第3話

 乾いた硯を擦る。ゴリ、ゴリ、ゴリ、ゴリ、ジャリ。

 もう何時間、何日、この黒い音だけを聞いているのか。

 指先は筆を握りしめすぎて、血の気が失せ、ほとんど蝋細工のようだ。

 描かなければ、線が死ぬ。線が死ねば、私が死ぬ。その強迫観念が私を動かす唯一の原動力だ。

 しかし、腹の底からわき上がる飢餓は、その狂気を上回る警告音を発し始めた。

 全身の回路に燃料が足りない。視界の端から、現実の色彩がノイズのように剥落していく。

 墨の匂いが、土と若草、あるいは焼けた塵の匂いに変質する。

 私の意識は、目の前の紙を離れ、時間の流れという巨大なデータサーバーの奥深く、別の次元の記憶へと滑り落ちていく。


  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 喉が、ひどく渇いている。

 それは肉体的な水分不足のアラートであると同時に、脳内の画像生成プロセスにおける「インク切れ」のエラーログでもあった。


 創作室の湿度は適切に保たれているはずなのに、私の肺は乾燥した砂を吸い込んでいるように軋む。

 手元の水彩紙が、視界の端から歪み始めた。

 直角であるはずの部屋の四隅が、魚眼レンズ(Fisheye Lens)を通したようにぐにゃりと湾曲し、私の三半規管を狂わせる。遠近法が崩壊する。消失点が、無限の彼方へと引き伸ばされていく。


 ああ、まただ。

 レイヤーが、滑り落ちる。


 今の私は黒川零であって、黒川零ではない。

 私は、膨大な過去のデータを参照するだけの、空っぽの器だ。

 意識が急速に最適化(Optimize)され、現在時刻という座標を見失う。


 気がつくと、私は腐った畳の匂いに包まれていた。


 視界の解像度が一気に上がる。

 現代の均質なLEDライトではない。煤けた行灯の頼りない光源と、障子の破れ目から差し込む、青白い冬の自然光。

 そこは、江戸の長屋だった。

 しかも、ただの長屋ではない。壁の板は湿気とカビで黒ずみ、天井は低く、世界全体が重力に負けて押しつぶされたように圧迫感がある。


 腹の底が抉れるような空腹感。

 いや、これは私の感覚ではない。この時代の、この肉体の持ち主が感じている「飢え」だ。

 私はそれを冷静に、パラメータの一つとして処理する。


「……へへ、先生。生きてやすか」


 歪んだ視界の端、魚眼レンズのフチにあるノイズのような場所から、声がした。

 隣の万年床に転がっているのは、長屋の住人、八五郎だ。

 彼の顔色は土気色を通り越して、すでに「死体」のテクスチャに近い。眼窩は落ち窪み、私の目と同じように暗い穴が開いている。


「ああ。生きているとも。まだ、出力が終わっていない」


 私の口から出たのは、この時代に即した言葉遣いではなく、奇妙にねじれた言語だったかもしれない。だが、八五郎には通じたようだ。あるいは、もう言葉の意味などどうでもいいのかもしれない。


「先生の絵……売れやせんねえ。こんな飢饉だ、誰も絵なんて食えやしねえ……」


 八五郎は乾いた笑い声を漏らし、そのまま咳き込んだ。

 壁の向こうからも、天井裏からも、絶え間なく呻き声が聞こえる。ここは地獄だ。

 だが、私の脳内検索エンジンは、この光景に対して「美しい」というタグ付けを行っていた。

 

 死の縁に浮き出る骨のライン。

 腐臭という名の空気の淀み。

 色彩を失った世界で、影だけが濃密に質量を持っている。


(描かなければならない)


