LUNA 銀の食卓

宮前ユキ

第1話 冬のはじまり

相変わらずの曇り空はいつもの私の心を映しているように思える。晴れ空のほうが少なく思うのは先入観か、意識するときにはいつも曇りなのだろうか。雲の上は晴れ渡っているというのに、私にはそこを超えることができない。


授業が終わり帰路につくころ、クラスメイトは部活や仲の良いメンバー同士で放課後に何をして遊ぶかを相談している。

ツキが教室を出る間際にアカネが声をかけてきた。

「ツキはこの後ヒマ?」

「ごめん、バイト。」

「今日も?これから?たまにはちょっとカラオケでも行かない?」

「ごめん、これから直ぐなんだ。」

「そっか、ごめんね。また今度行こうよ。」

「うん、ありがとう。」

「アカネ、ツキは忙しいから無理言っちゃダメだよ。」

隣からアユミが会話に割り込んできた。フォローしているというより「やっぱりね」と無言でも聞き取れる表情をしている。

「そうだね。でも、たまには遊ぼうよ。」

「うん。せっかく誘ってくれたのにごめん、またね。」

ツキと入れ替えとなる形で、今度は委員長がアカネとアユミの間に入ってきた。

「あれ?黒川さんは?今さっきまでいたみたいだけど・・・。」

アカネが状況を察して答える。

「ツキはもう帰ったよ。何か代わりに伝える?」

委員長は少し困ったように眉尻を下げたが、直ぐに元の調子に戻った。

「ううん、いいの。最近先生に彼女の様子を聞かれていたからどうかなって。ある意味いつもの調子なんだね。」

アユミが苦笑いをする。

「そうそう、あの子、悪い子じゃないんだけど人付き合い悪いよね。まあ、家庭の事情ってやつ?だからそんなに責められないけど、歩み寄るほどじゃないってね。」

「うん、本当はいい子なんだよ。そのうちわかるよ。」

アカネが少し困ったように反論する。

「そう?そのうちより大事なのは今じゃない?カラオケ混んじゃうよ?」

「ああ、そうだ。ホント田舎ってみんな行くところ同じだからね。」

足早で教室を出るアカネとアユミは少しの時間も勿体ないといわんばかりだった。


アカネは小学校からの友人だった。母親同士が若いころからの知り合いで小学校に入学したときにはクラスも異なっていたが、親同士が会うときにはどちらかの家へ一緒に行くこともあり面識はあった。高学年に入ると、同じクラスになってから親密度はさらに増し、中学校に入ってからは毎週のように遊んでいた。

しかし、ある時点を境に遊ぶ機会も減り、高校では学校以外で会うこともなくなってしまった。

普段は自分から前に出るタイプではないツキとは対照的に、アカネは元来の人懐っこい性格から男女ともに友人も多く、高校に入ると交友関係も広がり、放課後は必ず誰かと一緒にいることが多くなった。遊びの定番となったカラオケでも、同級生の歌唱力を平均とすると一つ抜ける程度に上手いが、かえってそれが場を盛り上げ、常に流行りの歌の仕入れから重宝され、トレンドやファッションも常にチェックを入れているようで会話にも困らない。最近ではSNSからも交流範囲が広がり、小柄でショートカットと大きな瞳の童顔という愛嬌も相まって、小動物のような雰囲気は初対面であっても警戒されることもなくすぐに打ち解けた。

やがてツキはアカネに友人が増えるたびに距離を感じることが多くなった。とはいえ、今までどおり接しているつもりで、態度には出ていないつもりだった。バイトで誘いを断ると次は声をかけてくれるのだろうかと不安もある反面、仕方ないとも思っていた。では、今度はこちらから誘えばと思うこともあるのだが、知らない友人がアカネの隣にいると今ではないと声をかけるのを止めるごとに、不安とともにこんなものかと割り切った気持ちを実感していた。


ツキは決して人を避けているのではなく、今回のようにバイトの理由に限らず気の進まないものについての誘いを断ることで、自分がクラス内でどう思われているか気にはなっていた。しかし、諦めに似た、人との距離を置くことになる状況を作り出していることも認識しながら、人との距離を詰めようと動くことはなかった。それは面倒と思ったからではなく、クラスでの立ち位置や役割のようなものを考えた結果、これ以上は進む必要はないと線引きしている。それでも、アユミのときにはキツイと感じる反論もフォローも良くも悪くも受け止めることができるだけの心のバッファは持ち合わせていた。毎日バイトをせざるを得ない状況も周りは把握しているために、深くは割り込んではこないのもツキにとって救いだった。

ツキのうつむき加減で愁いを帯びたような雰囲気に併せて、平均より少しだけ高い身長や整った顔立ちは複数の生徒の中にいても、見る相手によっては目を惹きつける。長い髪は襟足から二つに分けて三つ編みにしていることで、全身の黒の部分をスマートに纏めているのもバランスの良さを感じさせ、暗い印象になることにブレーキをかけている。


バイト先のケーキ屋「ニルヴァーナ」は駅前の喧騒から離れ、住宅街に入る境にひっそりと佇んでいる。大通りから一本裏に入った場所に店を構えているため、初見で見つけることも難しく、アナログもデジタルでも広告を出していないうえにSNSも人づてでしか見ることができないので、近隣の住人や口コミでの客が中心だった。オーナーも知っている人にだけ来てほしい、そして気に入った人だけリピーターになれば良いとの拘りから常連中心で成り立っていた。

十畳程度の店内は厨房とショーケースとレジだけで持ち帰り専門、狭い店内に人を詰め込まないよう配慮した四人掛けのベンチが入口脇にあるのみだった。そのベンチも常連中心では順番待ちでは埋まることもなく、いつしかテイクアウトではなく店頭で食べるためと用途も変わっていった。

従業員もオーナーとツキの二人のみ。オーナーがケーキを作り、ツキの役割は接客メインだが、店内業務全般に簡単な経理も兼任している。開店前に作ったケーキが完売すれば閉店となる。ツキがいないときは店番もオーナーが兼務でもやっていける範囲の仕事量だった。  

閉店後にオーナーはそのまま店に残ることもあれば、途中でツキと交代して帰ってこないことも多々あった。それでもツキは気にはなっても聞くことはしなかった。興味がないといえばそのとおりでもあったが、それが普通と思えば気にもならない。バイト開始当初は家で新作考案とか、単にやることがないと聞いていたが、不定期で並ぶ新作からどちらもだと思い納得している。


今日も店裏の物置兼事務所で着替えてショーケースの後ろに立つ。いつもと違うのはオーナーが私用ということで早く帰るところだった。

「じゃあツキちゃんお願いね。」

「承知しました。いってらっしゃい。」

「お土産は余ったケーキでね。」

「残った分、全部持って帰っちゃいますよ?」

「太っても知らないよ?て、ツキちゃんは太りそうにもないね。羨ましい。まあ、そんなことはないはずよ、多分。」

オーナーはまるで完売することを見越しているかのようだった。

常連の近所の主婦がショートケーキふたつとチョコレートケーキを買っていく。今日は友人が家に来るらしい。友人はチョコレートが好きだとか、最近はまっているアイドルについてライブへ行くとか世間話に付き合う。

四人組の学生グループ。

カップル。

主婦が何名か来店。

オーナー目当ての客も多く、軽快なトークと時には真剣に相談を聞いてくれることで何度も足を運ぶ。また、美形といっても差し支えない見た目と、男性ながら女性口調が柔らかさを醸し出し、女性はもとより、男性にとっても初対面のギャップを埋めてもあまるくらい話しやすかった。

中でも主婦はリピーターだけあって顔見知りとなり、よく世間話をするが、大体本人の話が中心なので聞き手にまわることがほとんどだった。顔を合わせる回数も増えれば話す内容も増えてくる。そうなればツキの身の上も知っているが、基本的に自分トーク中心でツキのことが話題にあがることも少ない。寧ろ、そのほうが気を遣わずに済むので気楽でもあった。

やがて、日が落ち、閉店時間となった。毎度感心するのは閉店のタイミングに商品がほぼ完売する。時々、来客と商品数のバランスを見越して作っているのかカウントしみようと思うが、いつの間にか忘れて閉店となってしまう。シャッターを閉め、レジを締めて、洗い物を済ませ、勤怠報告をPCに入力し着替える。大きな店であれば相当な作業量だが、幸い店内は片手で行き届く範囲のため家事レベルで済んでしまう。それでも、商品が完売する分量に比例する接客を終えるころは、それなりの疲労感を覚える。

着替えを済ませて帰路についたとき、鼻先に感じたほんのわずかな冷たさ、白い風花が舞い始めた。海が近いせいか気持ち塩辛い。まるで塩の結晶が舞っているように目に映る。空一面を覆う夜空の黒い雲が雪を予感させ、足は徐々に速足となる。

駅前を通り過ぎ、再び住宅街に入り、いつもの小さな歪な三角形の公園を横切ったそのとき、鉄の軋む音で振り返るとブランコが一人揺れている。建物を建てるには適さない三角の形状の狭すぎる土地は自然と人手も入らず空地のままになるものだが、それも都合が悪いのか、ブランコと腰掛けるには天面が斜めに傾いた不安定な、椅子と形容するか再考させられる小さな円柱が四脚建つ程度の「公園」としての機能を与えられていた。しかし、その人気のなさの原因でもある一本の薄暗い電灯は、行き場のない若者でも点滅するたびに何とも言えない気味悪さから別の公園を探させるのに役立っている。

ツキは不意に人の気配を感じ、不審に思い公園内に目を凝らすと、小学生の高学年か中学生らしき男児が俯きながらブランコを漕いでいるのを見つけた。それはまるで幽霊のように思われた。幽霊といってもツキは霊感があるわけでもないので実際に見たことなどはなく、今までの人生において蓄積されたイメージ、多くは映画やテレビのビジュアルの影響によるところが大きかった。姿が透けているなどはないが、夜の暗さと最低限の防犯として遊具を照らすわずかな電灯の灯りは少年の顔の色を奪い、生気をも奪ってしまった。目元を覆う髪は表情を隠し、身体には大きめのコートも造り物を思わせるが、日常とは思えない雰囲気からの警戒か、その姿を記憶に刷り込むには十分だった。

少年がブランコを漕いでいたと認識した瞬間、そこには誰も座ってはいなかった。風で揺れていることもなく無言で静止している。何度も周りを見渡してみても人と呼べるものは視界には存在していない。小さな公園で一瞥すればほぼ全体は把握できる。今まで通ってきた道、これから帰る道にも誰もいないのも直ぐに確認することができた。

改めて公園内、特にブランコを注視する。そのとき、視界を塞ぐような冷たい風が強く吹き、ツキは思わず公園より視界を逸らした。少しの間の後、一切の風を感じなくなり、ゆっくりと目を開くと、周りが明るくなっていることに気づき思わず空を見上げる。雪になるかと思われた空は雲一つ見当たらない。昼間であれば快晴といえるほど、星を見渡せるような広がりを見せている。満月が照らす月明かりが漆黒を濃紺に変えている。その月はいつもより自分に近く大きく、そして明るく見える。まるで、先ほどの風が一瞬で雲をすべて吹き払ってしまったようだった。一体どれくらい目を閉じていたのだろうかと疑ってしまうくらいに景色が変わっていた。それでも確かに一瞬の間であったのはツキ自身が実感している。

ふと我に返り、改めて帰路につく。こんな時間に子どもが一人でいるはずはない、そう思う反面、もし何かの事情があるのではと悪い考えも頭に浮かんだ。しかし、どう考えても公園を中心に、この界隈に外出しているのは自分以外にいないという認識は間違っていないと後押しをした。今日は疲れている、早く帰って寝よう、明日は金曜、乗り越えたら週末は学校も休みでバイトだけ、後はゆっくり休める、そんなことを考えながら帰る足はいつもより遅くなっていた。

実際はもう一人そこにいたのだが、今のツキには気配すら感じることはなかった。


金曜の朝はいつもより早く目が覚めた。ツキの寝起きは良いほうで、目覚ましより少し早く起きることが多い。

いつもと変わらない朝だったが、昨晩のことが頭から離れなかった。何か事件など起きてはいないか気になり、テレビをつけてニュースにチャンネルを合わせる。芸能人の交際発覚とか、某A国とB国のいざこざ、相変わらず曇りの天気予報が流れる。チャンネルを変えても子どもが行方不明のニュースは見当たらない。

スマホでもチェックしてみたが近隣で特にヒットはしない。代わりに得た情報は、日本国内だけでも行方不明者は年間約八万人、一日二百人は何らかの原因で我々の認識外に消えている。そう考えれば田舎の事件など、その他大勢に埋もれて世間一般には存在すらしないのと同じではないかと思えた。そうだ、自分も同じだった、そう再認識した。

