3話
孤児院──正式名称は「つばさの家」。
外観は古いが、木材の匂いが落ち着きを与え、優しい色のカーテンがかかった窓からはいつも光が差し込んでいた。
職員たちはおおむね親切で、子供たちの数も多い。
だが、その“賑やかさ”は同時に、心に傷を負った子供たちにとっては残酷でもあった。
ここで生きていくには、
「普通であること」
「周囲と上手に接すること」
が、ひとつの生存術だったからだ。
問題児はすぐに浮く。
暗い子は無視される。
泣いてばかりの子は疎まれる。
そんな世界で──雅は、最も目立ってしまうタイプだった。
雅がつばさの家に入った日。
薄いグレーのワンピースに身を包み、表情のない顔で玄関に立っていた。
院長の女性は優しく声をかけた。
「雅ちゃん、今日からここが新しいお家よ。よろしくね」
しかし雅は、返事をしない。
怯えているのではない。
“心を閉ざしている”という方が正しい。
子供たちはそんな雅を遠巻きに見て、すぐにヒソヒソと噂を始めた。
「なんか暗くない?」
「挨拶もしないの?」
「変な顔してる……やばくね?」
子供の残酷さは、悪意がないぶん鋭さを増す。
雅はそれに反応せず、ただ俯いて歩いた。
その無反応が、また彼らの興味と嫌悪を煽る。
「あいつ、ぜんっぜん喋らないよな」
「なんかムカつく」
「無視してんの?俺らのこと?」
些細なことが原因で、人間関係は容易くねじれる。
雅はすぐに標的にされた。
物が隠される。
机を蹴られる。
椅子を引かれる。
給食を奪われる。
それでも雅は、痛みに顔をしかめながらも声をあげることができなかった。
“叫んでも、誰も助けてくれない”
という経験を、家で嫌というほど積んできたからだ。
(……ここでも私は……必要ないんだ)
雅の心は、ますます冷えていった。
一方、昂輝もまた新しい環境に馴染んでいたわけではなかった。
両親を火事で失ったばかり。
心にぽっかりと穴が開き、夜中には焼けた匂いを思い出しては泣く日々。
「父さん……母さん……」
ベッドの上で声を殺しながら泣く少年を、職員の大人はいたわったが、
同年代の子供たちはどう接していいかわからない。
「……なんか話しかけづらいよな」
「かわいそうだけど、どうしたらいいかわかんねぇ」
そうして昂輝も、自然と“他人と少し距離のある存在”となっていた。
しかし昂輝の心には、
「誰かを助けたい」
という強い願いがあった。
両親を守れなかった後悔が、少年を優しく、そして強くした。
その日、雅は食堂で三人の男子に囲まれていた。
「なぁ無視すんなよ。なんか言えよ」
「こいつマジでキモくね?」
「お前さぁ、なんか悪いことしてない?態度ムカつくんだよ」
雅は震えながら俯く。
乱暴に肩を押されて倒れた拍子に、手から落ちたパンが床に転がった。
「あっ、落としちゃったなぁ〜? お前の夕飯どうすんだ?」
「拾えよ。犬みたいにさ」
男子たちは笑いながら雅を蹴る。
雅は声をあげない。
あげられなかった。
ただ耐える。
それが“家”で身につけた生き方だった。
(……痛い……痛いよ……)
(でも、叫んじゃだめ……叫んだら、もっと……)
思考が固まっていく。
世界が暗くなりかけるその瞬間──
「やめろ!!」
食堂に響く、大きな声。
雅が顔を上げると、
そこに立っていたのは、夕陽の逆光に照らされて少し眩しい少年──橘昂輝だった。
昂輝は息を荒げ、拳を握りしめていた。
「何やってんだよ!女の子に!ふざけんな!」
「なんだよ橘、お前関係ねぇだろ!」
「関係あるよ!!」
怒鳴り返す昂輝の声は震えていたが、そこには確かな強さがあった。
「やめろって言ってんだよ。雅ちゃん、怪我してるじゃん!」
男子の一人が舌打ちをして言う。
「……ちっ、ばっかじゃねーの。弱いもん庇ってヒーロー気取り?」
「ヒーロー気取りでもいいよ。
でも、悪いことしたやつを見て見ぬふりするほうがダサいだろ」
いつもは静かで控えめな昂輝のその言葉に、男子たちは押される。
周りの子供も騒ぎ始め、ついに三人は面倒くさそうに去っていった。
「ちぇっ……あほくさ。行こーぜ」
騒ぎが遠ざかると、静けさが戻る。
雅は床に倒れたまま、動けなかった。
呼吸が浅くなっていく。
(……どうして)
(どうしてこの人は、私を……助けるの……?)
昂輝はそっと雅に近づき、手を差し伸べた。
「大丈夫?起きられる?」
雅は反射的にその手を避けようと身を縮めた。
叩かれる、蹴られる、怒鳴られる──そんな未来が条件反射で浮かぶ。
しかし、昂輝の手はただ優しくそこにあった。
「怖かったよね……ごめん、助けるの遅くなって」
その声はあまりにも柔らかくて、雅は理解が追いつかなかった。
(……ごめん?)
(この人、私に……謝ってるの?)
今まで誰かに謝られることなど、一度もなかった。
そんな優しさは、雅の世界になかった。
思考が混乱し、涙が滲んできた。
「痛いところ、ない……?」
その問いかけは、雅にとって
“世界のすべてが反転するほどの衝撃”
だった。
胸の奥で、何かが弾けた。
(あ……)
(この人……私を、見てくれてる……)
(私の痛みを……ちゃんと、見てくれてる……)
雅は初めて、自分が“透明じゃない”と知った。
その瞬間、幼い少女の心は強烈な光で染め上げられる。
その光は、やがて執着という名の炎となる。
雅は震える手で、そっと昂輝の差し出された手を掴んだ。
温かい。
血が通っている、優しい手。
その温もりが、家で受けた冷たさを一気に溶かしていくようだった。
(この人のそばにいたい……)
(この人だけは私を見てくれる……)
(この人が、私を救ってくれた……)
そして──
(だったら、私は……この人のために生きる)
(もう二度と、この手を離さない……)
(この人を失わないためなら……なんだってする)
雅の中で“愛”と“執着”が完全に混ざり合い、
ひとつの歪んだ決意として固まった。
---
こうして二人の運命は交差し、
雅は昂輝という“生きる理由”を手に入れた。
そしてこの瞬間──
雅の狂気は、静かに、確実に芽吹き始めた。
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