔女は一歩も下がらない。
踏み込み。抜き取ったハンドルを、横薙ぎに振る。
風を裂く音。鈍い衝突音。
一体目の頭部が、ぶれもせず横に弾かれ、そのまま壁に叩きつけられた。
力なくずるりと崩れ落ちる。
もう一体が腕を伸ばす。
魔女は半歩沈み、すれ違いざまに身をひねる。
ハンドルの端を喉に引っかけ、そのまま壁へ押し付けた。
骨のきしむいやな音。
それでもなおもがく、その“残骸”。
「……しつこい」
短く吐き捨てて、魔女はハンドルを放り捨てた。
視線が、歩道の端へと滑る。
半分浮き上がった、古いマンホールの蓋。
そこまで歩き、両手で掴む。
ゆっくり持ち上げたそれは、錆びているはずなのに、驚くほど軽そうに見えた。
(そんな簡単に持ち上がるものじゃ……)
軽く身体を回転させる。
蓋を“投げる”というより、“放つ”。
鉄の円盤が、唸りをあげて飛んだ。
路地の奥から現れたウォーカーの小さな群れ。
先頭の顔面で、円盤が鈍く沈む。
そのまま後ろの二体を巻き込むように押し倒し、三体、四体と連鎖して崩れていく。
何かが砕ける音だけが、風に混じって短く残った。
蓋は崩れた塊の上をすべり、路面の上でコトリと静止する。
最初からそこにあったかのように、ただ平らにおさまっていた。
「……」
魔女は壊したものを一度だけ見渡し、それから振り返る。
息ひとつ乱れていない。
ただ淡々と、次を待つみたいな目。
視線が合った瞬間、胸の奥がひやりとする。
恐ろしい、と思う部分と、見惚れるほど綺麗だと思う部分が、同時に存在していた。
「行こう、アリア」
淡々とそう言って、また当然のように袖をつまむ。
「……うん」
足は震えていた。
でも、さっき学校を出たときより、ほんの少しだけ前に出しやすくなっていた。
世界の終わりを歩くために、私はもう、ひとりじゃなかった。
◇
家に着いたころには、膝がおもしろいくらい笑っていた。
「ここが……私の家」
口に出してみると、その言葉が少しだけ嘘っぽく聞こえた。
玄関ドアは、こじ開けられたみたいに歪んでいる。
リビングのカーテンは破れ、床には紙と本と衣類が散らばっていた。
でも、血の跡は……ない。
「父さん……?」
呼んだ声は、壁と家具のあいだでほどけて消えた。
魔女は無言で家の中を見てまわる。
足音をほとんど立てず、ときどき空気の揺れを探るように首を少し傾ける。
敵がいないか、確認しているのだと分かった。
怖いはずなのに、その背中があることに、同時に救われてもいる。
父の書斎に入ったとき、胸がぎゅっと締め付けられた。
机の上は荒れていた。
書類が床にばらまかれ、本棚から本が抜き取られたままになっている。
けれど、やはり血はどこにもない。
私は震える手で、机の引き出しを開けた。
黒い、小さな手帳がひとつ。
指先が勝手にそれをつかむ。
「……ザイオン」
開いたページに、その文字があった。
見慣れない筆跡で書かれた地名。座標。断片的な線。
どれも父の字じゃない。
背中に冷たいものが走る。
魔女がそっと近づき、覗き込む──
その瞬間、彼女の顔が強張った。
自分でも気づいていないみたいに、
右の二の腕をぎゅ、と掴む。
まるでそこに、治りきらない古傷でもあるかのように。
「……ここ」
声は震えていた。
言葉を押し出すというより、“漏れた”に近い。
「わたし……知ってる、気がする。
……いやな、匂い」
最後の一語だけ、かすかに吐き捨てるようだった。
魔女の肩が小さく震え、指先に力が入る。
(“嫌な匂い”……?)
ただの場所の名前に対する反応じゃなかった。
本能的な拒絶。
記憶と呼ぶには曖昧すぎて、でも感情が先に反応してしまったような。
私はそっと息をのむ。
「……行かなきゃ、いけない。
そんな気がする」
魔女は、自分で掴んでいた二の腕から、ようやく手を離した。
その動作が妙に痛々しくて、私は言葉を失った。
代わりの言葉をどうにか絞りだす。
「学校に、無線機があったの」
私は、手帳から視線を離さないまま言った。
「先生たち、三週間ずっと呼びかけてた。
朝も、夜も。
でも、応答は一度もなかった。雑音だけ」
あの壊れかけたスピーカーの音を思い出す。
期待して、裏切られて、それでも誰かがマイクにしがみついていた姿。
「だから……きっと、もう“上の人たち”は、こっちを見てない。
父さんがどこかに連れていかれたとしても、自分から動かなきゃ、たぶん……」
言葉が途切れる。
魔女は、ただ静かに聞いていた。
何も言わないのに、話を途中で遮る気配も、否定する気配もない。
「……サムが死んだとき、私もここで終わるんだって思った」
自分でも驚くくらい、さらりと口からこぼれた。
「でも、あなたが来て、生き残ってしまった。
だったら……たぶん、まだ何か、やることがあるんだと思う」
それが“父を探しに行くこと”だと、今ようやく形になりはじめている。
「アリア」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
この子がどうやって私の名前を知ったのか、その理由はもう分かっている。
サムの叫び声。
あの階段での最後の言葉。
だからこそ、「アリア」という響きが、今は少しだけ痛い。
「……なに?」
「アリアは、アリア」
確認するみたいに、もう一度だけ名を呼ぶ。
それから、短く息を吸い込んだ。
「わたしは……魔女」
さっき口ごもっていた言葉を、今度ははっきりと言った。
自分の名前じゃない“呼ばれ方”を、そのまま名乗るみたいに。
「……魔女、か」
思わず、そのまま口にしてしまう。
この子をそう呼んでいいのか、まだ分からない。
でも、他に呼び方が見つからない。
胸のどこかで、ほんの少しだけ何かがひっかかった。
未来のどこかで、この呼び名に必ず向き合わされるような、いやな予感。
それでも今は、その違和感ごと“保留”にしておくしかなかった。
「アリア。行く。いっしょに」
当たり前のことを確認するみたいに、魔女は言った。
胸の中の何かが、そこでぽき、と折れる音がした気がした。
「……うん。行こう。父さんを、探しに」
自分で言った言葉が、自分の背中を押す。
魔女は、ほんの少しだけ表情を緩めたように見えた。
泣きたいのは、たぶん私のほうなのに。
こうして、
私と、自らを“魔女”と名乗った少女の旅が始まった。
──episode.1 完──
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