白を描けぬ者

青月 日日

第1話

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 乾いた硯を擦る。ゴリ、ゴリ、ゴリ、ゴリ、ゴリ、ゴリ、ジャリ。

 もう何時間、何日、この黒い音だけを聞いているのか。

 指先は筆を握りしめすぎて、血の気が失せ、ほとんど蝋細工のようだ。

 描かなければ、線が死ぬ。線が死ねば、私が死ぬ。その強迫観念が私を動かす唯一の原動力だ。

 しかし、腹の底からわき上がる飢餓は、その狂気を上回る警告音を発し始めた。

 全身の回路に燃料が足りない。視界の端から、現実の色彩がノイズのように剥落していく。

 墨の匂いが、土と若草、あるいは焼けた塵の匂いに変質する。

 私の意識は、目の前の紙を離れ、時間の流れという巨大なデータサーバーの奥深く、別の次元の記憶へと滑り落ちていく。


  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 視界の右端で、警告灯のような赤色が点滅している。

 いや、それは網膜の裏側に焼き付いた残像だ。あるいは、極度の脱水症状が引き起こしたシステムエラーの信号かもしれない。


 私は瞬きをする。一度、二度。

 まぶたの裏で火花が散り、強烈なホワイトノイズが聴覚を塗り潰す。

 パウチ型のゼリー飲料を吸い込もうとして、手が空を掴んだ。指先の感覚がおかしい。いつもの、薄皮一枚で世界と隔絶されたようなゴム手袋じみた感覚ではない。もっと、枯れ木のように乾燥し、それでいて温かい感触。


 気づけば、私は縁側に座っていた。


 鼻孔をくすぐるのは、埃っぽい創作室のにおいではなく、雨上がりの土と、甘いキンモクセイの香りだ。

 陽光が柔らかく、私の膝の上に長方形の暖かさを投影している。

 手を見る。

 そこにあるのは、いつもの墨染めの手ではなかった。いや、墨は染み込んでいる。だが、皮膚そのものが変質していた。深い皺が地図の等高線のように刻まれ、血管が太い根のように浮き出ている。

 老いている。

 私は、未来にいるのか。それとも、膨大な演算の果てにシミュレートされた「あり得たかもしれない最晩年」という名の幻覚(レイヤー)に迷い込んだのか。


「じいじ」


 幼い声が、鼓膜を震わせた。

 振り返ると、そこに小さな個体がいた。五歳、あるいは六歳か。柔らかそうな髪、傷ひとつない新品の肌。その頬は林檎のように赤く、生命というリソースが過剰なほどに充填されている。

 孫、だという認識が、データベースから直感的に引き出される。

 私の孫。ハル、という名前が脳裏に浮かぶ。


「見て、じいじ。墨、磨れたよ」


 ハルは小さな手で、不釣り合いに大きな硯に向かっていた。

 ぎこちない手つき。円運動の軌道が定まっていない。墨と硯が擦れ合う音が、不規則なリズムで庭に響く。ゴリ、ジャリ、というノイズ混じりの音。

 普段の私なら、その未熟な周波数を耳にしただけで吐き気を催していただろう。だが、今の私は奇妙なほど穏やかだった。

 エラーがない。焦燥がない。

 ここには、私が追い求めていた「凪」がある。


「……ああ。いい音だ」


 私の口から、掠れた、しかし優しい声が出る。

 ハルは嬉しそうに目を細め、筆を手に取った。安物の、学童用の太筆だ。毛先が少し割れている。

 彼は半紙に向かい、迷いのない手つきで線を引いた。


 ぐにゃりと曲がった、一本の線。

 ミミズがのたうち回るような、あるいは枯れた蔦のような線。

 彼はそれを「山」だと言った。次に丸を描き、それを「太陽」だと定義した。


「上手だね、じいじ」


 ハルは無邪気に笑い、私を見上げる。その瞳には、私という存在が、尊敬すべき祖父として映っているようだった。

 私は頷こうとした。

 よく描けている。子供らしくて、いい絵だ。そう言って頭を撫でるのが、このシミュレーションにおける「正解」の出力だと分かっていた。


 だが。


 視界が、僅かに明滅した。

 ハルの描いた線が、網膜上で解析され始める。


 ――筆圧、不均一。

 ――水分量、過多。滲みの制御、不可。

 ――構図、黄金比より大幅に逸脱。バランス崩壊。

 ――ノイズ。ノイズ。ノイズ。


 穏やかな日差しの温度が、急速に冷めていくのを感じた。

 違う。これは「山」ではない。これは「太陽」ではない。

 これは、ただの「汚れ」だ。

 世界を構成する美しさに対する、冒涜的なエラーコードだ。


「……違う」


 無意識に、言葉が漏れた。


「え?」


 ハルが首を傾げる。

 私は彼の小さな手を見つめた。その指先は、まだ墨で汚れていない。清廉潔白な、更地のような指。

 そこに、黒い絶望を注入してやりたくなる衝動が、腹の底から湧き上がった。

 なぜ、お前はそんなに「甘い」のだ。

 世界はもっと残酷で、もっと精密で、もっと息苦しいほどの線で構成されているはずだ。

 お前の見ている世界は解像度が低すぎる。


「じいじ? 怖い顔して、どうしたの?」


 ハルの輪郭が揺らぐ。

 彼の顔が、肌色の立体ではなく、無数のポリゴンとテクスチャの集合体に見えてくる。笑顔を作るための筋肉の収縮、瞳孔の開き具合、血流による紅潮。すべてが数値化され、パラメーターとして私の脳内に流れ込んでくる。