一人暮らしになるきっかけ、両親の死も世間では病気で片づけられていた。中学三年も折り返しにさしかかるある朝、いつものように目が覚めると家の中が不自然な静寂に包まれていた。生活音が何も聞こえてこない。まるで知らない無人の一軒家に迷い込んだような朝だった。いつものように二階の自分の部屋から下りるとキッチンは無人だった。辺りを見回すと客間の扉がわずかに開いている。何かあったのだろうか、そっと扉を開くと、二人とも客間の床で倒れていた。第三者と争った形跡も見当たらず、目立った不自然な箇所も見当たらず、前日いつもと変わった様子もなかったことも覚えている。両親がすでに冷たくなっていたことは何をしても間に合わないことをツキに伝えた。病院で自殺も他殺の痕跡も見当たらないことから心臓麻痺として処理されたのは、ある意味思いつく限りの想像のとおりであった。今でもツキは納得していないが、何もできないのは理解しており、それ以上考えることも追及することもしなかった。そこは冷めていると感じながらも、いつも心の何処かにひっかかっている。


ツキの平日の朝食はパンか冷凍ごはんの解凍と前夜の残り物、フライパンかレンジで簡単に調理できるもので済ます。毎日駅前の日付変更近くまで開いているスーパーで主に割引品やタイムセールの残りを探すが、タイミングによってはまったく手に入らないことも多々あった。特売品はバイト前に購入し店の冷蔵庫で保管させてもらうので完全に食材が切れることはなかった。時々常連客やオーナーが心配して差し入れを持ってきてくれることは嬉しかった。食事の栄養バランスは最低限度揃えられているが、どうしても朝食だけは学校の登校時間のプレッシャーから、短時間で済ませられるように簡素になる。まるでツキ一人で対処しなくてはならなくなることを見越していたかのように母親は生前、物心つくころから料理や家事の手伝いをさせていたのが今になって役に立っている。

両親は芸術家夫婦ということもあり自宅が仕事場でもあった。二階の一室をアトリエとして使っており、父親はそこに籠ったらツキが寝付くまで出てこないことも多かった。自営業のようなもので土日祝日も関係なく、ツキが小学校から帰ってくると寝ていて、夕方起きては何処かへ出かけることも多々あるために後ろ姿の思い出が多い。今思い返しても父親の顔をはっきり思い出せない。一緒に外出することもほとんどなかったうえに、食事やテレビを一緒に観た記憶すら数えるほどに感じる。元々無口ではあったがプライベートを聞いてくることも少なく、ときには二人きりで食事となると空気が重く、時間が止まっているかと錯覚することもあった。そんな間を持たそうと学校や友人、趣味の話を投げかけても一言の返事や相槌程度で終わってしまうのは自分に興味がないからだと思い込ませた。キャンバスに父親の顔を描けと言われたら、輪郭だけで目、鼻、口は一体どう描いたら良いのか、表情は笑顔を描けるかさえわからない。

母親は在宅仕事の合間に家事をこなすので、小学校帰りのツキに手伝わせることもあった。友人と遊びたい盛りということもあり、学校帰りから遊びに直行ということも多かったが強制はしなかった。しかし、高学年になるころは週に何度かは登校前に手伝いの約束を取りつけた。

そのころ両親は海外へ行くことが多くなり何日か家を空けることも増えた。その分、今まで強制しなかった家事の手伝いの約束を了承すると同時に、両親が不在時は友人を自宅へ招いて遅くまで遊び、友人の両親に怒られることもあったが楽しみは増えた。油絵具を拝借し、アカネと当時流行っていたアニメのキャラクターを描いたりしてよく遊んでいた。それでも勝手に道具を使ったことについて叱ることも追及もなかった。母親が時折絵具の使い過ぎを注意したが父親は何も言わなかった。

家はツキが小学校六年生の当時改築された。全体に使われている少し黒ずんで年季の入ったような色のレンガ壁や出窓は、中世というよりは大正から明治に輸入された文学系の人間の住むような風貌、二階建てだが鋭角の三角の屋根は近隣の家より頭一つ抜きん出ていた。外壁に使われるレンガは直線の同一サイズのものではなく、フリーハンドで描かれたかのように不揃いに組まれているのも個性を感じさせる。そのデザイン的に壁に蔦が生い茂ってもおかしくはない雰囲気が年季の入った建物のようにも見える。玄関の右横にはその雰囲気に不似合いなシャッターが大きく幅を利かせている。塀は玄関前だけ建て替え前のものを門とともに一部だけそのまま残し、出来上がった玄関と塀の間の三歩の空間が奥行を感じさせることで家を実際より少し大きく見せている。門は格子状で縁を鉄製の植物で装飾され家の雰囲気に似合っている。敢えて一部分だけ残しているのが不自然というよりオブジェのようで違和感がない。両親のどちらかのお気に入りのようだった。空地と隣接する北側と道路に面した西側はセットバックで道路が敷地へ迫ってきたのに加え、塀は出窓の邪魔になるため取り壊しを余儀なくされた。

シャッター内にあるガレージはハイエースクラスが一台入っても余裕がある広さでアトリエとして使っていた。以前使っていた二階の一室は狭さと匂いが家内全体に蔓延するので、構造上隔離されているガレージは丁度良かった。

元々ツキの家では車は持っておらず、両親は免許を持っていたがほぼペーパードライバーだった。訪問する地域や海外で使うことは多少あるとは聞いていたが、元々外出することも少なく、仕事以外あまり興味のない夫婦でもあったようで、特段車を必要としなかった。車社会の地方都市とはいえ、狭い行動範囲と駅までも徒歩圏内ということも車の必要性を感じなかった。

広いガレージではそれほど窓を空けはしなくなったが、冬場はストーブで暖を取っても底冷えが酷くなったように感じた。それでも友人と遊んでいる間は寒さを忘れられた。


中学校に入ると両親は家を空けることが多くなった。海外だけでなく国内での仕事も多忙を極めたが、不思議とメディアを騒がした記憶はない。周囲の人間や噂で間接的だが、仕事を選んでいるのか一部の著名人の間での仕事が多いと聞いていた。芸術家は収入も不安定で、食っていけるのは一握りと聞いていたが、家を建て替えるなど相当なものだと大人たちやラスメイトの噂を耳にするたびに、才能と良い顧客を確立したのだろうと感心されていたのを覚えている。金が集まると人も自然と集まるのは道理でもあり、親戚が何人も訪れたのは当時がピークだった。皆ツキにも優しく接するが、その目の奥には笑顔のないもう一つの顔が隠れ見えた。上辺、そんな関係を多感な時期ほど強く感じていた。本当は自分には興味すらないのはわかっていたが、それでも親の手前愛想笑いだけは忘れなかった。

両親の死後、数ある親戚同士での話し合いから母親の兄夫婦が後見人に決まったのは間もなくのことだった。相当な財産を受け取り、ツキの家に同居となったが、家にいない時間が徐々に増え、中学卒業近くには一人暮らしとなっていた。ツキにしてみれば会う機会の少なかった夫婦は初対面の他人に等しく、一人でいるほうが気楽だった。

両親が亡くなったこと自体、一変した生活の忙しさで実感が湧かなかった。親戚の存在がなくなってもツキ名義の銀行口座に定期的に生活費が振り込まれているが、一体元本はどれくらいあって、いつまで送られるか、当時から今でさえ何も知らされずにいる。高校の学費は別途支払われていようだが、果たして卒業まで続くのかも不透明で、家や土地の権利もどうなっているかも高校生のツキにはその意味すら知る由もなかった。流されるように親戚に連れられて行った役所や何度も弁護士が持ってくる書類にサインや捺印をするときも内容などまったく目を通す気も起きなかった。

将来に決まった目標もなく、バイトに明け暮れる毎日は友人関係を深めることもなく、例え途中で学費が尽きて行く当てがなくなっても、それは力が及ばなく、なるべくしてなったのだからと諦められると今は感じている。もちろん遺産について金額や残高を問い合わせる権利があるのだが、敢えてそれをしないことは両親の死を受け入れていないことへの意思表示かもしれない。


「高校に入ったら、うちで働いてみない?」

一人の男性が声をかけてきた。

通夜で集まった、両親と交流があった人たちの中から突然ツキに歩み寄ってきたのは、金の短髪が印象的な一人の中年男性だった。細見でありながらしっかりとした筋肉がそのタイトな服から見て取れる。また、若いころは美形であったと想像させる整った中性的な顔立ちをしている。言葉遣いが女性的であるところからジェンダーと思われたが、本人は特にカテゴライズされるものではないと、誰かが聞くより先に断言していたのをツキは妙に覚えていた。寧ろ、その柔らかさは男性の本心・本音を現しているかかのようで、表情と目の奥のもう一つの顔、二面性の顔を散々見させられてきたツキには安心させる、表裏のなさを感じさせた。

断る理由がなかった。ただ一言の勧誘、ツキの金銭的状況を見越してか、別の意図か、今となってはわからないが、信用するに足ることは昔も今も感じている。


気がつくと家を出る時間だった。いつの間にかうたた寝をしていたことに気づいたツキは急いで家を飛び出した。短時間の睡眠で両親の通夜の夢を見ていた。

一瞬の睡眠時間に見るもの、あれは夢なのか?

両親の通夜という場面の他に何か出来事があったのか思い出そうとするが、夢の記憶が過去となった今では断片的に見た夢の内容自体思い出すのは困難になっている。あたかも、バイト先のオーナーに起こされたようなインパクトはおかしく、少し口元が緩んだのは本人も自覚していなかった。

相変わらず泣きそうな空模様だった。昨晩雪になるかと思われた空がまた戻ってきていた。テレビも天気予報を観るのを忘れ、急いで家を出たために折り畳みの傘を忘れたが、街行く人たちは誰一人として傘を持っていないのは、仲間意識と今日は雨や雪は降らないことの証拠のようで安心させる。


教室に着くなりアカネが声をかけてきた。

「聞くのも野暮だけど、今日もバイトだよね?」

「そうだけど?」

「夕方お店、ちょっと寄ってもいいかな?」

「え?珍しい。もしかしてお店来るのって初めてじゃない?」

「あ、そうかも!ホントだ。」

「これはこれは。いらっしゃいませ。何にいたしましょうか?お好みございましたら見繕いますよ?」

「待って待って、お店で、ね?」

「?珍しくノリ悪いな?」

 ツキは初めての珍事に少しテンションが上がっている。

「まあまあ、楽しみは取っておくってね。」

「うん、私が言うのも何だけど、うちのケーキすごく美味しいよ。いつも残ったら持って帰っていいって言われているけど、シュークリームくらいだけだよ。」

「シュークリームは基本じゃん。お客さんわかってないなあ。」

「そうだよね。でも、ホントに時々しか残らないんだよね。不思議。」

「誰かさんがこっそり食べてるんじゃない?」

「誰だろう?」

「じゃあ誰かさんにつまみ食いされる前に行こうかな。」

「それって私?」

「他にいる?」

「オーナーがこっそり食べているかと思ったよ。」

オーナーはさまざまな噂が先行し、人づてではあるが店のSNSにも出ているので一部の共有者の仲間うちでは有名であった。

アカネは声を殺して笑っていた。仮にも教室で馬鹿笑いしないような最大限の配慮であった。ツキの天然なところや、見た目に反して話すとノリの良さがアカネは好きだった。また、そこを知らない友人たちが多いのに歯がゆさを感じていた。いつかツキも一緒に友人たちと遊びたいと思っていたが、ツキの世界に一歩入り込めない何かを感じていた。踏み込んだら何かが変わってしまうような、現状の心地よさを失う怖さがあった。高校に入る前はその一線を感じることもなく一緒に遊んでいたが、それを感じたのはいつからだろうか。ツキの両親の死か、交友範囲が増えた分だけ線を引いているのだろうか?時々、目の前からツキがいなくなる不安や寂しさを想像する。そう想うのは今まで生きていた中でもっとも付き合いが長く、それだけツキという人間の人生を数多く見てきたからだろうか。

