9話
文化祭の朝、校庭はすでににぎやかだった。
出店の準備をする生徒たちの声、音響チェックの音、看板づくりのハンマーの音が校舎中に響いている。
「橘くーん! そっち持って!」
「了解!」
史帆は明るく笑って、机の配置を指示していた。
ダンス喫茶という出し物もあって、教室内にはすでに小さな舞台と照明の準備が整っている。
香ばしい焼きそばの匂い。
揚げ物の油の匂い。
文化祭特有の混ざった匂いが漂う。
その中で──雅は静かに立っていた。
白いカーディガンに、淡い水色のワンピース。
飾り付けの紙花を整えながら、時折周囲を観察している。
(今日は……特別な日)
(橘くんと、史帆ちゃんの“初めての文化祭”)
(でも……今日が最後の文化祭になる人もいる)
雅の目は笑っていた。
けれど、その奥に揺れる光は、炎の色に似ていた。
この学校の文化祭では、食品を扱うクラスは必ずバーナーや携帯コンロを使う。
特にクレープ、焼き菓子、フランベ料理などを出すクラスが多く、火を使う教室は常に“危険性”が指摘されていた。
今年も例外ではない。
「ほら、ちゃんと火気確認して! バーナーの元栓閉めて!」
「はーい!」
先生の指示が飛ぶ。
しかし忙しい準備の中、火の元を“完全に管理”するのは不可能に近かった。
その隙を──雅は狙っていた。
(事故にしか見えないように)
(私がやったなんて、誰にも思わせないように)
(橘くんの心に……傷だけが残るように)
事故なら、誰も責められない。
炎は、真実を焼いて隠してくれる。
(昔の家みたいに)
雅は自分が最も得意な“火”を使う選択肢を躊躇しなかった。
休憩時間、史帆は雅のところへ走ってきた。
「雅ちゃん!見て見て!橘くんと一緒にダンスの練習するんだって!」
頬を染めて嬉しそうに笑う。
(あぁ……本当に……幸せそう)
雅は笑顔を作った。
「よかったね、史帆ちゃん。楽しみだね」
「うん! ねぇねぇ、見ててくれたら嬉しいな」
「もちろん」
胸に針が刺さるような痛みを感じても、笑顔は崩れない。
(本当に……楽しみなんだね)
(でも、舞台で踊るその姿が……橘くんと踊るその未来が)
(私には“許せない”んだよ)
雅は静かに瞬きをした。
午後一番。
クラス内で軽食を提供する時間帯になり、教室は大混雑していた。
バーナーの火が揺れる。
客の声が響く。
歓声や笑い声が混ざり合って、現実感が薄れていく。
教室の隅には“予備のボンベ”が数本積まれていた。
本来なら生徒の手が届かない場所に保管されるはずのもの。
(この学校は、甘いんだよね)
雅は、そのひとつに手を伸ばした。
ボンベの締まり具合を確認する。
わずかに緩めておく。
揺れれば、転がれば、倒れれば──火は自然と吸い寄せられる。
バーナー近くのテーブルには布がかかっていて、その下には紙の装飾用品が置かれている。
(紙は……よく燃える)
(布も……よく燃える)
(火は……人を選ばない)
そっと布を整えるふりをして、雅は離れた。
(あとは……タイミングを合わせるだけ)
史帆はダンス練習の直前、クレープを買うために教室の端へ向かっていた。
そのとき──雅が声をかける。
「史帆ちゃん、こっちのテーブル、ちょっと手伝ってほしいの」
「え、いいよ!なに?」
「この紙、まとめてほしいんだ。ちょうど時間ある?」
「もちろん!」
史帆は笑顔で雅の横に座る。
(うん……来てくれた)
(今日一番の、いい子だね)
雅の顔は変わらず穏やかだった。
その時だった。
「ちょ……誰か!ボンベ倒したぞ!」
バランスを崩した男子生徒が、ボンベの積み上げを蹴ってしまった。
金属音が鳴り響き──
緩められたボンベが、ゆっくりと横に転がっていく。
「えっ……?」
史帆が振り向いた。
次の瞬間。
ボンッッ!!!
乾いた破裂音。
バーナーの火が勢いよく横に伸び、布へ燃え移った。
「きゃああああ!!」
「火だ!!」
火は布を舐め、紙へ吸い寄せられるように燃えていく。
一瞬で一角が火柱になり、煙が上がる。
「走れ!!出口こっち!!」
生徒たちがパニックになって逃げ惑う。
そして──
雅は史帆の腕を掴んだ。
(ごめんね)
(でも、あなたがいると……私、生きられないの)
雅は史帆の動線を塞ぐように立ち、
教室の入口までの通路から彼女を外す。
「えっ……雅ちゃん!? 行かなきゃ──」
「行かなくていいよ」
笑顔のまま、雅は言った。
「ここにいて」
炎が天井を這い上がる。
煙が視界を奪っていく。
「雅ちゃん……? いやだ……助け……」
「大丈夫。怖くないよ」
あの日、自分が見た炎と同じ色を、雅は見つめていた。
「火はね……全部綺麗にしてくれるから」
史帆の叫び声が、煙の向こうでかき消えていく。
数分後、教師たちが駆けつけ、消火器を使って火を抑えた。
しかし──史帆が逃げ遅れ、
教室の奥で倒れているのが見つかった。
「中村!!中村ー!!」
救急車が呼ばれ、学校は大騒ぎになった。
雅は、炎の反射で揺れる眼をただ見開いていた。
その表情は“驚きと悲しみ”だった。
そう、誰が見ても。
彼女の手は震えていた。
その震えが“演技”なのか“興奮”なのか、誰にも分からない。
史帆は救急搬送された。
だが搬送先で──
死亡が確認された。
学校中が泣き叫ぶ声とざわめきに包まれた。
文化祭は即中止。
全校集会が開かれ、校長は震える声で“事故”を説明した。
「火元は……バーナー付近で……生徒が誤って……」
誰もが混乱した。
恐怖し、涙を流し、事態を受け止められずにいた。
ただひとり、雅を除いた全員が。
(全部……燃えた)
(この学校も──この恋も──)
(でも、私の世界は……取り戻せた)
雅は静かに息を吐く。
(あとは……昂輝くんを慰めるだけ)
(昔、私が救われたみたいに……今度は私が救うの)
火の匂いが、雅の心を落ち着かせた。
(大丈夫。全部うまくいく)
消息を知らされた昂輝は、その場に崩れ落ちた。
「なんで……なんで……」
「俺の周りは……なんで……」
「もう嫌だ……誰も……守れないじゃないか……」
その声はかつてないほど弱く、折れた。
雅はゆっくりと近づいた。
「……橘くん」
涙を浮かべた目で、雅を見た。
「雅……俺……俺……っ……」
雅はその頬にそっと触れた。
「大丈夫。私がいるよ」
その瞬間、昂輝は雅の肩にすがるように泣いた。
雅はその頭を優しく撫でた。
(そう……これでいいの)
(私だけが、あなたの支えになればいい)
(史帆ちゃんは、もういない)
(あなたの世界には、私しかいない)
雅は微笑んだ。
炎のように美しい、冷たい微笑みだった。
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