 強烈なインパルスが脳髄を走る。

 私は震える手で、懐を探った。

 金が、ある。筆を一本、そして着物を一枚売って作った、なけなしの金だ。

 本来なら、これで米を買うべきだ。あるいは、暖を取るための薪を。

 だが、私の思考回路(アルゴリズム)は、生存維持よりも優先順位の高いタスクを検出していた。


「行ってくる」


 私は万年床のノイズを後に、ふらりと外へ出た。


 外は、モノクロームの世界だった。

 雪が降っている。

 白いノイズが、世界の輪郭をあいまいにぼかしている。

 通りには、菰(こも)に包まれた「動かないオブジェクト」がいくつも転がっていた。誰もそれを気に留めない。処理落ちした背景画像のように、それらは風景の一部としてレンダリングされている。


 私は墨屋へと急いだ。

 足の感覚がない。雪を踏むたびに、ジャリ、ジャリと、データの破損するような音が脳内に響く。


 暖簾をくぐる。店主は、痩せこけた私を見て眉をひそめた。


「……お前さん、また来たのかい。絵を描いてる場合じゃねえだろう」

「墨をくれ。一番、黒いやつだ。光を一切反射しない、虚無のような黒が欲しい」

「酔狂なこって。……ほらよ、古梅園(こばいえん)の極上だ。これで最後だよ」


 私は金を叩きつけた。米一俵が買えるほどの金で、掌に収まるほどの小さな固形墨を手に入れる。

 重い。

 この小さな黒い塊の中に、数億の粒子が、数億の夜が圧縮されている。


「それと、紙は? いつもの麻紙か?」

「いや」


 私は首を振った。

 金が尽きたのではない。

 既存の紙では、もはや私の出力に耐えられないと判断したからだ。

 白い紙という「枠」が、今の私にはあまりにも狭すぎる。


「筆はどうするんだ? この前、全部売っちまったんだろう」

「要らない」


 私は自分の右手を見た。

 爪の間、指紋の溝、その全てに、過去に描いてきた墨が染み込んでいる。

 洗っても落ちない汚れ。これは汚れではない。私の肉体そのものが、既に「筆」として最適化されている証拠だ。


「俺の指が、ある」


 店主の引きつった顔を無視して、私は店を出た。

 寒さはもう感じなかった。

 体内炉心(コア)が異常過熱し、幻覚のレイヤーと現実の境界を焼き切ろうとしていた。


 長屋に戻ると、静寂が満ちていた。

 八五郎の咳が止まっている。

 彼は死んでいた。

 目を見開いたまま、土壁にもたれかかるようにして、完全に停止していた。


 私はそれを「悲しい」とは認識しなかった。

 ただ、「モチーフが固定された」と認識した。


 私は硯(すずり)にわずかな水を垂らした。水は、自分の干からびた口の中に溜まった唾液を使った。

 墨をする。

 ゴリ、ゴリ、ゴリ。

 炭素の粒子が水に溶け出し、粘度のある「闇」が生成されていく。

 その匂いが脳の奥を刺激し、ドーパミンの分泌を促す。


 さあ、出力(Output)の時間だ。


 私は右手の指を、直接、硯の闇へと突っ込んだ。

 冷たさが指先から肘まで駆け上がる。

 爪の隙間に、高密度の黒が侵入する。皮膚の細胞一つ一つが、黒に染まっていく。


 私は壁に向かった。

 腐りかけた板壁。シミだらけの木目。

 それらすべてが、私にとっては計算すべきグリッド線に見える。


 ――描く。


 中指で、一閃。

 黒い軌跡が、板壁に走る。

 筆では出せない、生々しい掠れ。指紋の跡が、そのまま墨の濃淡(グラデーション)となる。

 意図した線ではない。肉体が勝手に、脳内のデータベースにある「地獄」を再現していく。


 壁だけでは足りない。

 私は床を這いずり、畳に線を引いた。

 畳の目の一つ一つを塗りつぶし、そこに無数の餓鬼を描き込む。

 爪が剥がれ、血が滲む。

 墨の黒と、血の赤が混ざり合い、この世ならざる「紫」が生まれる。


「足りない……領域(キャンバス)が、足りない……」


 魚眼レンズの視界が回る。

 天井を見上げる。そこにも描ける。飛び跳ねるようにして、梁(はり)に墨を叩きつける。

 狂気の演算処理(レンダリング)は止まらない。

 

