字術ー敷島寛治の冒険ー(第1シーズン)

学習書房格物堂

1-1 転

 夕暮れの教都(きょうと)は、今日もどこか静かだった。

 石畳の路地を照らす朱色の光が、

 古い町並みを金色に染めていく。


 敷島寛治(しきしまかんじ)は、大学院での講義を終え、

 重い鞄を肩に掛けながらゆっくりと歩き出した。

 鞄の中では、束ねた札が軽く擦れ合い、

 紙の小さな音を立てている。


 ――胸がざわつく。


 心臓が脈打つというより、

“言葉がざわめく”といった感覚だ。

 字術師である寛治にしか分からない。

 この街のどこかで、漢字の意味が歪んでいる。


「……また、か」


 ため息をひとつ落とし、足を速める。

 北の大通りで、パトカーの赤い光が見えたのだ。


 近づくにつれ、騒然とした空気が伝わってくる。

 JAFの隊員が焦った声で指示を出し、

 警官が道路を封鎖している。


「同じ場所で、三台目です!」

「原因は? 路面が凍ってるわけでもないのに――」


 事故車両は、どれもカーブの手前で

 不自然に横滑りして止まっていた。


 ただの事故ではない。


(やっぱり……“転”の字義が暴走しているな)


 道路の中央。

 夕陽の中で、まるで空気だけが回転しているかのような、

 黒い揺らぎがあった。


 ゆっくりと、そして確実に、

“回る”という意味だけが増幅されていく。


「怪異……《転(まろび)》か」


 寛治は鞄から、ひと束の札を取り出した。

 表面には、力強い筆致で「転」の文字。


 だが彼の書いた転は、

「転ぶ」だけの意味を持たない。


 巡る。

 移る。

 変わる。

 巡り合わせ。

 転機。


 本来、言葉には“やわらかい流れ”がある。

 それを知る者だけが、この怪異を止められる。


 寛治は札を指に挟み、

 ひとつ深呼吸した。


「――正しい意味を、取り戻す」


 札が光り、風が静かに流れ始める。

 その瞬間、黒い渦が寛治へ牙を向けた。



 黒い渦は、まるで路面そのものがひっくり返るような

 奇妙な歪みを生みだしていた。

 空気が唸り、光がぐねる。

 まさに“回る”という意味だけが独立し、暴走した存在――怪異転(まろび)


 寛治は深く息を吸い込む。

 胸の奥で“言葉”が静かに震える。


「……行くか」


 を人差し指と中指で挟み、

 軽く弧を描くように振る。


 その瞬間、札の文字が淡く光を帯びた。

 墨で書いたはずの黒が、

 まるで生き物のようにうねり、緑の輝きを放つ。


 字術の発動条件は、“言葉の意味を正しく思い浮かべること”。


 寛治は目を閉じ、心の中で静かに言葉を紡いだ。


 ――転とは、巡り。移ろい。変化の兆し。

  本来は、やさしい流れを示す言葉だ。


 札が「返事をした」ように脈動する。


「流れを、戻す」


 寛治が札を前へ突き出した瞬間――


 風が、逆巻いた。


 黒い渦の周囲を暴れていた空気のねじれが、

 一瞬で“正しい向き”に整えられる。

 路面の歪みが消え、スリップの原因となっていた

“転倒の力”だけが削ぎ落とされていく。


「ぐる、る……ッ!」


 怪異まろびが、

 まるで言葉を失った子供のように身をよじる。

 回転の意味しか持たない不完全な存在は、

“正しい転”に触れるとバランスを崩す。


 寛治は札を空中でひらりと回し、

 続けてもう一度振り払った。


「落ち着け。《転》は、そんな乱暴な言葉じゃない」


 光の帯が渦を巻き、

 怪異を包み込む。


 風が止む。

 揺らぎが消える。


 そして、怪異はふっと消えた。

 残ったのは、地面に落ちた 古びた札の欠片 だけ。


 表面には、

 かすれた文字で

《転》の字が“逆さ”に書かれていた。


 寛治はゆっくりと近づき、

 それを拾い上げる。


「……やっぱりか。裏書きの札」


 そこへ警官が駆け寄ってきた。


「字術師の方ですよね!? 今の……怪異が消えた?」


「ええ、処理しました。道路はもう安全です」


 寛治は札の欠片を警官に手渡す。


「この裏書き札、警察の解析班に回してください。

 最近、似た事件が増えているでしょう?」


 警官は驚いた顔で頷いた。


「確かに……。あなた、ひょっとして魔導院の敷島くん?」


「はい。字術師は事件対応の協力義務がありますから」


 口調は淡々としているのに、

 どこか頼れる雰囲気を伴っていた。


 警官は深く礼をした。


「助かりました。今後も協力をお願いしたい」


「ええ、必要であれば」


 寛治はそう言うと、背を向けて歩き始める。

 夕暮れの光が、黒髪の輪郭を照らす。


 胸騒ぎはもうない。

 しかし代わりに、別の感覚が残っていた。


 ――誰かが、怪異を意図的に“転ばせている”。


 拾った札の欠片は、その証拠だ。


「裏言霊……何かが動いてるな」


 彼の緑の瞳が細く光り、

 教都の古い路地を静かに見つめた。

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