「何か感じ悪。」

本心ではないのは口角の上がり具合と声のトーンが物語っている。

「ごめんごめん、ツキの細さじゃつまみ食いしてないってわかるよ。」

「じゃあ許す。ウソでもいいよ。でも、細いって、最近ちょっと体重増えて気にしていたけどね。運動不足かなって。」

「まさか。そんな風にも見えないって。いつも思うけど、大体痩せている子がダイエットって言うの変じゃない?」

「それは本人にしか感じないんだよ。」

「何か羨ましい。」

「じゃあ尚更ケーキは控えめにだね。」

「あ、それは大丈夫。」

「アカネも食べて太らないタイプ?」

「まあ、そんな感じかな。て、(も)って、痩せてるって自覚有り?」

「そう思っていたら密かに体育がんばったりしないよ。」

「そりゃ初耳。じゃあ今日の体育、ツキがどれだけ頑張っているか見せてもらおうかな。」

「え?無理無理。私元々運動できるタイプじゃないし。」


「今朝ダメって言っていた割には結構いい線いってるじゃん。」

「本当に意外だったよ。結構いけるもんだね。」

ツキの走り幅跳びの記録は上位記録に食い込んでいた。記録を取る前に練習したとはいえ、本人にも意外の結果だった。もちろん、上位からは運動部のメンバーで順位を数え、女子の部で三番目の運動部以外に入ったのは周りも想定外であった。今まで決して目に見える何かに突出した結果を持たなかったツキだからこそ、自他ともに驚いた。

小中学校のころはアカネや同級生と外で遊ぶことが多く、体力や運動神経のベースは作られていた。小学校から中学校まで幾つかの習い事をしており、その中に身体を動かすものは体操と水泳があった。運動以外にはピアノや習字、英会話もあったがどれも長続きしはなかった。当時は習い事をする時間があれば遊びたいとういうのが大きな理由だったが、人にやらされることへの抵抗と、ある一定のレベルまですんなりとできてしまう反面、途中で壁にぶつかると超えるまでが長く飽きてしまった。逆に自ら選んで取り組んだことに対しては、いつまでも粘り強く諦めない両極端な性格もあった。成長まで一定ではなく波を描くことがほとんどだった。

今回は過去に習った体操が身体の使い方の役立っていたようで、幅跳びのように複合的な動きを要求されるものに対して、身体の動かし方のイメージだけでなく、クラスメイトを観察し、無意識に手本を絞り込んで真似して実践する、しかも、短期間に行う地頭の良さも持ち合わせていた。それは芸術分野の習い事や遊びで絵を描くことがイメージやリズムを培ったことにも起因していた。若しくは、波を描く成長の伸びているタイミングだったのかもしれない。

何かが上手くいった日にはあらゆるものが波に乗る。ツキは元々目立つことは好きではなく、自ら人に話しかけることが少ない性格から、人と接することも限定的だったが、今日は珍しくアユミとタカヒロのほうから話しかけてきた。ツキの体育の好記録が意外で二人は興味を持ったようだった。

タカヒロは陸上部で学年トップの記録保持者でもあった。ツキが部活に入らずバイト三昧でありながら運動神経の良さに、昔何かやっていたかだとか、部活も本気で考えてみないかなど聞いてきた。

「バイト遅刻しそうなときが多いから自然と鍛えられたかも。」

「じゃあ、なんであんな安定したジャンプできたりするん?」

「なんでかな・・・、あ、空飛べたら気持ちいかもって思って跳んだからかな?一瞬浮く感じ、結構好きだったよ。」

「マジでそれで跳べるんだ。俺もそうやって跳んだら記録伸びるかな?」

「それはツキが不思議ちゃんだから。変な力持っているんだよ。」

 ツキは両手を振って否定する。

「いやいや、気持ちの問題だよ。無欲のなんとやらだよ。」

「あながち外れてないかも。最近俺、部活楽しくないもん。そんな気持ちのせいか記録イマイチ伸びないんだよな。」

「え、何で?タカヒロ、超スポーツできるじゃん?」

「うん、山口君有名人だよね。陸上詳しくない私も知っているよ。」

「おいおい、知っているって、クラスメイトだろ?」

「ツキはバイトばっかりで、人との接点があんまりないから顔と名前一致しないんだよ。」

(やっぱり、そう思われているんだ・・・。)

「ああ、確かあのケーキ屋だろ?逆にある意味有名人じゃない?」

「え、そんなにみんな知っているの?じゃあ来てくれたらいいのに。」

「はは、じゃあ今日行ってみるか?前から興味あったし、俺ケーキ好きだし。なあ、アユミはヒマだろ?」

「え?う、うん、もちろん。タカヒロは部活?」

「そりゃ終わってからだよ。楽しくなくても一日でもさぼると一気に身体落ちるからな。」

「じゃあ、終わったら教えてね。駅前で時間潰しているよ。」

「ああ、悪いな。」

「(仲いいな)遅くなるなら欲しいのあれば取っておくよ?チョコがいいとかシュークリームがいいとあるかな?」

「おお、気が利くな。アユミは何がいい?」

「え、じゃあ、チョコでいい?」

「俺も。」

「うん、二つ取っておくね。最近カロリー控えめとかもあるから体重気にしなくて食べられるよ、二人とも。」

「さすが店員さん、ツキも体重とか気になるの?」

「うん、今朝そんなことアカネと話したばかりだったからね。」


今日は知っている人たちがお店に来る。

少し嬉しい。

なぜ嬉しいって思うの?

毎日お客さんは来るし、常連さんはいつも話しかけてくれるのに?

違う、知っている人が来るって特別なんだ。

私に会いにきてくれるみたいで、少し照れくさいけど、目的はケーキでも。

上手く話せないのは自覚しているし、余計話せなくなってしまいそう。

でも、いつか自分のことも話せたら、その人と少しは距離が縮まるのかな?


「ツキちゃん今日は何かいいことあったの?」

オーナーが口元にクリームをつけながら厨房から顔を覗かせた。もしかして本当につまみ食いをしてケーキが残らないのかもしれない。では、時々外出するが、そのときは?まさか持ち出しているとか、そう思うとおかしかった。

「いきなり何ですか?特に何もないですよ。幅跳びの記録が思いの外よかったくらいです。」

「本当に?今日は何か嬉しそうだったから。バイト始めてから一番活き活きした顔しているかも。」

「あ、いえ、実はクラスメイトが今日来るみたいなんです。」

「まあ、いいじゃない、友達来てくれるんだね。」

「友達というか一人は小学校からの知り合いで、もう一組はいきなりで。それほど付き合いはあるほうじゃないっていうか。」

「十分じゃない、それでも来てくれるなんて。どうせマニアックなお店だからゆっくりしていってもらいなさいよ。あ、私邪魔かもね。ちょうど新作の仕上げ間近だからキリいいところでお店お任せするわね。」

「え?そんな気を使わないでください。」

「いいのいいの、後で聞かせてね。ツキちゃん、ちゃんとしていれば綺麗なんだから。そろそろ下を向くのはもう終わりじゃない?そうすれば友達もいっぱいできると思う。バイトもちょっと減らして遊んでもいいのよ。年頃なんだし、お金もそれほど切羽詰まってはいないんでしょ?気持ちの問題じゃない?」

見透かされたような心持だった。確かに生活費はバイトをしなくても足りる分は振り込まれていた。将来の不安から生活費はバイト代から使い、足りない分を口座から引き落とし使っていた。母親に仕込まれた生活の術のおかげで無駄も少ないのは助かっていたし、浪費するほどの趣味も欲しいものもなかった。それでも、ほぼ毎日バイトに通うのは、突然一人社会に放り込まれた不安を紛らわせるためでもあった。

バイトを始めたころは高校入学と環境も変わり、孤独を紛らわすのに親しい友人も少なかった。

たまたま一緒になったアカネは高校が家から近く、少し頑張れば今の偏差値でも手が届き、それなりに幅広い大学進学も狙える学校と都合が良いという理由で選らんだらしい。

ツキは特に目的もなく、大学も行ければ嬉しいが、果たしていつまで遺産があるかという不安から、家の近くが経済的で楽という理由で若干アカネと被るところもあった。他にも中学からの知り合いも何人か通っているが、クラスが違うということもあり接点はなかった。

バイトは学校で禁止されていないが、入学してすぐに始めるクラスメイトはいなかった。最初は奇異に近い目で見られ、遊びなどの誘いをバイトが理由に断られると詮索されることもあったが、毎回聞かれるたびに困惑するツキを見かねて、あるとき、アカネがツキの身の上を代弁したことがあり、それ以来言及する者はいなくなった。それと同時にクラスメイトとの距離が生まれた。

アカネとアユミは出席番号が続くのと名前も始まりの一文字が同じと近いリズムが親近感となり、席や作業が一緒になることも多く、すぐに親しくなった。アカネの紹介でツキもアユミと話したりすることはあったが、当時生活を忙しくすることで、ある一定の距離で踏み止まっていた。さらには、人を避けているようなツキの雰囲気ではお互いに何かしらの接点を見出すことはなかった。それでも、名前で呼び合うようになったのは、ほぼ毎日、一言の会話でも交わすようにアカネが引き合わせてくれたことが大きかった。学校生活も半年を過ぎるころには生活にも慣れ、余裕が出て、少しは砕けた接し方ができるようになった。しかし、お互いの趣味からどんな音楽や映画が好き、ファッションに興味がある、好きな人は、など思春期の高校生同士の会話が生まれるには至らなかった。

ツキは人と趣味を共有したがらなかった。他人に介入され荒らされること、意見のぶつかり合いで気まずくなることを恐れていた。幼少時に家族が芸術家ということへの先入観より変わり者と色眼鏡で見られて距離を取られた経験から、歩み寄って話しかけることに臆病になり、やがて経験を共有することに興味を持たなくなっていた。それでも近寄ってくる者に対して、見せることのできる範囲で最大限の感情表現や自己について話すことには抵抗はなかった。音楽は幅広く聴くし、映画も好きだが一人で行く勇気もなくレンタルでの視聴がほとんどだった。絵を描くのが好きで時々両親の残した油絵で思うようにキャンバスに描いた。気になる展示会に行ってみたいと思うことも多々あったが誰も誘えず、いつも会期が終わってしまう。本も好きで、どちらかというと昔の文学を好み、当時の恋愛に思いを馳せることもあるが、結局第三者として傍観し深く共感するには至らなかった。それでもいつかそんな想いが沸き立つことがあるのかと想像することもあった。

自分はクラスに馴染んでいない、浮いた存在であるとの客観を自らに課して、能動的に語りかけることに歯止めをかけていることに自覚と、それを受け入れていた。だからといって近寄ってくる他人を拒絶し避けることはしなかった、バイトでの接客経験から気が利くことは相手にも好感を与え、際立つ美人ではないが、元来整った顔立ちは笑顔を見せれば男女問わず安心する優しさを覗かせていた。しかし、徐々にクラスメイトと話すことが増えてきたのには本人に自覚がなかった。


日も傾き始めたころ、アカネが制服のまま来店した。ショーケース前に四畳程度のスペースしかない無人の店内に最初戸惑っていたが、商品選びに後ろに並ばれるプレッシャーとは無縁で、誰もいない空間は店を独り占めしたような特別さを感じさせるようになった。

アカネは店の雰囲気に慣れると、今まで意識しなかった全体が見えてきた。天井は少し高めで、照明も市販の蛍光灯などではなく、ランタンを思わせる傘のドロップライトが幾つか店内を暖色に染め、ショーケース右隣りの、一人通れる広さの通路を挟んで設置された小さな木製の台に置かれたレジスターは昔のタイプライターを思わせる年代物、床のモザイク調のタイルや薄いグレーの壁紙、木製の扉に施されたユリのデザインのステンドグラスは、この小さな店全体を外界と切り離したようなひとつの別世界を形作っていた。ケーキが陳列されていなければ、そこに何が置かれるのか、アカネが今まで見てきたケーキ屋とは異なっていた。

アカネはツキによそよそしく挨拶を交わすとケーキについて質問を始めた。カウンター越しに、友人が質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれる。

アカネはツキのケーキ屋の制服姿を最初に見たとき別人かと思った。高校に入ってから学校の制服以外を見たことがなかった。白いシャツとエプロンに黒いスカート、何処にでも見るウエイトレスの制服が新鮮だった。シンプルだがツキの体系に合わせて作られたかのような無駄のなさは、ツキ本人だけでなく、店全体の雰囲気に馴染ませた世界観を演出しているように感じさせた。

アカネの頬は紅潮していた。店の雰囲気、今まで見たことのないツキの姿、柔らかな仕草や話し方が、まるで初対面であるかのような感覚と少しの緊張が新鮮だった。店員としての接し方がいつもと距離を置いている。

商品すべてに質問をしたかと思うくらいの時間の後、ショートケーキとシュークリームをオーダーした。ショートケーキはもっとも売れる商品のようでトレーが二つある。

「どっちにする?」

「え?じゃあこっちで。」

アカネの選んだケース上段の一番右端のトレーには、すでに幾つか売れたのか、隣のショートケーキの半分以下しか並んでいない。量が多いほうが新しいと考えられるが、直観的に端のケーキのほうが甘く思えた。

「初めて来てくれて最初のオーダーがこだわりの逸品って、何となくでもわかってくれたみたいでいいな。」

「そうなの?」

「説明しなかったけど、こっちはオーナーこだわりのショートケーキだよ。実はわざとトレーを分けているんだよ。どっちも同じに見えて時々少しずつ味を変えているんだって。常連さんには有名だよ、いつも新しい味って。」