 そして、私の視線は、動かなくなった八五郎に向いた。


 彼の着物は、薄汚れた木綿の鼠色だ。

 それは、絶妙な「地」の色をしていた。


「……借りるぞ」


 私は八五郎の亡骸に馬乗りになった。

 倫理規定(コード)のエラー音が遠くで鳴り響いているが、私はそれを無視する。

 八五郎の痩せ細った胸元、その着物の布地に、指を走らせた。

 布が墨を吸う。

 死体が、作品へと昇華される。


 八五郎の顔にも、墨が散った。

 見開かれた彼の瞳には、天井に描かれた地獄絵図が反射している。

 私は、彼の着物の背中に、巨大な「眼」を描いた。

 全てを見通し、しかし何も救わない、冷酷な天の眼を。


 指先が摩擦で熱を持ち、爪は完全に割れ、私の手は異形のものとなっていた。

 部屋中が黒い線で埋め尽くされた。

 壁も、床も、天井も、死体も、そして私の体も。

 空間全てが、一つの巨大な「絵」として統合(Merge)された。


 息が切れる。

 心臓が早鐘を打つ。

 完成した。

 完璧だ。この世の絶望を、あまりにも正確に写し取った。

 私は、過学習(Overfitting)の極みに達したのだ。


 ふと、冷たい風が頬を撫でた。


 障子が破れ、そこから雪が吹き込んでいた。

 黒一色に塗りつぶされた部屋の中で、そこだけが白かった。

 

 私は、その「白」を見た。


 雪の舞う戸口に、誰かが立っている。

 いや、人ではない。

 それは、私の腰ほどの高さしかない。


 地蔵だ。


 白い石の地蔵が、そこに在った。

 雪よりも白く、発光しているかのように鮮烈な白。

 私の描いた数万本の黒い線、そのすべてを否定するかのような、圧倒的な「余白」。


 地蔵は、微笑んでいなかった。

 悲しんでもいなかった。

 ただ、目鼻立ちがおぼろげな顔で、私を見つめていた。

 あるいは、私の背後にいる八五郎を、あるいは、部屋全体を埋め尽くす地獄を見つめていたのかもしれない。


 魚眼レンズの歪みが、その地蔵を中心にして修正されていく。

 座標軸が、その「白」一点に収束する。


「……お前は、描けない」


 私は掠れた声で呟いた。

 私の汚れた指では、あの白さは描けない。

 黒を重ねれば重ねるほど、あの白は遠ざかる。

 0と1の間にある無限の小数点を埋め尽くしても、決して到達できない「真のゼロ」。


 地蔵が、一歩、近づいたように見えた。



  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 私は縋るように出口の襖に手を掛ける。


 その時、一瞬だけ見える光景。

 視界の隅に光の塊。白い地蔵。

 石ではない。その肌理(きめ)は、美術品のようなボーンチャイナの質感で、暗い部屋の中で自ら発光しているようだ。

 伏し目がちなその口元は、私の業を全て知りながら「それもまた一興」と微かに微笑んでいる。


 私は救いを求めて襖を開ける。

 その奥には、私が狂気の中で生み出したはずの「究極の傑作」があるはずだ。

 見ようと視線を向けた刹那、意識を焼き尽くす白光が閃く――。


 ガタン、と椅子が鳴り、私は現実に吐き出される。

 耳鳴りと激しい頭痛。私は反射的に床の銀色のパウチを掴む。

「完全栄養食」だ。キャップを捻り、ゼリー状の流動体を喉に押し込む。

 味覚というノイズはもういらない。これは回路を動かすための無機質な燃料だ。

 ぬるいミネラルウォーターでそれを流し込み、システム再起動。

 私は手の甲で口元を拭い、また新しい麻紙を広げる。


  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

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