第7話 眷属と覚悟

 ルナ様と眷属の契約が結ばれた後、二人でのぼせてしまったり、湯船が壊れてお湯が全部漏れ出ちゃったり、いろいろあったけどひとまずお風呂から何とか上がったのだった。


 居間に戻ると、ベルおばさんがすでに晩ご飯を用意してくれていた。


「あら、アトラにエテルナ様。なんだか長風呂でしたね。」


「は、はは…ちょっと色々あってね。でも、ちゃんと直したから大丈夫。」


「そ、そうですね!ご飯食べましょう!」


「直す…?まあいいわ。アトラ、配膳手伝ってくれる?」


「はーい!」


 おばさんが作ってくれたのは、私が大好きな野菜たっぷりのスープだった。村の畑でとれたジャガイモと人参が溶け込んだ、とろりとした乳白色のスープだ。


「さあ、冷めないうちに召し上がれ。」


「いただきます、おばさん!」


「うん。いただくよ、ベルさん。」


 私は木のスプーンを手に取った。…ふと、スプーンを持つ自分の右手の甲に視線が吸い寄せられる。


 お風呂で刻まれたはずの紋様は、不思議と見えなくなっている。けれど、スプーンを握る指先が今までよりもずっと軽くて、繊細な感覚に満ちていた。


「…アトラ?スープ、嫌いなものは言ってたかしら?」


「えっ?あ、ううん!大好き。おいしそう!」


 慌てながらスープを一口、口に運んだ。野菜の甘みが口いっぱいに広がる。いつも通りの、おばさんの優しい味だ。


 ふと横を見ると、ルナ様もまた、おたまを手にしたおばさんと楽しそうに話しながら、美味しそうにスープを飲んでいる。 その白い髪は、お風呂上がりで少ししっとりとしていて、暖炉の火に照らされて美しく輝いていた。


(…私、本当にこの方の眷属になったんだ。)