「それでいいの?」

「うん、オーナーがケーキ屋を開くきっかけになったショートケーキを追いかけている試作品。ある意味別物。だから通は二つ買うんだ。」

「そうなの、そう言われると両方食べてみたくなっちゃうよ。でも、今度にする。」

「誰かにあげるの?」

「うん・・・。」

アカネの表情は戸惑いと喜びが交錯するような、何かを否定するように、声のトーンが沈むのがツキを不安にさせた。

「ケーキは楽しいものだよ?」

ツキの声が優しく、アカネの表情を和らげた。

「そうだよね。実は弟の誕生日なんだ。」

「あ、ケンジ君?大きくなったんじゃない?懐かしいな。幾つになったの?」

「十歳になるよ。」

「そんなになるんだ。前にランドセルが大きいなって思ったのが最後だったかな。」

昔話を起点に次から次へと話題を変えながら、いつしかアカネの表情も険が取れたかのように、自然といつもの笑顔を見せていた。二人とも久しぶりに会って、積もる話をしたかのような気分になった。

「そろそろ帰らないと。今日は楽しかった。次は試作のケーキと普通の二つ、一緒に食べよ?」

「うん、そうだね。たまにはまた私ん家で食べようよ。」

「ツキがそんなこと言うなんて。」

「何か変?」

「うん、バイトばっかで遊ぼうとしないから。」

初めて知人が店に来るという、ツキにとって前代未聞の事態は混乱や戸惑いだけでなく、何かを期待させてのプレッシャーから、最初は何を話せば良いかわからなかったが、いつしか久しぶりに友人として改めて話すきっかけになっていた。オーナーの言葉が少し軽くしてくれたようだった。

しかし、いつも明るいアカネが初めて見せた表情が忘れられない。困っていることがあれば力になれたら、いつも助けてもらってばかりではなく、こちらから何とかしてあげられないものか。今、当たり前にバイトができるように、学校にツキを繋ぎ止めてくれたのはアカネだから。原因は考えてもわからない、わからないことは動かないと何も得られない。当たり前のように通っていた学校に小さな目的が生まれたように思えた。

アカネが帰った後は常連客が何組か来店し、日も落ちたころ、いつの間にかアユミとタカヒロがガラス越しにこちらを覗いていた。ツキが手招きするとタカヒロが扉を開き、アユミを先に店内へ通した。二人とも店内を見回した後にやっとツキと焦点を合わせた。

タカヒロのレディファーストやシンクロした動きは長年行動をともにしたお互いの思考や行動パターンを共有したものだと感じさせた。実際二人は親同士の交流や近所という幼馴染みでクラスでも周知の仲であった。時々、付き合っているのかと問いかけるクラスメイトもいるが、本人たちは否定も肯定もしない。

タカヒロは陸上部に所属し、今年度の記録保持者でもあった。地方紙などから取材を受けることがあり、ちょっとした有名人だった。長身ではないが同年代平均の背丈、少し日に焼けて締まった体形と童顔は女子にも人気があるだけでなく、男女分け隔てなく接する気さくな性格は性別問わずに相談を受けることもあり、面倒見の良さは同性からも嫌味なく好かれていた。

アユミはタカヒロと並ぶと背は少し低い。とはいえ、女子の中では高いほうでツキとは同じくらいの背丈だった。スタイルも良く、その長い髪も染めることはないが地毛は若干焦げ茶色とわずかに明るい、生粋の色白でもないが切れ長の眼も流行りのメイクを取り入れつつ、涼しげなカラーを選ぶことからタカヒロとは対比的な印象を与え、そこがバランスを取っているように感じさせる。また、竹を割ったような性格は良くも悪くも表裏のなさを印象づけ、冷たいイメージに拍車をかけていた。物事をはっきり言うことも多々あるために、距離を置く相手も多かったが、素直に相手に共感することができ、自然と長所を口にすることから、周りには腹を割って話せる相手しかいないと限定的だった。そんな近寄り難い雰囲気を醸し出すアカネに、常に自然と話しかけられる男子はタカヒロだけだった。

ツキは両親を失ったときから大人と接することも多くなり、否定的な言葉に慣れてしまったかのようにアユミの遠慮しない言葉を躱すこともなく、また、突き刺さることもなかった。アユミにしてみれば、最初はどこまで聞いているのかわからず気にもしなかったが、あるとき、ツキは決して目を逸らさないことに気がつき、心でしっかりと聞いているのだと感じ取って、いい加減な気持ちでは話しかけなかった。そんなツキが妙に気になり、つかず離れずの距離にいるツキのほうから話しかけてくることをいつしか期待していた。

「え、ホントにツキなの?」

「変かな?」

大きく目を見開いたアユミは本当に驚いている。

「馬子にも衣裳ってやつ?」

「もしかして褒めているの?」

「うん、いいじゃん、似合ってるよ。」

「俺もいいと思うよ。学校だと存在感薄って。まったく別人じゃん。こっちがいいよ。この格好で学校来たら絶対モテるって。」

「ふふ、コスプレして行く勇気はないよ。」

「タカヒロ、お似合いな子がいたんだったら学祭、喫茶店でよかったよね。」

「ああ、マジそう思うわ。候補でも出てたし、俺はそっちがやりたかったよ。何でお化け屋敷って。ハリウッド級のメイクできる奴なんていないし。誰だよ?言い出しっぺは?」

「知らない。ちょうどその日、具合悪くて早退したら決まってたよ。」

「俺も部活トラブって、放課後そっち出てたら決まってたな。」

「ツキ知ってる?」

「え、いや、私も気づいたら決まっていたというか・・・。」

「あんま興味ないよな。」

「う、うん。」

「一部張り切ってお化けやった連中以外みんな裏方じゃん。俺なんてヒマで寝てたし。」

「バカ?あんた仕事、何やってたの?」

「何もなさそうな草むらからいきなりお化け吊り上げて出すやつ。」

「あぁ、アンケートでお化け少ないって不評だった理由わかったかも。」

「じゃあ、みんな寝てたな。」

「タカヒロだけでしょ。確かにお客さんあんまり来なかったのもあるけど。」

「あ、ごめん、私もヒマでたまに居眠りしちゃって、コンニャクお客さんにくっつけるタイミング逃していたよ。ていうか、あれ、上手く首筋になんて当てられないよ。暗いし。」

「あんた結構やるね。マジメなだけか陰キャかと思ってた。」

「半分自覚しているよ。」

「ふっ、ちょっとでも自覚するだけマシ。面と向かって本気で否定する人、私ダメだわ。」

「わかる。俺もバカって言われて半分自覚してるだけに笑って流せるよ。」

「そりゃ流しちゃダメでしょ。」

「ふふっ。」

「ほら、元陰キャのツキにも笑われた。」

三人が会話で盛り上がっている間、ノック音が響くことはなかった。まるで、ツキが初めて面と向かい合う知人が来客という特別な時間のために、店が存在を殺して気を利かせてくれているかのようだった。

「じゃあ、取っておいたチョコケーキでいいかな?カロリー控えめのと普通の両方あるけど?」

「俺はカロリー控え目。」

「あ、私も。」

「あ、俺はそれとショートケーキも貰おうかな。」

「え、せっかくカロリー控えめなのに?」

「やっぱりその店の基本は押さえたいじゃん。」

「あ、実はこのショートケーキ二つパターンあって、こっちは普通の。で、こっちはオーナーが時々試作的に味を調整しているんだ。それも定期的だからずっと同じ味はないんだよ。これ言うとみんな両方買ってくれるよ。ほら、ちょうどそれぞれ一個ずつ残っているね。」

「あんた商売上手だね。じゃあ、私も貰おうかな。」

「じゃあさ、アユミ、別々の買って後で半分ずつ食べようか?」

「え、あ、いいわね。」

「お買い上げ、ありがとうございます。」

ツキは手際よくケーキを箱詰めし、会計を済ませて、商品をカウンター超しに手渡した。

「楽しかったよ。知ってる子が店員やってるのもあるけどね。美味しかったらまた来るね。」

「ありがとう。お店小さいから沢山は種類ないけど、時々新作出るから。」

「俺もチェックするよ。名物オーナーのSNSにもあるよね?先輩も来てるらしくて、そっちから見させてもらうわ。」

「うん、そっちも楽しみにして。オーナーいたら共有して貰ってね。」

「タカヒロはまりそう。」

「そりゃそれで世界広がるよ。」

「ツキ、アカネも今度一緒に遊ぼう?」

「うん、ありがとう。時間作るようにするね。」

「俺もいい?」

「女子会!」


冬の夜は早く下りてくる。友人が帰り、仕事や学校が終わった常連たちが次々と来店し、商品がすべて売り切れたころには暗くなっていた。街灯が灯り、人通りが減ったことが店内からも伺え、外の寒さが一層増した気がする。元々人通りの少ない住宅地の路地裏ということもあり、人が目の前から一切いなくなったような寂しさは、店が街から切り離されて存在を忘れられたかのような空白感を覚えた。

先ほどまでの友人と過ごした時間は、今まで感じたことのない楽しさ、今いる空間が外の暗さと店内の明るさがはっきりと分かれていることが拒絶してきた時間だと認識させた。

自分の世界、世界と呼ぶには確立されてもいない小さなプライドのような、他人と自分の境界線を目の前に引いて、相手を見ようともしなかったことに気づいてすらいなかっただけかもしれない。他人に近づくこともしなかったことは間違いない。そんなことも自覚せず、日々を消化するモノクロームな世界に自ら一点の色でさえつけることなど叶うはずもなかった。しかし、何かのきっかけで一滴の雫を受け取れば、そこから広がった色は次々と他の色を呼び込んで混ざり合い、自分を染め上げていくことになる。その一滴は些細で意識していなくても、自ら行動した結果には違いない。高校に入ってこんなに人と話したことは初めてだった。いつもとは違う疲労感と充実感はわずかな火種となって心に微熱をもたらした。

客足が途絶えやることもなく、そういう日は早上がりも許可されていたのだが、何となく外を眺めながら外界の寒さを想像すると、このままこの場所に留まりたいと思った。時間の流れが速いのか遅いのかわからなくなっていた。

そのとき、一人の少年が店の前を横切った。俯き背中を丸めながらゆっくりと歩く、その姿は見覚えがあった。店を横切る間、ツキは気づかれないように息を潜めて見守っていた。昨日のあの少年ではないのか?目の錯覚を疑いつつも、ツキは意を決し外へと駆け出した。

店を出て少年が向かった方向を注視したが、そこに人影はなかった。家四~五件の間隔で設置させられた街灯は小さな明かりの島を形作り、暗闇の中に辿るべき道標となっている。二つほど先の光の島で小さな影が動いた。迷わず後を追って駆け出す。影を見失わないように目を離さず追いかけているつもりだが、光と光の間の暗闇の中では気配を確認するのは難しい。

こんなにも暗い道だっただろうか。まだ閉店間際であっても深夜ではないはずなのに、どの家にも明かりが灯っておらず、今何処を走っているのかもわからなくなってきた。二つ先の光の元に影が現れては闇に溶け込み、また二つ先の明かりに現れては消える。まるでツキと同じ速さで進んでいるかのようで距離が縮まらない。

しばらく進むと影は見えなくなっていた。暗闇で気づかなかったが、すぐ右手にも別れ道があり、そちらへと曲がっていた。戸惑っていた時間を取り戻し、距離を詰めるべく再び走り出したが、最終的に影との距離は縮まらない。まるで光の島から島へと瞬間的に移動しているかと思われた。

二度、三度と角を曲がり、長い直線を進むと街灯はそこで終わっていた。最後の街灯を通り過ぎると砂浜が広がっている。その奥には黒い海が静かな波音を立てて蠢いていた。砂浜と海とを認識できたのは、雲一つない空に、いつの間にか満月が頭上に鎮座しており、その月明かりが海面に反射し天地からツキの周りを照らしていたからだった。

静かに波打つ黒い海と、無機質な黒い砂浜は薄暗い夜の曖昧さに混ざり合っているかのようで、これ以上進むと得体の知れない何かに飲み込まれるのではないかという不安を掻き立てた。

月は今までの記憶を手繰り寄せても符号しないくらいに大きく、その表面のクレーターがデザインではなく、現実のものとしてはっきりと見えてもおかしくはないほどだった。今にも落ちてくるのではないかと錯覚する。

月に気を取られ、ツキは少年を探すのが一瞬遅れたことに焦りを感じた。しかし、それも杞憂と思えるかの如く、海と砂浜との境界線上に少年は立ち止まっていた。まるでそこに生えた低木のように一切の動きも見せずに海を見つめている。

