第三話「初めての温もり」
翌朝。俺は、小鳥のさえずりで目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日が、部屋を明るく照らしている。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。見慣れない豪奢な天井に、体を包む滑らかなシーツの感触。
『そっか。俺は、ゼイド様の屋敷にいるんだ』
ゆっくりと体を起こす。昨日の出来事が夢ではなかったことを実感し、心臓が少しだけ速く脈打った。
と、部屋のドアが控えめにノックされた。
「リアム様、お目覚めでしょうか。朝食の準備ができました」
ルカさんの声だ。
俺は慌ててベッドから降りて、「は、はい!」と返事をした。
しばらくすると、ルカさんがワゴンを押して部屋に入ってきた。
ワゴンの上には、信じられないくらい美味しそうな朝食が並んでいる。
こんがりと焼かれたパン、湯気の立つスープ、彩りの良い野菜のサラダ、そして見るからに新鮮な果物。
「さあ、どうぞ。ゼイド様は既にお仕事へ向かわれましたので、ごゆっくり」
「あ、ありがとうございます……」
俺は恐る恐る椅子に座り、ナイフとフォークを手に取った。こんなものを使うのは初めてで、ぎこちない手つきになってしまう。
まずは、スープを一口。
温かくて優しい味が、空っぽの胃にじんわりと染み渡っていく。
美味しい。
本当に、美味しい。
村では、いつも家族の残した冷たいおかゆか、硬い黒パンの切れ端が俺の食事だった。
こんなに温かくて、心のこもった料理を食べたのは、生まれて初めてだった。
気づけば、俺の目からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
「っ……うぅ……」
止めようと思っても、涙は後から後から溢れてくる。
美味しい。温かい。それが、こんなにも嬉しくて、幸せなことだなんて知らなかった。
「リアム様……?」
驚いたようなルカさんの声に、俺ははっと我に返った。
みっともないところを見せてしまった。きっと、呆れられているに違いない。
「ご、ごめんなさい!汚いものを、お見せして……」
慌てて顔を伏せると、ルカさんは困ったように笑って、そっと俺の肩に手を置いた。
「いえ……お辛かったのですね」
その声は、驚くほど優しかった。
村では誰もかけてくれなかった、労りの言葉。
その一言で、俺の涙腺は完全に壊れてしまった。
「うっ……ひっく……おいし、くて……あたたか、くて……」
しゃくり上げながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
ルカさんは何も言わず、俺が泣き止むまで、静かに背中をさすってくれていた。
その日、俺はルカさんに屋敷の中を案内してもらった。
たくさんの部屋、広い書庫、きらびやかな応接間。どこもかしこも、俺の想像を絶するほど豪華絢爛だった。
案内されながら、俺はルカさんにいくつか質問をしてみた。
「あの……ゼイド様は、いつもあんな感じ、なんですか?」
「あんな感じ、と申しますと?」
「いえ、その……冷たい、というか……」
俺が言葉を選ぶと、ルカさんは「ああ」と苦笑した。
「そうですね。ゼイド様は、昔からあまり感情を表に出される方ではありませんから。特に、他人には……。でも、根はとてもお優しい方なんですよ」
『優しい……?』
昨日のゼイド様の態度を思い返してみる。
冷たくて、威圧的で、怖い人。優しい、なんていう言葉からは、かけ離れているように思えた。
「リアム様をここに連れてこられたのも、きっと何かお考えがあってのことでしょう」
「俺を……ですか?」
「ええ。あの方が、ご自分の番として誰かを屋敷に迎え入れるなんて、初めてのことですから」
たとえ偽りだとしても、番は番だ。
ルカさんの言葉に、また胸がちくりと痛んだ。
午後は、用意してもらった服に着替えて、庭を散歩した。
今まで着ていたぼろ布とは違う、柔らかくて清潔なシャツとズボン。足元は、ちゃんとした革の靴。
鏡に映った自分の姿は、まるで別人のようだった。
庭には、色とりどりの花が咲き乱れていた。甘い花の香りが、風に乗ってふわりと鼻をかすめる。
俺はベンチに腰掛けて、ぼんやりと空を眺めた。
青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。
こんなに穏やかな気持ちで空を見上げたのは、いつぶりだろう。
『本当に、夢みたいだ』
食事も、寝床も、服も、すべてが満たされている。
誰にも蔑まれず、殴られもせず、静かに過ごせる時間。
それが、こんなにも幸せなことだったなんて。
でも、この幸せは、偽りの上に成り立っている。
俺はゼイド様の「偽りの番」。任務が終われば、きっとここを出ていかなければならない。
その時、俺はまた、あの灰色の世界に戻るのだろうか。
そう考えた途端、ずきりと胸が痛んだ。
いやだ。戻りたくない。
一度知ってしまった温もりを、手放したくない。
『俺に、何かできることはないのかな……』
ゼイド様の役に立てること。ここにいてもいいと、思ってもらえるようなこと。
俺は出来損ないのΩだ。特別な力なんて何もない。
でも、何か、ほんの少しでもいい。この温かい場所を失わないために、俺にできることを探さなければ。
そんなことを考えていると、不意に、背後から低い声がした。
「……何をしている」
びくりとして振り返ると、そこにゼイド様が立っていた。
いつの間に仕事から戻っていたのだろう。黒い騎士服姿の彼は、夕日を背にして、まるで影のようにそこに佇んでいた。
「ゼッ、ゼイド様!お、お帰りなさい!」
慌てて立ち上がってお辞儀をする。
ゼイド様は相変わらず無表情のまま、俺の方へゆっくりと歩いてきた。
彼の紫水晶の瞳が、じっと俺を見つめている。心臓が、またうるさく鳴り始めた。
「その服……」
彼が、ぽつりと呟いた。
「ルカが選んだのか。……悪くない」
「え……」
思いがけない言葉に、俺は目をぱちくりとさせた。
褒められた?俺が?この人に?
「あ、ありがとうございます……」
かろうじてそれだけ言うと、ゼイド様はふいと視線を逸らし、庭の花に目を向けた。
「夕食は、共に摂る。準備しておけ」
「え、あ、はい!」
それだけ言うと、彼はまた俺に背を向けて、屋敷の中へと入っていった。
一人残された俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
『悪くない、か……』
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がぽかぽかと温かくなった。
頬が熱い。きっと、夕日のせいだけじゃない。
初めてだった。
誰かに、自分のことを肯定してもらえたのは。
たとえ、それが服のことだったとしても。
ゼイド様は、冷たい人だ。怖い人だ。
でも、ルカさんの言った通り、もしかしたら、本当に優しい人なのかもしれない。
凍てついた氷の下に、隠された温もりがあるのかもしれない。
もしそうなら、俺は。
その温もりに、もう少しだけ、触れてみたい。
夕暮れの空を見上げながら、俺はそっと、そう願った。
偽りの関係から始まった、俺とゼイド様の生活。
この温かな屋敷で、何かが少しずつ、変わり始めている。そんな予感がした。
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