 隣で笑うルナ様の、深緑の瞳と視線がぶつかる。ルナ様は小さくウィンクをした。


 お腹の底がじんわりと暖かくなる。それが温かいスープのせいなのか、それとも私の中に宿ったルナ様の力のせいなのか、今の私にはまだ判別がつかなかった。



 スープを飲み終わると、おばさんと一緒に洗い物をした。その最中も、食器を持つ私の手はいつもより軽やかで、まるで自分の体じゃないみたいな、そんな不思議な感覚だった。


 洗い物が終わると、ルナ様が口を開く。


「ベルさん。アトラについて、一つ話があるんだ。」


「アトラについて…?この子がどうかしたのですか?」


「ちょっとね。座って、聞いてくれるかな。」


 ルナ様に促され、おばさんが向き合うように座る。私も自然とルナ様の横に座っていた。


「それで、話というのは…」


「うん、アトラのことなんだけどね。……アトラを、私にくださいっ!」


「え、ええええええええええ!?」


 ルナ様のまるで結婚の挨拶みたいな言い方に、思わず声を上げてしまう。

 おばさんも戸惑っているようだった。


「ええと、その…どういうことですか?」


「ふふっ、ごめんね。ちょっとふざけた。それでなんだけど…アトラを、エリオンに連れていきたいんだ。」


「アトラを、エリオンに…一体なぜですか…?」


「それについては、私の目的について説明する必要があるね。」


 そうして、ルナ様はお昼に話していたことをおばさんにも話していく。


「私は、あの雷神を玉座から引きずり下ろし、人間にこの世界を返したいと思っている。そのために、アトラの力が必要なんだ。」


「アトラの…?でも、この子はただの―」


「ただの村娘、じゃないよ。アトラは私の眷属として、覚悟を決めてくれたんだ。」


 ルナ様が私の右手の甲にそっと手を重ねた。その瞬間、隠れていた紋様が、すうっと浮かび上がり、淡い光を放ち始める。


「これはっ…!」


 おばさんが息を呑むのがわかった。


「エリオンへ行けば、神々の眷属たちとの戦いが待っている。危険なたびになるだろう。それでも、アトラは自分の意思で、私の手を取ってくれたんだ。」


 おばさんは、光り輝く私の手と、不安げな私の瞳を交互に何度も見つめた。


「…アトラ。あなたは、本当に行くつもりなの?この家を、この村を捨ててまで。」


 おばさんの問いかけに、私は一瞬だけ躊躇した。でも、覚悟は決めている。


「…うん。私は、ルナ様の理解者眷属になりたい。そう思ったから。」


 私の答えに、おばさんはしばらくの間俯き、それから顔を上げた。


「…わかったわ。娘の門出を祝うのも、母親の役割だもの。応援してるわ、アトラ。」


「っ――!おばさん!」


 私はたまらなくなって、おばさんの懐に飛び込んだ。おばさんの服からは、いつも通りの安心する匂いがした。この世界で一番安心する、私の「家」の匂い。


「ありがとう、おばさん…。私、頑張る。ルナ様と一緒に、頑張るから。」


「ええ。…でも、無理だけはしちゃだめよ。疲れたら、いつでも帰ってきなさい。ここはあなたの家なんだから。」


 おばさんは私の髪を優しくなでながら、少しだけ寂しそうに、でも誇らしげに目を細めた。

 ルナ様はそんな私たちを、深緑の瞳を柔らかく潤ませて見守っていた。


「ベルさん。ありがとう、感謝するよ。アトラのことは、私の命に代えても守ると約束しよう。」


「あら、エテルナ様。神様にそんなことを言わせてしまったら、バチが当たっちゃうわね。」


 おばさんは少しだけ笑って、思い出したように立ち上がる。


「そうだわ。アトラ、ちょっと待ってなさい。」


 そう言って奥の部屋から持ってきたのは、丈夫な革で作られた小さな薬草袋と、一本の短剣だった。短剣の鞘には、見慣れた村の紋章が刻まれている。


「これを、持っていきなさい。この短剣は、昔この村に住んでたっていう名匠が打った短剣なの。北の方にある霊山からとれた鉱石を使っているらしいわ。」


「北の霊山から…?」


 私は、おばさんの手から短剣と袋を受け取った。短剣はずっしりとした重みがあり、けれど私の手に吸い付くように馴染む感覚がある。


「そうよ。危ないから言ってなかったけど、北の霊山はかつて原初の四神様が創世期に居座ったといわれていてね。今は禁足地になってるけど、昔は原初の四神様の祝福を受けた鉱石が取れるって言って、多くの鍛冶師たちが命を懸けて潜り込んだらしいわ。私が子供のころに聞いた話だけどね。」


 おばさんは懐かしむように、遠い空を見つめるような目で言葉をつづけた。


「…なるほどね。」


 ルナ様が私の隣で、納得したように短剣を見つめる。


「ルナ様…?」


「アトラ。その短剣は大事にした方がいい。多分それは、とても貴重なものだから。」


 ルナ様はどこか懐かしむように、楽し気に話す。


「…?わかりました。」


 私がそう言うと、ルナ様は「そうするといいよ。」と言って、窓から見える夜空を見つめる。


「アトラ、頑張ってね。エテルナ様の言うことをしっかりと聞いて、体に気を付けるのよ。」


「うん、分かってる。おばさんも…元気でね。無理して、腰をいためたりしないでよ?」


 おばさんの温かい手に包まれながら、何度も頷く。おばさんの言葉で、ようやっと「旅立ちのスイッチ」がカチリと入った気がした。


「ふふっ、大丈夫よ。さあ、夜更かしはお肌の大敵。アトラ、エテルナ様を二階の客間に案内してあげて。私は明日の朝ごはんの支度をしてから寝るわ。」


 おばさんに背中を優しく押され、ルナ様と一緒に階段を上がっていく。


 ギシ、ギシ、と使い慣れた木の階段が鳴る。いつもなら何とも思わないその音が、今夜はやけに寂しく、愛おしく聞こえた。


 二階に上がると、客間の扉を開けた。


「ここが客間です。狭いですけれど、ゆっくり休んでくださいね。」


「ありがとう、アトラ。」


 ルナ様は部屋に入ると、すぐにベッドへは向かわず、窓際に歩み寄って夜空を見上げた。月明かりに照らされた横顔が、なんだかとても…楽しそうに見えた。


「…ねえ、アトラ。さっきの短剣なんだけどさ。」


 ルナ様が、秘密を共有する子供のような声で私を呼び止める。


「はい、大事にします。」


「うん。…あの中に宿ってるのはね、私の大好きな兄様や姉様たちのあたたかななんだよ。」


 ルナ様はそう言って、くすくすと嬉しそうに笑う。その笑顔はあまりに無邪気で、さっきまで「神様」として畏れ多い存在だったルナ様が、急に年の近いお姉さんのように、あるいはもっと幼い子のように見えて、少しだけ驚いてしまった。


「ルナ様…?」


「おやすみ、アトラ。しっかり休んでね。」


 その夜、私は枕元にあの短剣を置いて眠りについた。夢の中で、私は見たこともない広大な草原を走っていて、隣には白色の髪をなびかせるルナ様と、そして…霧の向こうで優しく笑う、四つの大きな影が見えたような気がした。

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