ツキは少年に恐る恐る近づく。ここは知っている海ではないのかもしれない、そんな想像を今まで夢中で辿ってきた道、不自然な月、自分が何処に立っているかもわからないような砂浜が演出している。

少年がいるところは安全だと信じて傍に寄る。

「ねえ、こんなところで、何しているの?」

目線の合わない少年の挙動のなさに嫌な予感が過る。少年は無言で指一本すら動かさないように感じられた。

「昨日の夜、三角公園にいたよね?あ、三角公園ってのは私たちが勝手に言っているだけで・・・。」

何も遮るものがない空間ではツキの声は遠くまでよく通る。聞こえないはずがない。

「家族、心配しているんじゃないの?」

家族という言葉が出たことがツキは意外だった。その言葉を初めて口にしたような感覚だった。

「こんな暗い中、危ないから一緒に街へ戻ろう?」

まったく聞こえていない、聞いていないとも思えるくらい、少年は微塵も動くことはない。

「誰か探しているの?」

辺りを見回すと、水平線の向こうから小さな灯りが灯るのが見える。船の灯りか、徐々にはっきりと見えるようになってきた。それは近づいてきていることを意味する。灯りに見えたものは炎だった。霞色の炎は見たこともなく、それを炎と認識するには時間を要していた。そして、その時間は炎をこちらへ近づけるだけの間を与えていた。一つから二つ現れ、三つ、四つと徐々に数を増す。ツキは不知火という、海に正体不明の炎が現れるという話を聞いたことがあったが、まさにその話が現実のものとなった。

炎の数が増えるにつれて風が強くなる。店の制服のまま夢中で駆け出して上着を着ていないこともあり、寒さが肌を切るように感じる。風の音が唸り声のように聞こえる。その声も炎の数とともに大きくなり、風の強さも増していく。数はすでに二十体近くまで膨れ上がっている。

ツキは近づいてくる炎の中に、人の顔が見えるのは目の錯覚ではないとはっきりと認識した。

(あれは危険なものだ!)

本能は直感となった。ツキは少年の手を引っ張り、来た道を折り返すように走りだした。少年の身体は力なく、抵抗することもなかったので、砂浜でも思うより足を取られず再び住宅街へ入るのに時間はかからなかった。子ども一人を引っ張ることは容易ではないことは承知していたが、今は夢中で力いっぱい手を引くことしか考えていない。バイトで重い機材を片づけることも多く、意外なほど体力と腕力はついていたようだった。途中何度か転びそうになることはあっても、気づいたころには周りには家々の明かりが見えている。

兎に角、あの恐ろしい炎から逃れるのに十分な距離を取ったに違いない。さすがに人気のあるところまでは追ってこないであろうと自らを暗示した。恐る恐る後ろを振り向くと、海は見えない距離にあった。しばらく来た道を凝視してもあの炎が追ってくる気配はなかった。住宅地に入り込めば、もし何かが起きたとしても大声で誰か気づいてくれるのではないかといった安心感もある。しかし、人影は見当たらず、街は静まり返っていた。

街灯の下、白い光の中で二人は立ち止まっていた。

「痛い」

初めて少年が声を発した。

「あ、ゴメン。」

手を離した少年の手首には赤い痣がはっきり見えた。少し落ち着いたところで思い返したが、海へ来たときには暗闇に思えていた周囲が、今では街灯と家の明かりでお互いの姿を視認できることに、先ほどまで何か不可思議なことが起きていたことに今更ながら恐怖を覚え、全身に悪寒が走った。周りを見回せばいつもの街であった。必死で街の異常さも気にせず少年を追ってきたこと、冷静になって初めて事態の異常さに気づいた。若しかしたら、店の中で心地さを感じたとき、すでに別の世界に迷い込んでいたのかもしれないと想像した。それでも、ツキは今はいつもの現実で安全であると認識したところで、少年の顔を覗き込むと目を逸らされた。

「家は近いの?」

答えはない。

「もしかして、家出?」

沈黙。

「昨日から?もっと前から?」

少年が振り返り、今来た道を戻ろうと歩きだそうとするが、ツキは思わず再び手を掴んで止めた。

「駄目!そっちは絶対行ったら駄目!」

「何で止めるの?」

「何でって、見たでしょ?あの気味悪いもの。」

歩みは止めたが再び沈黙。

「海に用があるの?」

「いや、別に。」

「じゃあ警察行こう。家出じゃないならね。」

「家出じゃない、と思う。」

「思う?何で?」

「よくわからないんだよ。」

「どういうこと?」

「俺が何でここにいるのか。自分のことも。」

「それって、まさか、記憶喪失とかいうやつ?」

「わからない。」

「名前は?」

「・・・。」

「事故、じゃないよね?ケガ、してない?頭や他に痛むところある?」

「それはないと思う。」

ツキは少年を中心に一回りしながら異常がないか確認した。見た目と背の高さから長身の小学生高学年か中学生一、二年くらい、ボサボサの髪が目を覆うくらいまで伸びて顔の半分を覆っていたが、傷を隠すようでもなく、少し大きめの濃紺のコートやグレーのマフラーには目立った汚れも見つからず、デニムや黒ベースに白いソールのスニーカーにも走って付着した砂汚れくらいで、何処にも血痕や衣服の乱れは見当たらない。

「やっぱ警察行かないと。」

「嫌だ。」

「何で?色々助けてもらおうよ?それに病院も行かないと。家の人心配しているよ。」

「それでも嫌だ。」

「何で嫌なの?このままじゃどうしようもないよ?」

「わからない。でも、警察行っても何にもならないと思う。」

「じゃあ、どうしたらいいの?」

「・・・。」

しばらくの沈黙。

「何か、やることがある、そんな気がする。」

再び沈黙。風が強く吹くとツキは大きなくしゃみをした。

「お姉ちゃん、寒くない?そんな恰好で。」

「君を見て思わず店、出てきちゃったんだよ。風邪ひきそうだよ。」

「帰ったら?」

「ちょっと、心配して追ってきたのに。何?その言い草。」

「誰も頼んでないよ。早く帰んないと本当に風邪ひくよ。」

「わかった、帰るわよ。」

「そう、バイバイ。」

「あなたも一緒に私ん家へ帰るの。」

「え?何言ってるの?」

「今日はもう遅いし、明日一緒に警察行こう。」

「何で俺まで。」

「このまま話し合っても終わらないでしょ?行くところもないみたいだし、いったん家行こうよ。それに、お店開けっ放しだったから、早く行こう。」

「ちょっと、待てったら。」

ツキは再び少年の手を引いて歩きだした。今まで暗闇でわからなかったが、見覚えのある風景は、この街の小中学校が遊びや遠足で通る海へ続く道で、店までの道のりもすぐに頭の中に入ってきた。

「わかったから離して。」

「逃げない?」

「逃げて何処行くんだよ。それより知らない男、家に連れ帰っていいのかよ?」

「何か意味ありげなセリフね。君、本当に小学生なの?中学生?」

「知らない。」

表情を変えない本人には、特に深い意味は含んでいないようだった。

「そこんところはご心配なく。家は私一人だけだよ。」

「親は仕事遅いの?」

「ううん、二人とも病気で亡くなって、もう誰もいないの。」

「・・・悪い。」

「気にしないで。もう大分前のこと。少しは一人暮らしも慣れたよ。」

しばらくの沈黙とともに歩いていたが、店の明かりが見えてきたところで少年の手を離した。抵抗する素振りもなく、逃げる気配も感じられない。

「ヤバ、鍵かけてなかった。寒いから店の中でちょっと待ってて。すぐ片づけるから。」

ツキは店内の異常の有無を確認し、手際良く後片付けを行う。ショーケースに商品が何も陳列されていないことで、もし誰か来ても閉店と諦めて帰ったに違いない、そう自らを納得させてレジ金のチェックを行い、差異がないことを確認してから締め、現金を事務所の金庫へと納めた。洗い物を済ませ、着替えを済ませ、制服の上から学校の指定のコートを羽織って一連の作業を終えたのを確認すると電気を消してシャッターを閉めた。

少年はカウンター前の椅子からずっと外を眺めていた。ツキは閉店作業を行いながら時々様子を見ていたが、虚ろな表情からは何を考えているのか感じ取れなかった。急にシャッターを締められ、少年はその音に驚き我に返った。

「じゃあ、帰るね。」

手袋を身に着け、少年の手を引こうとしたが、その必要もないことを思い出した。

「ホントにいいのか?」

昨日からこの寒い街を一人徘徊していたのか。そう思うと少年の声に期待するものを含んでいるように感じる。

「変なことしないならね。」

「するわけないじゃん、お姉ちゃんじゃそんな気になんないって。」

「ならよし。」

「いいのか?」

(変なことって何だ?変なお姉ちゃん。)

もう少年は手を引かなくても隣を無言で並んで歩き、曲がり角ではツキがどちらへ進むか少し待って半歩遅れながら後を追ってくる。

「こっちだよ。」

「そこを右ね。」

都度、進む方向を伝えながら、少年を見かけたであろう公園に近づいた。昨日の話しを切り出そうか迷ったが、今は寒さと空腹を満たすことが先決だった。明日、警察で話せばいい、そう思い少し早歩きで公園を通り過ぎた。横目で少年の挙動を伺っていたが、公園に関心を示す素振りも話を切り出すこともなかった。

駅に着くころは人通りも少なくなっていた。田舎駅独特の、元からの人の往来の少なさだけではなく、深夜を待たずとも学校や職場の終わりからの経過時間に比例して人数が減っていることで、今はいつもより遅い時間であることを胸の内で計算させた。

再び住宅地へと入り、ツキの脳裏には、今少年とはぐれてしまったら、二度と会えないのではないかと嫌な想像が過った。それも、初見の街で目的も自分のことも思い出せない少年にとってはどうでも良いことであった。

やがて学校が見えてきた。

「ここ、私の学校だよ。」

「ふーん、中学校?」

「高校!」

「暗くてわからないよ。」

「私、どう見ても中学生に見えないでしょ?」

「そういうの、わからないよ。」

「それに中学生はバイト許可されないよ。」

「そうなの?」

「どこまで本気なの?」

少年は首を傾げた。

「もう。あ、そこ曲がってもう少しだからね。」

「家が学校の直ぐ傍なんて、楽チンでいいな。」

「うん、朝はすっごい助かる。」

学校の塀に沿って進んで半分程度まで来たら曲がり、そこから最初のT字路を曲がった先の角にツキの家があった。

「ちょっと待っててね。」

ツキは鍵のかかっていない両開きの金属製の門を開いて通路を作り、通学用のバッグから鍵を取り出し、その奥にある家の扉を開いて中へ少年を先に通す。少年はそのツキの行動に違和感を覚えた。本来家を取り囲むはずの塀は家の前面の一部しか残っていない。家を正面に立つと扉の右隣にはガレージらしきシャッターが見えるが、その前まで塀は続いておらず開けっ広げになっている。ここを迂回すればいちいち扉を開く手間も要らない。逆に左側もツキの家は角に建っているため、塀は曲がり角で終わっていて家を取り囲むこともない。一枚の塀が門を残すだけに建っているように見える。それはまるで門番のような佇まいで家の正面を守っているようだった。ツキが防犯の意味を為さない扉を律儀に通るのは、本人は昔の癖であっても、少年にはある意味儀式のように見えた。しかし、今の少年にはそれ以上の興味も何の感情も湧かずツキの後を歩く。

「さあ、どうぞ。」

玄関の人感センサーが客人に挨拶するかのように灯を照らし出すので、少年も暗さに戸惑うことなく招き入れられる。

「遠慮しないで上がって。」

玄関で躊躇している少年の背中を軽く叩く。寒い中ずっと歩いてコートは冷蔵庫で冷やしたかのように冷たかった。

「こっちはお客さんの部屋。」

ツキはそう言って家に入ってすぐ左の扉を指した。

「まっすぐね。あ、寒かったけどトイレは大丈夫?その先右側だよ。」

「大丈夫。」

突き当りにリビングとキッチンへの扉があった。途中扉が左右にあったが、ツキにトイレと教えてもらった右手の扉には、室内にライトが点いていること示す小さな円形の曇りガラスの窓が上部についていた。少年はリビングの引き戸を左に開けて真っ暗な部屋の中に入ると、後から入ったツキが電気を点け、続いてエアコンもつける。

「お腹空いたよね?」

「そんなには。」

「何処かで何か食べたの?」

「いや、そうじゃないけど、あんまり空かないんだ。」

「そうなの?でも、私がお腹空いたから一緒に食べよう?」

「・・・。」

「じゃあ直ぐに簡単だけど作るから、テレビでも観て待っていて。」

部屋に入って左手にあるテーブルの奥の一脚を引いて少年へ合図する。テーブルはダークブラウンの木製で使い込んだ風合いを醸し出し、四人掛けの大きさはこの家の元の家族構成を教えてくれた。