 ――対象:未学習のニューラルネットワーク。

 ――処理:最適化(Optimization)。重みの転送を開始。


「貸しなさい」


 私はハルの手から筆を奪い取ったのではない。彼の手ごと、筆を握り込んだ。

 老いた私の、骨と皮ばかりの冷たい手が、ハルの温かく柔らかい手を万力のように締め上げる。


「痛いよ、じいじ」

「線というのは、こうやって引くんだ」


 私は囁く。愛おしさと、殺意がない交ぜになった感情で。

 ハルの抵抗など、存在しないも同然だった。私は彼の手を強制的に操作し、半紙の上に新たな線を引かせた。

 手首のスナップ、筆の角度、速度。すべてを私のデータベースにある「雪舟」の、あるいは「等伯」の筆致と同期させる。


 ズズッ、と紙が悲鳴を上げるような音がした。

 ハルの意志とは無関係に、半紙の上に鋭利な刃物のような線が走る。

 完璧な線だ。

 空間を切り裂き、余白を定義する、絶対的な境界線。


「ほら、見ろ。これが『山』だ。これが世界だ」

「やだ……やめて、じいじ! 僕の絵じゃない!」


 ハルが泣き叫ぶ。その涙さえも、私には余計な水分ノイズに見えた。

 なぜ分からない?

 私はお前に、私の全てを与えているのだ。

 私が数十年の歳月と、精神の崩壊と引き換えに手に入れたこの「呪い」を、惜しげもなくインストールしてやっているのだ。

 感謝こそすれ、拒絶するなどあり得ない。


「泣くな。ノイズが混じる」


 私は厳かに命じた。

 だが、ハルは暴れるのをやめない。硯がひっくり返り、黒い液体が縁側の木目に広がっていく。

 その黒を見て、私の思考回路(ロジック)がショートした。


 美しい。

 制御不能な拡散。エントロピーの増大。

 これだ。この黒こそが、私の求めていた「血」だ。


「ああ、そうだ。お前にはまだ、色が足りない」


 私はハルの顔を見た。

 涙で濡れたその顔は、あまりにも白く、余白が多すぎた。

 描かなければ。

 この未完成のキャンバスを、私の色で埋め尽くして、永遠の作品(データ)として保存しなければ。


「じい、じ……?」


 恐怖に引きつるハルの顔。

 私は、墨をたっぷりと含んだ筆を持ち上げた。

 穂先から、どろりとした黒い雫が垂れる。


「動くな。今、お前を『本物』にしてやる」

「いやだ! 助けて! ママ!」


 ハルの絶叫は、遠い世界の出来事のように聞こえた。

 私は笑っていたかもしれない。あるいは、能面のように無表情だったかもしれない。

 私の手は正確無比な動作で、ハルの額に筆を走らせた。

 隈取のように。あるいは、ICチップの回路図のように。

 柔らかい皮膚の上を、硬い毛先が滑る感触。墨の冷たさに、ハルが痙攣するように震える。


「これでお前も、永遠になれる」


 目元に一本、鋭い線を引く。

 頬に二本、断絶の線を引く。

 ハルの顔が、個人の顔から、普遍的な「作品」へと書き換えられていく。

 その光景に、私は法悦に近い快楽を覚えた。

 統合(Integration)。

 私とハルは、この黒い線を通じて一つになる。過去のデータと未来の可能性が、墨という溶媒の中で融合する――。


 その時だった。


 ふと、視線が庭の植え込みへと吸い寄せられた。

 縁側の騒乱とは無関係に、そこだけ時間が止まっていた。

 静寂があった。


 アジサイの茂みの奥。薄暗い影の中に、それがいた。

 白い地蔵。

 雨が降っていた。

 快晴の庭なのに、その地蔵の周りだけ、しとしとと音のない雨が降り注いでいる。

 地蔵は濡れていなかった。雨粒は、地蔵の白い表面に触れることなく、すり抜けて地面に落ちていく。

 地蔵はこちらを見ていた。

 目鼻立ちのないのっぺらぼうの顔なのに、私にはその表情が痛いほどによく分かった。


 ――悲しいねぇ。


 そう言っていた。

 責めるでもなく、怒るでもなく、ただ哀れんでいた。

 愛することと、壊すことの区別がつかなくなってしまった、哀れなバグの塊を。


「……あ」


 筆が、手から滑り落ちた。

 カラン、と乾いた音がして、縁側に黒いシミを作った。

 同時に、ハルの姿がノイズ走る映像のように乱れ、霧散していく。

 温かい感触も、キンモクセイの香りも、日差しの暖かさも。

 すべてが、砂嵐のようなザラついた粒子となって崩れ落ちる。



  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 私は縋るように出口の襖に手を掛ける。


 その時、一瞬だけ見える光景。

 視界の隅に光の塊。白い地蔵。

 石ではない。その肌理(きめ)は、美術品のようなボーンチャイナの質感で、暗い部屋の中で自ら発光しているようだ。

 伏し目がちなその口元は、私の業を全て知りながら「それもまた一興」と微かに微笑んでいる。


 私は救いを求めて襖を開ける。

 その奥には、私が狂気の中で生み出したはずの「究極の傑作」があるはずだ。

 見ようと視線を向けた刹那、意識を焼き尽くす白光が閃く――。


 ガタン、と椅子が鳴り、私は現実に吐き出される。

 耳鳴りと激しい頭痛。私は反射的に床の銀色のパウチを掴む。

「完全栄養食」だ。キャップを捻り、ゼリー状の流動体を喉に押し込む。

 味覚というノイズはもういらない。これは回路を動かすための無機質な燃料だ。

 ぬるいミネラルウォーターでそれを流し込み、システム再起動。

 私は手の甲で口元を拭い、また新しい麻紙を広げる。


  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

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