「コートはここね。」

入口右手前には黒いロングコートとエプロンが掛けてあるポールハンガーがあったが、少年は寒さが抜けきっていないため、コートを着たまま椅子に腰かけた。ポールハンガーは黒色の金属製で、円状の脚から一本の棒状の本体が立ち、上部先端が放物線状に均等に四つに枝分かれしている。

ポールハンガーのすぐ隣、ツキの腰までの高さの木製のキャスターが並んでいる。何も入っていない三段の籠の真ん中に手袋、上段にバッグを置いた。

ツキはポールハンガーにコートを掛け、制服の上からエプロンを身につけてキッチンへと向かった。

少年が室内を見渡すと、リモコンの置いてあるテーブルの他には、テレビと壁時計以外目立ったものは見当たらなかった。白い壁は空間が広く感じる反面、無機質な冷たさを感じさせる。家具はテーブルに合わせたかのようにほとんどが木製でダークブラウンに統一され、無機質な空間とは対照的に温かみを感じさせる。テレビ台はテレビ以外にレコーダーが所定の位置にある以外、DVDなど見当たらないのは部屋の空白にも似ている。

そのシンプルな中でも壁時計は独特で、今の家には珍しい小型の振り子式の柱時計だった。こちらも家具に揃えたかのような木製で、デザインや使い古されたような見た目からアンティークではないかと思わせる雰囲気を纏っている。

少年は部屋の中を見渡し、壁の白さはこの家が新築かリフォームされたと想像した。対して家具は、よく見ると幾つもの傷などから大分使い込まれており、中古品か建て替える前のものを流用していたことに気づいた。少年が昼間、年季の入ったような外観を見たのであればその対比からリビング以外の部屋へも興味をそそられたかもしれない。

少年が案内され座っている席からの真正面突き当りはキッチンとなっており、カウンターの向こうには冷蔵庫以外には食器棚が見えた。調理器具や調味料はすべてその食器棚やシステムキッチンに収納されているようで、視界に入ることがなかったのが生活感を必要最低限に抑えている。それでも、以前は家族以外にも必要とされる食器があったのだろうか、テーブル横にも太郎の背丈に近い食器棚が置かれ、カウンター横にも似たデザインの棚が置かれている。

少年は一人暮らしのツキは料理などせずに、コンビニで買ってきた弁当などがレンジで温められて出てくると思っていた。しかし、その推測を裏切るかのように勢いよくコンロに火をつけてフライパンを熱し始めた。冷蔵庫からライスを取り出し、豚肉とネギを細かく刻んで塩コショウや醤油、卵をよくといで落とす。投入したライスが冷凍ではなく冷蔵に保管していたところから、今晩すぐに食べることを予定していたようだったが、ご飯の量は二人分でも多い。明日の朝の分も使っているようだった。よく見ればフライパンではなく小ぶりな中華鍋を細い腕で躍らせている。同時にもう一口のコンロでスープを温めている。合間に乾燥ワカメやタケノコを鶏ガラスープの素と一緒に温める。

部屋に香ばしい香りが充満し、炎が食材を熱する音が心地よく、空腹を感じていなかったのが噓のように少年の腹の音が鳴り始め、香りが強くなるにつれて腹部が締めつけられるようだった。身体が熱を持ち始めたかのような感覚はエアコンのせいではなかった。その音はツキには届かなかったが、鍋を振る合間に様子を見るたびに少年の顔に生気が少しずつ戻っているのが感じられる。

テーブルクロスを敷いて手際よく料理を並べ、スプーン、箸を二人分セットする。目の前に置かれたチャーハンのわずかに焦げた香ばしい香りは、料理中よりも強く鼻を刺激し、スープにはゴマを挽いての仕上げが味への期待値を上げる。冷蔵庫から出したレタスとトマトのサラダとマヨネーズ、調理中にレンジで温めた唐揚げが並べられる。最後にスープ作りと並行し、敢えて少し冷ました緑茶が置かれると、少年はいつの間にかスプーンに手をかけていたことに気がついた。

「ごめん、お待たせ。」

「別にそんなに待ってないよ。」

「その手、もう待ち切れなかったと思っちゃって。」

「そ、そんなつもりじゃ・・・。」

「ふふっ、温かいうち食べよう。いただきます。」

「あ、い、いただきます・・・。」

二人一斉に緑茶を一口飲んで軽く喉を潤し、黙々と食べ始めた。少年は無言のままあっという間にすべての料理を完食した。遅れてツキが最後のスープを飲み干した。どれも、特にチャーハンはありふれた料理であったが、少年はまるで初めて食べた食材のように感じた。記憶がないからと思えば納得できるが、懐かしく、温かく、味のムラでさえも大切に思える。

「温かいの、もっと飲みたいよね。」

少年は涙が出そうになったのを堪えているのをツキは察し、湯飲みを回収してお湯を沸かしにキッチンへと向かった。少年は初対面にもかかわらず家に上げて食事も出してくれた女性への感謝と記憶がない不安が、胃が満たされて気持ちに余裕が出てくるにつれて大きくなってきた。

しばらくして新しい緑茶を持ったツキが再び対面に座った。そっと少年に差し出し、静かに二人ともゆっくりと飲み始めた。今度は少し熱めのお茶は食事で火照った身体の熱を閉じ込め逃がさない。

部屋の暖かさと満腹感が冷えた心身を満たす。白い壁は、最初、殺風景で外の寒さを連れてきたかのように感じさせたのが、身体が温まった今では空間を暖色に錯覚させるようだった。少年はコートを脱いで隣の椅子の背もたれに二つに折って乗せた。コートの下はチャコールグレーのトレーナー、首には白い襟が見えることから下にシャツも着込んでいるのがわかる。

「君、名前は思い出せない?」

「ああ。」

「そうか、名前もわからないんだ。困ったな、なんて呼んだらいいのかな?」

「何でもいいよ。好きに呼べば?」

「じゃあ、とりあえず『太郎』でいい?」

「え、何か嫌だなあ。」

「嫌?何でもいいって言ったじゃない?」

「手抜きみたいで嫌。」

「ええ?一般的な男子の名前だよ?名無しのなんたらは嫌でしょ?イギリスでは名無しはジョン・ドゥっていうみたいだよ。あ、ジョン君とか?」

「いや、俺は日本人、多分。」

「いっそ名無しから権兵衛、アレンジしてゴンタ、いやいやそれじゃ当たり前すぎるからハイドや京介、他にも・・・。」

ありったけのアーティストやマンガ、アニメキャラ、俳優を次々並べだした。

「・・・、太郎でいいや。お姉ちゃんに任せたらとんでもないことになりそうだよ。」

「そう?じゃあ、私もお姉ちゃんじゃなくツキって名前があるよ。」

「お月様のツキ?」

「ちょっと近い。月の姫でツキ。かぐや姫みたいでしょ?」

「姫は要らないんじゃない?」

「オシャレって言って。」

「わかったよ、姉ちゃん。」

「ツキでいいよ。」

「いや、何か恥ずかしいし、一応年上だし。」

「まあ、いいか。よろしくね、太郎。」

返事の代わりにくしゃみが出た。

「今、お風呂沸かすね。風邪ひかないように早く温まろう。」

ツキはキッチンにある湯沸かし器のボタンを押し部屋を出た。なかなか帰ってこないので太郎は何気なくテレビを観ていると徐々に眠気に襲われた。意識が飛び始めたころ、風呂が沸いたことを知らせる音楽が流れ、ほぼ同時に扉が開き思わず姿勢を正した。

「寝てた?パジャマ探したけど私のお古しかなくって。裾まくればなんとかなると思うよ。」

「今着てるのでいいって。」

「ダメダメ、何日着ていたの?今日ぐらいちゃんと休んで?明日警察行くんだよ。」

「何か出頭するみたいだな。」

「あはっ、ホントだ。」

「笑いごとじゃないよ。でも、姉ちゃん強引だから結局は着させられそうだな。一応借りておくよ。」

キッチンの手前、トイレ正面の部屋へと通され、太郎は渋々と風呂場へ入って湯に浸かる。温かい湯が心地良い。何も思い出せず、明日からどうしようか考えたが、結局は病院送りであちこちいじくりまわされて記憶が戻れば万々歳、戻らなければモルモット、もし、ツキに会わなければ、あの海の得体の知れないものに取り憑かれでもして意識も物事を考えることもなくなっただろう。温まった身体は生気を取り戻し、気を抜くと湯船の中へ沈んでしまいそうだった。いや、このまま意識を失うのも悪くないと思えた。

「ねえ、熱くない?」

突然、脱衣所の引き戸が開く音と声をかけられ、太郎は思わず湯船から飛び出しそうになり、次には身体を隠すかのようにお湯に沈んで顔だけ出して答えた。

「何やってんだよ!」

「ゴメン、ちゃんと身体温めたほうがいいかもって思って温度上げちゃったよ。」

「大丈夫だから出てけよ。」

「もう一つゴメン。パンツはさすがに男物は・・・。」

「もういいよ!今履いてるやつまた履くから!」

「うん。じゃあ後でね。」

太郎は完全に子ども扱いされているのと、風呂場の扉を開けて入ってきそうな勢いのある口調に、焦りと恥ずかしさから完全に目が覚めてしまった。

間もなく入浴を終えて着替えを済ましキッチンへと戻った。グレーのパジャマはツキのお古とはいえ若干大きく丈が合わないので、裾を折り返して調整する必要があった。

「お疲れ様。」

「風呂、空いたよ。」

「うん、先に寝て。寝室はこっちだよ。」

二階へ案内されツキの後をついていく。

「太郎は何処から来たんだろうね。」

階段の途中で上から不意に声をかけられたが、ツキは前を向いたままだった。

「・・・、知らない。」

「どうして、記憶がないんだろうね。」

「何でかな。」

「・・・。」

二階には部屋が三つあり手前の部屋へ通された。部屋は布団が敷いて用意されており、他には小さな机だけがある。エアコンを事前につけていたようで部屋は温かかった。

「殺風景でごめんね。元々物置用にしていたんだ。でも、両親が亡くなったときに一気に物を処分してこんなになっちゃった。」

「気にしないよ、もう寝るだけだから。電気も消して。」

「うん、じゃあお休み。」

「お休み。」

静かに扉が閉じ、電気が消されて部屋が暗闇に包まれる。太郎の疲労は心身ともにピークに達していた。記憶がないとしても、いつからこの街を彷徨っていたのだろうか。記憶の始まりを思い出すと途切れ途切れの記憶が散乱している。浜辺、無人の夜道、公園、再び浜辺、見知らぬ夜道、暗闇の中に浮かぶ温かい光、誰かに呼ばれるように進む夜道、また浜辺。この浜辺でツキと出会った。そこまで思い出すとふと意識を失い深い眠りへと落ちる。


海と砂浜の境界に並んだ無数の炎が浜辺一帯を照らしている。炎は陸へは上がれないようで、波打ち際を不規則に漂っている。

照らす光に黒いシルエットが浮かんでいる。影はまるで黒い人形を思わせ、一見その細さから力なく見えるが、しかし、その両足は力強く大地に細い体を支えて映し出されている。それは一人の女性だった。黒いスーツはその細身にフィットし、スカートではなくパンツスタイルもスリムな体形を強調する。白いシャツが暗闇の中で青白く光って見える。身じろぎ一つせずに砂浜に立つ姿と、ほどよく締った肉付きが隙のなさを感じさせる。長い黒髪のストレートで、先端が切り揃えられた後ろ髪は肩甲骨を覆い隠し、若干左寄りに分けられた前髪が、顔の右半分を隠している。細く鋭い切れ長の瞳、恐ろしく白い肌はメイクか、そうでなければ、何らかの整形の産物と思わせる不自然さがあった。

突然、女性は大きな声で笑いだした。その笑い声によって強い風が巻き起こり、人の顔を思わせる炎たちは煽られて揺らいでいる。

「そろそろ始まったみたいじゃないか。お前らはそこで指でもくわえて見ていればいいさ。」

高まる炎の勢いは怒りを感じさせる。女性はまったく意に介さいといった表情で、街へと向かって歩き始める。砂浜の上を歩く音がしない。ヒールの下で砂が自ずと避けて、女性の靴底が砂地に着く寸前で円状のすり鉢を形作る。おかげで、スーツの裾は砂が一粒も付着していない。

街は砂浜からでは街明かりも見えないほど真っ暗で、何処に道があるのか判別できないが、女性はその闇に溶け込んでいくかの如く飲み込まれていく。その後ろ姿を見送る炎たちがひとつ、またひとつと姿を消すたびに街の明かりが戻っていく。


ツキが目覚めると、外はまだ薄暗い。部屋も冷たく息も白い。何となく天井を眺めている。何をするでもなく時が流れていく間、頭の中は真っ白で、そこに思考や感情を注ぎ込むことはしない。朝か夜かも判別できない時間に目覚めると、この何でもない時を過ごすことがツキは好きだった。何かを行う意味も見出す必要がない、意味も考えることから解放されたような時間を過ごすことに自由を感じている。

敢えて時計は見ない。学校は休みということはわかっている。しかし、今日がいつもと違うのは、最近では滅多にない家への来客だった。そのことに気がつき、思わず布団から飛び起きて机の上の置き時計を見た。まだ五時前、遠くから聞こえた新聞配達のバイクの音が現実へと引き戻した。薄水色のパジャマの上から黒い室内用のセーターを羽織って、隣の部屋の扉をそっと開けた。昨日のことは夢ではないのかと半信半疑であったが、殺風景な部屋の真ん中にある布団の山が現実を裏付ける。

客人を起こさないように足音を殺して階下へ向かった。部屋をエアコンで暖め、ポットのお湯で緑茶を淹れながら、頭の中を整理しているうちに徐々に部屋の中が白んできた。お茶を手に、カーテンを開けて外を見ると空の暗さが逃げていくように薄れてくる。

空の白さが増すにつれてツキの頭の中も少しずつはっきりとして、昨日の出来事が次々と思い出された。バイト先で初めての友人たちの来店、自己分析に反して会話ができたこと、親しい友人の初めて見る表情、今まで線を引いていた知人の一面と次への期待、当たり前に過ごしてきた店が特別な空間に思えた夜、そして、闇の中で出会った少年が家にいる。

ツキは記憶を辿りながら外を眺め、湯飲みに口をつけたまま緑茶を飲むでもなく、不動のままでいると、不意に背後から声をかけられ思わず湯飲みを落としそうになった。一年近く一人で過ごした家に、自分以外に誰かがいることなど実感がわかず、声の主が誰かも最初わからなかった。

「ごめん、驚かせた?」

「ううん、大丈夫。具合、どう?」

「風邪とかは平気。でも相変わらず記憶のことはわからないや。」

「そう・・・。じゃあ、ご飯にするから待ってて。」

「ああ・・・。」

パンを二枚トーストして、冷倉庫からパックのコーンスープを出して温める。今日はフライパンをキッチンユニットから取り出し、手際よく目玉焼きを二つ同時に仕上げた。料理を作り始めたと同時に、冷蔵庫から出しておいたハムを、トーストしたパンの上に乗せて皿にセッティングする。レタスとミニトマト、キュウリをカットしサラダを作るのにトーストしたパンが冷める間を与えることはなかった。

昨晩から敷きっぱなしのテーブルクロスに料理を並べるまでの時間、太郎はツキがつけたテレビは観ずに、先ほどまでのツキと同様にぼんやりと外を眺めて、何か考え事をしていたが、その時間が思うより短く、朝食の準備が整ったことに意識が追いつかず戸惑った。それでも、昨日の中華鍋で本格的な夕飯を作っていたことに対して、一日の始まりでもある朝に手際よく朝食を作り上げたことは日々の生活の忙しさを想像させた。

「今日はフライパンなんだ。」

「うん。そう。中華鍋は両親が懇意にしていた中国の不動産屋さんから貰った、本場ものなんだって。小さくてもさすがに重いから、たまにしか使わないよ。中華鍋は料理に火が籠るって聞いていたから、昨日は適任かなって。」

「ふ~ん、無理して筋肉痛にならない?」

「大丈夫。バイトでは結構重い器具もあるし慣れているよ。それより、冷める前に食べて。サラダはドレッシングかマヨ派?卵は醤油もソースもあるよ。ハム、コショウ大丈夫?」

ツキはそう言って何処からか手品のように次々に太郎の前に調味料を並べた。

「一人でできるよ。」

ツキは食べる準備を完了し太郎を待っていた。太郎はドレッシング、ソースを選択してツキの次の動きを待つ。

「じゃあ、いただきます。」

「いただきます・・・。」

太郎は蚊の鳴くような声で返す。

「今日はまさかの来客だから、簡単でゴメンね。」

「別にいいよ・・・。」

二人とも黙々と食べ、食べ終えると、お互い会話の糸口を探っている。

「足りないならご飯もあるよ。」

「パン食べて、ご飯はないだろ。」

「そう、私、足りないときやるけど?」

「いやいや、姉ちゃん、よく食べるね。」

「うん、食べるときは食べるよ。」

「その割には細いね。」

「ふふ、ありがとう。でもね、結構気にして体育とかで頑張るよ。」

「俺、体育好きじゃないよ。」

「何で?男の子って体育って好きそうだし、見た感じだけど、運動神経悪くなさそう。前髪はゲームやアニメ好きそうって感じはするけど。」

「うるさいな。集団行動が嫌いなんだよ。」

「あ、確かに嫌いそう。」

「姉ちゃんもそんな気がするよ。」

「何で?」

「料理とか拘ったり手際いいから、自分の世界に入って人を拒絶しそう。」

「確かに・・・。」

苦手とするところを初対面に近い、しかも明らかに年下の男子に見透かされて戸惑いと、太郎の正体に対しての興味をかき立てられた。どのような環境や人生を歩けば、年齢も関係なく観察眼を磨けるのだろうか。すると、ふと疑問が沸き上がった。

「今、集団行動は嫌って言ったけど何か思い出せる?」

ツキのその言葉に、太郎は顔を上げる。

「あ、確かに。自然と苦手って出たな。・・・。でも駄目、無理みたい。何でだろう、学校とか人が沢山いるの想像したら、何だかいい気がしなかった・・・。」

「だから集団が苦手?」

「かも。何だろう、静かな場所にいたというか・・・。でも、誰かに会わないとならないと思うような・・・。」

突然、太郎の脳裏に幾つもの情景が浮かび、次々と黒く塗りつぶされるかのように消える。思い出そうと黒塗りの記憶と、浮かび上がった情景の在り処を探そうとすると、激しい頭痛と吐き気に襲われた。全身に悪寒が走る。まるで、何者かが頭の中で太郎の記憶を消そうとしているかのように、人の力が及ばない何かの力が働いている。太郎は頭を抱え、机に額をこすりつけるように苦しみ出した。

「もうやめて!無理しないで!嫌なものは嫌なんだから!」

ツキはキッチンへ小走りで向ってコップ一杯の水を持ってきた。太郎の額は脂汗で濡れていた。コップを渡し、タオルを取りに風呂場へ向かおうとすると太郎が口を開いた。

「もう大丈夫。」

「汗、すごいよ。」

「こんなの。」

太郎は袖で額の汗を拭い、水を一気に飲み干した。

「ほら、もう平気。」

 二人は椅子にもたれかけ、少し息を吐いて次の言葉を探している、

「ホントに大丈夫?」

「ああ、ホントだって。」

「わかったよ。じゃあ、落ち着いたら、警察行こうか。」

「・・・。」

「お風呂場に着替え、そのまま置いてあるから。ごめん、時間なくて洗ってないよ。」

「いいよ、どうせ乾かないし。ご馳走様。」

「どういたしまして。」

ツキはリビングを出て、着替えに二階へと向かった。

風呂場には太郎の着替えが綺麗に畳まれて置いてある。太郎は着替え中にまたツキが風呂場へ入ってこないか心配になり、急いで身支度を済ませてリビングへと戻った。

ツキが下りてくる気配はなく、しかし、勝手にテレビをつけるのも気が引けて、何となく部屋の中を何度も見回した。部屋は殺風景だが、日の光を取り入れるのには適度な数の窓がある。

部屋に入って左手には大きな窓があり、乗り越えるには太郎でも可能な高さに位置しており、そこから緊急時に外へ出るのに適した大きさだった。西向きではあるが外の光を取り入れるには十分な存在だった。

リビングへ入ってすぐ正面には出窓が二つと、窓と窓の間に吐き出し窓が並んでおり、光を取り入れやすい構造上レースのカーテンでも十分明るかった。

右手側にある独立したシンクを越えたキッチンスペースにも採光のための縦長の窓が奥まったスペースが暗くならないよう、出窓の並びに配置されている。

室内を一巡して視線の最後、太郎が入ってきた扉とキッチンの間、ちょうどポールハンガーで隠されるようにもう一つの扉があった。ポールハンガーを少しずらしてみる。白い壁と白茶色の扉といった、全体的に白ベースの部屋の中で、その扉だけが薄汚れていた。まるで何年も経ったかのような年季が入った風合いだった。太郎は一際異質なその扉が気になり、何故か足音を消して近寄り、そっと開けようと取っ手に手を触れたそのとき、階段を下りる音が聞こえて、急いでポールハンガーを元に戻し席に着いた。

「おまたせ。準備はいい?」

今日のツキは髪を後ろで一本に纏め、黒いタートルネックのセーター、黒いフレアスカートにストッキングと全身黒で統一されている。さすがにメイクは太郎にはどのようなものを施しているか皆目見当がつかないが、実際はノーメイクであった。元々、整った瞳の輪郭と自然な二重で加工を必要としないところから、本人はそれほどメイクに力を入れることも、人目に対して興味も関心もなかった。

「うん、大丈夫。」

「痛むところあったり、気分悪くない?」

「大丈夫。それより姉ちゃん、今日も学校?」

「え、学校は土曜で休みだよ。」

「昨日とあんまり恰好変わっていない感じだったから。その上に学校のコートを着るかと思ったよ。」

「そうかな?確かにうちの学校は制服も真っ黒だよね。でもスカートはこっちのほうが長いよ。残念ね。」

そう言いながらプライベート用の、これまた黒いロングコートを羽織った。

「魔女みたい。」

「魔法使いじゃない?」

「若くないのに?」

「失礼ね。昨日は中学生とか言っていたのに。」

「そうだっけ?」


警察署はツキの家からは車がないとかなり遠い距離にあった。派出所も少々距離があり、駅前か学校を通り過ぎて県道まで行かないとならないが、両方ともほぼ同じ距離にあった。駅前も学校もクラスメイトに会う可能性があるので、どちらに行こうか迷ったが、駅前がバイト先の常連にも会うことが考えられるので、学校を大きく迂回して県道の交番へと向かう。それほど仲の良くないクラスメイトに会ったところで、適当に挨拶すれば問題ないとは思ったが、余計な話題を振りまくことは、ある意味平穏な学校生活に支障をきたす気がして憚られた。両方の派出所を天秤にかけると、今後面と向かって会話をすることが多い店の常連を避けることにした結果でもあった。記憶喪失の年下の男子を連れているというだけでも奇異の目で見られ、出会った経緯まで話すことになれば正気を疑われてしまうと思った。寧ろ、説明して信じてもらう自信もない。

歩きながら警官に何を話すべきか考えるが、昨日のことは夢ではなかったのかと実感が湧いてこない。しかし、隣で歩いている少年が現実であったことを証明している。

やがて派出所が見えてきた。遠目に人影が見えることで中に警官がいることがわかる。何故か鼓動が早まり、緊張感が走る。以前、両親が亡くなったときに警官や刑事が何度か訪れ、親族たちにも何かを聞いていたことがあった。ツキへは両親が死の間際に何かしら変わったことがあったか、その時間帯は何処で何をしていたかと、同じ質問ばかりだった。それ以来、警察というものは特に後ろめたいものがなくても、存在だけでも落ち度の有無に関わらず、都合の悪い質問を問いかけられるのではといった、ある種の警戒のようなものを覚える。特にこちらからアクションを起こすことは、引き返せないような脅迫観念を迫られる。

派出所の入口に差し掛かり、署内へ入ろうと歩みを緩めたとき、太郎がツキの手を引き、派出所の前を通り過ぎた。ツキは思わず、身体が一瞬後ろに引かれたかのような反動を感じ、そのまま引かれながら入口を通り過ぎた。

警官はテーブルで書類に何かを記入していた。視線の片隅に一瞬外で誰かが立ち止まったかのような気がして顔を上げたが、姉弟が忙しそうに通り過ぎていくのが目についただけで、再びデスクワークへと戻った。

道を直進し最初の曲がり角を曲がってしばらく歩く。派出所から見えない、声が聞こえないであろう場所まで辿り着いたところで二人は止まった。そこまで来て、太郎はツキの手首から手を離した。

「どうしたの?」

「やっぱり駄目だよ。」

「何が?」

「警察行っても意味ないんだよ。それに・・・。」

「それに?」

「俺自身で何とかしないとならないんだと思う。警察へ行ったら、病院入れられて終わりに違いない。解決なんてしないよ。」

「ちょっと待って、記憶、ないんだよね?何をしにやってきたかわかるの?」

「わからない、でも、とても大事なこと、そのためにここにいるんだ。ゴメン、わからない。けど、本当に大事な何かを探しに来たことだけはわかるんだ。」

「じゃあどうしたらいいの?」

「・・・。」

「この街に太郎の何かを知っている人とかいるかな?それか記憶の手掛かりになりそうな場所とか、うろ覚えでもいい、そこへ行けば何とかなるんじゃない?」

「・・・。駄目、全然思い出せない。まるで俺自身のことだけを選んで消去されているみたい。この街が知っているかを思い出そうとすると、頭の中が真っ白で初めて来た街みたい。」

「誰かが、太郎が何かやったとか?」

「記憶を消す、そんなことするほどの者?俺って?」

「無い無い。そんなオーラ無いし。」

「なんだよ、それ。」

「ゴメン、ゴメン。でも、何か原因があるはずだよ。誰かが何かした、そう、催眠術とか?」

「俺そういうの信じないんだよね。」

「うーん。でも警察行かないんじゃ、誰頼ればいいんだろう?」

「もう大丈夫だから。昨日は泊めてくれてありがとう。いつかこの恩は返すよ。」

「え、何それ?」

「今、お金持ってないし。」

「そんなんじゃないよ。これからどうするの?」

「もう少しこの街を回ってみる。」

「それで何か見つかりそう?当てあるの?」

「わからない。でも、そうするしかないよ。」

「すぐ手掛かり見つかる保証なんてないでしょ?その後は?ずっと街を彷徨うの?」

「他に方法なんて思いつかないよ。本当にありがとう。ここでいいよ。」

「よくない。」

「え?もう他に何もないだろ?」

「ほっとけるわけないよ。それに、このままだと補導されて、結局警察の世話になるのは同じだよ。」

「いや、マジ大丈夫だから。いざとなったなら逃げれば何とかなるって。」

「逃げてもいつかは捕まるよ。それに、ご飯や泊まるところは?」

「それは・・・。」

「いったん家、戻ろう。そこからまたどうするか話そうよ。」

「それは悪いって。もうほっといてくれよ!自分で、何とかするから、大丈夫だよ。」

太郎が俯きながらツキの横を通り過ぎようとしたとき、隣でツキは今までにない大声を上げた。

「だから!よくない!」

太郎の歩みを止めるには十分だった。ツキ自身も驚いていた。こんなに感情を表に出すことはいつ以来だろう。

このまま太郎と別れたら、きっと二度と会うことはないと予感していた。今後の太郎の身の上はニュースにも、ネットの片隅にすら見つけることはないだろう。きっと家族の元に戻って幸せに暮らしている、そう都合の良い想像で完結させることのおかしさが容易に頭に浮かんだ。

太郎はツキの表情を恐る恐る覗き込んだ。

「このままじゃ、私も気持ち的にスッキリしないよ。結局、最後警察や施設にお世話になるとしても、やれることはやれるだけやってからじゃないと、このままの気持ちでずっと過ごすなんて嫌。それに、最初に話しかけてきっかけ作ったのは私なんだから。」

今まで、飄々としていたツキが強い語調で声を荒げ、目をまっすぐに見て逸らさないことは、太郎の逃げ場を奪うようだったが、同時に、信頼しても構わないと訴えている。それだけ、自分のことを受け止めてくれる強さを感じさせるツキの表情に、太郎は何も言い返せず、沈黙が返答を代弁する。

「じゃあ、警察の前、通らないように帰ろうか。」

まだ付き合いも浅いが、つい先刻までのツキに戻っていることに、太郎はほっとした。

ツキの家へ帰るまで、警察どころか知人にも会わなかった。誰かが二人を世間から遠ざけて、存在を隠してくれていたかのようだった。

家へ戻ると、ツキは入口を入ってすぐ左手の客間へと太郎を通した。部屋の中は、テーブルを挟んで奥に二人掛けのソファー、対面に一人用のソファーが二つ並んでいる。

テーブルはシンプルな黒塗りの木製で、所々に細かい傷が無数に刻まれ、黒い塗装の下から覗く地も、深い傷でさえも黒ずんで全体に馴染んでいることから、長年使い込まれたことを物語っている。

ソファーはテーブルに合わせた黒色で、統一されたデザインから同じメーカーなのがわかる。二人掛けのソファーは幾つかの小さな破れから除く白い綿が目立つことから合皮かと思われる。おそらく一人用も同素材だろうが、見た目からの判断では痛んではいない。

ツキは入り口付近の壁に取り付けてあるリモコンを取ってエアコンをつけて、脱いだコートを一人用ソファーの背に二つ折りにして掛けた。そして、屋外から見て玄関の横となる位置に普通の窓、西の道路側は二つの出窓があり、それぞれの窓のカーテンを開け、外からの目隠しとしてもう一枚のレースのカーテンだけを残した。これで冬の弱い日差しとはいえ、角に面する家は十分な明るさを取り込める。寧ろ、自然の灯りは不自然な明るさを感じさせず、気持ちを落ち着けた。

「さあ、座って。何か温かいもの持ってくるね。」

ツキは二人掛けソファーの方へ太郎を案内しキッチンへ向かった。

太郎はコートとマフラーを一つに丸めて、ソファーの端に身を隠す猫のように置いた。落ち着かず、部屋の中をうろうろ歩きながら部屋の中を探索した。人気のなかった部屋は冷たく、息も白い。やがてエアコンから運転開始を告げる音が鳴り始め、しばらく使っていなかったようで生暖かい、カビ臭い空気が流れてきた。

部屋自体は定期的に掃除されているらしく、家具や床に埃は積もっていないが、あくまでも現状維持で接客として使われていた気配がない。

使い込まれた家具が、過去の来客の多さを教えてくれる。今現在、昔のままの状態で時間が止まったように置かれているのは、ある時点で役割を終えたことを示していた。

扉を開けてすぐ右側の壁側には何も置かれておらず、部屋を入って真っ直ぐ突き当り、部屋の角には、シェルフラックが置いてあったが、何らかの雑貨や本も一冊たりとも見当たらない。気になったのは壁から少し離れると、何もないはずの壁は、以前は絵画か何かを掛けてあったのか、中央に四角く変色が遅れた部分が見える。

部屋内すべてを把握すると、まるで時間が止まったかのような家具以外、気になるものは何も見当たらない。

間もなく、部屋の探索を終えた太郎は、道路側の出窓のレースカーテンを開いてみた。塀も設置せず、敷地いっぱいに建てた家は、直ぐに道路へと面していた。道幅は車が二台並走できる広さと、一人が歩ける広さの歩道を確保していた。歩道以外は往来を分ける白線が引かれていないため車道が広く見えた。向かいの家は塀で外から目隠しされていたため、住人といきなり目が合うということはなさそうだった。

今度は玄関側の窓のレースカーテンを開いた。目の前は先ほどよりは広めの道路が通っていた。車道は車二台と自転車が間隔を空けて並走して通れる程度の広さと、こちらも歩道以外は白線が引いていないために相当広く見える。しかし、県道から離れてショートカットに使える道でもないのか、車も通らず人影もほとんど見えなのは、折角の広さを持て余している。

何気なく外を凝視していると扉をノックする音が聞こえ、マグカップが二つ乗ったトレーを持って、ツキが入ってきた。

「おまたせ。う、くっさいね!」

「エアコン。」

「ゴメン、ずっと使っていなかったから。」

ツキはトレーをテーブルの上に置いてエアコンを止め、窓を開けて外の空気で部屋を換気した。

「キッチン行こうか。」

「ここで十分。」

太郎が二人掛けのソファーの中心にもたれかかった途端、大きな布地の裂ける音とともに、身体がソファー内部へと深く沈んでいった。

「マジかよ!これ中身は何処行ったんだよ?」

ツキは裂け目からソファーの体内へと侵入した太郎の手を引いて救い出した。

「あははっ、ソファーに食べられちゃったね。」

「笑いごとじゃねえよ、腰やられたよ。客人じゃなくて、俺でよかったな。」

「やっぱりキッチン行こうよ。」

「そうする。」

「この部屋、もう限界かな・・・。」


昨日と同じようにテーブルで向かい合って二人席に着いた。

「ココアだけど、甘いの大丈夫?」

「もちろん。」

「少し冷めちゃったかもだけど、どうぞ。」

太郎の手元へとマグカップをそっと置いた。

「あ、ありがとう。」

一口飲むと優しい甘さが口の中に広がった。少し冷めていたが喉から胃まで一気に体温を上げてくれた。しつこくない甘さが二口、三口と飲むスピードに拍車をかける。

「これ、オーナーのオススメ。甘さ控えめでケーキによく合うんだ。」

「オーナー?」

「あ、オーナーってのは私のバイト先のオーナー。昨日お店寄ったでしょ?」

「ああ、あそこか。誰もいなかったみたいだけど?」

「うん、友達来るって言ったら気を遣って先に帰ったんだ。その後に太郎を連れてきたから、ある意味タイミングよかったかもね。」

「いい人なんだ。」

「うん、とっても男らしい人だよ。気が利いて、いつも色々教えてくれて。今度紹介するね。」

「別に紹介されなくたって。」

「かわいくない。あ、どうでもよくない話だけど、お昼から私バイトだよ。お留守番できるかな?」

「子どもじゃない。」

「じゃあ、お願いね。」

太郎はふてくされたように無言で頷く。

「まずはこれからどうしようか?」

「・・・。」

「記憶を取り戻すのに何か必要なものとかあるのかな?この街に用があるんでしょ?うろ覚えでも?」

「うん、多分。知ってる街かも思い出せないけど。」

「家族、友達、恋人は・・・いないか。知っている人とか思い入れのある建物や場所、そういったものがあるんじゃないかな?記憶がなくても本能みたいなもので、直感、っていうのかそう思える何かがあるはずだよ。」

「そう思う。街の色んな所を回って、気になるもの探してみるよ。」

「うん、それしかないよね。でも、土地勘まったくなさそうだよね?」

「ああ、マジで全然わかんない。」

「じゃあ、少し待ってて。」

ツキは部屋を出て、間もなく階段を上る足音が遠くで聞こえてきた。太郎は残ったココアを飲み干し、身体が温まるのを感じながら椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。白い天井の上で何か音がする。しばらく眺めていると階段を下りてくる音が聞こえ、やがてノックもせずにツキが扉を開け入ってきた。

「これ見て。」

二人のマグカップを端にそっと避けて、テーブルの中央に薄い冊子を置いて、その上に一枚の地図を広げた。大きさは広げた新聞紙より一回り小さなサイズだった。

「今、私ん家がここ。」

そう示した場所が赤丸で囲ってある。

「ここが昨日通ってきた私の学校で、その先に駅、駅を越えると三角公園、公園越えてバイト先のお店。」

ツキの白く細い指が地図上の道を滑るようになぞって各エリアを示した。その先を進むと海へ出るが、敢えて行こうとは示さなかった。

「家を中心に記憶のヒントになるものを探すエリア幾つか絞っていこうか。」

「そうだな、闇雲にあちこち探すより効率的かも。」

「私がバイト行っている間に目ぼしい場所見つけて、そこ中心に丸でも囲ってエリア絞っておいて。」

「何を目的にする?」

「そうね、まず目立つ施設とか過去に行ったかもしれないし。後は直感。」

「はあ?それってアバウトじゃ?」

「そうでもないよ。人の直感って意外に当たったりするもんなの。最初太郎を三角公園で見た気がするからその辺とか。」

「うーん、最初はそうでもするしかないよな。」

「そうそう、そうしているうちに、若しかしたら、太郎を知っている人に会うかもしれないよ。」

「だといいけど、誰かいるかな?」

「家族なら一番。後は親戚や友達、学校近くも先生とか同級生とか会うかもよ?他には彼女、はないか。」

「さっきから何だよ、女いないみたいに言って。」

「え?いるの?」

「知るかよ。」

「だよね。覚えていたら苦労しないか。」

「うるせえな、それよりこの地図スカスカであまり建物が載ってないけど?」

「母親が免許取るために通ってた教習所でもらった地図だよ。載っているのはわかりやすい目印くらいだね。でも、大きくて見やすいし、何かを書き込むのには十分じゃない?細かいところはこっちの近辺の地図の本を見て追加で書き込んで。」

「ああ、それでこの本も持ってきたんだ。」

「色々載ってるよ。こんな小さい街だけど、参考デートコースなんてのも載っているよ。がんばってるね。」

「姉ちゃんとは行かないよ。彼氏と行ったら?」

「私もいたら苦労しないよ・・・。まあ、別に苦労はしていないけどね。」

「私もって、何だよ。」

(最近誰かに同じようなこと言われた気がするなあ・・・。)


小さな世界の冬で、ふたりの旅が始まった。

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