第4話 師匠の本気
それからの毎日は、さらに忙しくなった。
勉強の合間に、体を動かす時間が増えた。
「ほい」
「うわっ!」
ジージが軽く足を払ってくる。
僕はあっけなく畳の上に転がされた。
「今のは、足の運びが雑じゃ。相手の重心をよく見なさい」
「じゅ、重心ってなに!」
「どこに力が集まっとるか、ということじゃ。こう、今のわしなら――」
ジージは、すっと構えを変える。
猫が獲物を狙う前みたいな、低い姿勢。
でも、身体全体がふわっと軽くなったようにも見えた。
「ほれ」
さっきよりもずっと小さな動きで、僕はまた畳に転がされた。
「いったぁ……」
「痛いか?」
「痛い!」
「なら、よく覚えておきなさい。その痛みは、次に同じ目に遭わないための勉強代じゃ」
ジージの言葉は、いつも優しいのに、芯があった。
僕は泣き言を言いながらも、何度も立ち上がった。
転んで、立って、また転んで。
汗が目に入ってしみる。
息が上がって、喉が焼ける。
それでも、嫌だとは思わなかった。
むしろ、痛みと疲労で頭の中が真っ白になる時間だけは、あの日の光景を思い出さずに済んだからだ。
三年が経つ頃には、俺はジージと簡単な組み手ができるようになっていた。
「はっ!」
ジージの腕を掴んで、体重を乗せて投げる。
老人の身体がふわっと宙を舞い、畳の上に軽やかに落ちる。
自分でもびっくりするくらい、うまく決まった。
「おお、やるの」
周りで見ていた大人たちが、感心したように口笛を吹く。
「坊主、すげぇな……」
「ジージが本気出したら、こんなもんじゃねぇんだろうけどな」
その言葉が、耳に引っかかった。
俺は畳の上で息を整えながら、ジージを見下ろす。
「ジージ」
「なんじゃ?」
「一度、本気で相手してほしいんだけど」
ジージの表情が、一瞬だけ固まった。
俺は続けた。
「本気で戦ってよ」
それは、尊敬と憧れから出た言葉だった。
あの日、何もできなかった自分から、一歩でも遠くに行きたい。
今の自分が、どれだけ通用するのか知りたい。
そんな気持ちが、無意識に口をついて出ていた。
ジージは、ゆっくりと起き上がる。
そして、少しだけ目を伏せた。
「……本気、のぅ」
道場の空気が、変わった。
さっきまで柔らかかった空気が、刺すように冷たくなる。
大人たちが、息を呑む気配がした。
ジージは、立ったまま深く息を吐く。
背筋が、ぐっと伸びた。
いつもの少し猫背の、おじいちゃんの姿勢じゃない。
全身から、静かな圧力が溢れ出す。
「じゃあ……“少しだけ”じゃ」
ジージが、一歩前に出た。
その瞬間――
空間が赤く黒くゆがんだ。
「……え?」
耳も元で誰かが叫んでいる
悲鳴?
ジージーの体から邪悪な気配が
と思った次の瞬間には、背中に気配を感じた
振り向く前に、首筋に冷たい何かがそっと触れた感覚がした。
刃じゃない。
でも、もしそれが刃だったら、その一瞬で首が落ちていただろうと思うくらいの“気配”。
全身の毛が逆立つ。
呼吸が止まる。
膝が笑って、畳に崩れ落ちそうになる。
「もう、いいかな?」
耳元で、ジージの声がした。
さっきまでのおじいちゃんの声じゃない。
もっと低くて、硬くて、冷たい声。
身体が反応する前に、心が折れそうだった。
「ひっ……」
情けない声が、喉から漏れる。
足ががくがく震えて、ついにはその場に尻もちをついた。
その瞬間――
ジージの気配がふっと和らいだ。
「おおっと。……すまんすまん」
いつもの柔らかい声に戻っている。
振り向くと、ジージが困ったように眉を下げていた。
「やりすぎた。怖かったろう?」
俺は、うまく言葉が出せなかった。
ただ、肩で息をしながら、ジージを見上げる。
本当に同一人物なのか疑いたくなるくらい、雰囲気が違っていた。
「ごめんな、ごめんな」
ジージは、俺の肩をそっと抱き寄せた。
胸に顔を押し付けられて、ジージの心臓の音が聞こえる。
ドクン、ドクン、と規則正しく鳴る音。
その音に合わせて、俺の震えは少しずつ収まっていった。
「今のが……ジージの、本気……?」
「いや、本気なら、おまえはとっくにここにはおらん」
ジージは冗談めかして笑った。
でも、その言葉の裏にある“真実”は、冗談ではなかった。
「おまえには、まだ見せとうないものも、たくさんある」
「でも、俺……」
悔しさが込み上げてくる。
抗おうとしたのに、身体が勝手に逃げた。
怖さに負けた。
あの日と、同じだ。
目の前に“死”が見えた瞬間、俺は動けなくなる。
「強くなりたいって、言ったのに……」
唇を噛む。
涙がにじむ。
ジージは、そんな俺の頭を優しく撫でた。
「今のままでも、おまえは充分強いよ」
「うそだ!」
思わず叫ぶ。
「俺、あの日……何もできなかった! 家族、守れなかった!」
言ってはいけない言葉を、自分でこじ開けてしまった感覚がした。
ジージの手が、一瞬止まる。
それから、ゆっくりまた動き出した。
「――六歳の子どもに、何ができる?」
ジージの声は、とても静かだった。
「おまえは、あの日、生き残った。それだけで、十分だ」
その言葉が、逆に胸を刺した。
「生き残っただけ、だよ……」
家族はみんな、死んだのに。
俺だけが、こうして綺麗な部屋で、あったかいご飯を食べて、生きている。
その事実が、時々ひどく重く感じる。
「だからこそ、おまえは強くならにゃいかん」
ジージの腕に、少しだけ力が込められる。
「おまえが強くなれば、その分だけ誰かが助かるかもしれん。」
「……あの日のおまえは、何もできなかったかもしれんが、
これから先も何もできんままかどうかは、おまえ次第じゃ」
その言葉が、胸の奥にずしりと落ちた。
あの日の俺は、何もできなかった。
でも、これからの俺は、変われるのかもしれない。
変わらなきゃいけない。
そうじゃなきゃ、家族に顔向けできない。
「……ジージ」
「なんじゃ?」
「もっと、強くなりたい」
さっきよりも、ずっとはっきりと言えた。
震えながら、それでも目を逸らさずに。
ジージは、少しだけ笑った。
その笑顔は、いつもの“じいちゃんの笑顔”とは少し違った。
どこか、覚悟を決めた人の顔だった。
「――よし」
ジージは立ち上がる。
「なら、ここから先は、“逃げるな”」
その言葉は、俺に向けられているだけじゃない気がした。
ジージ自身にも、そしてひょっとしたら、この屋敷全体に向けて言っているみたいだった。
俺は、畳に膝をついたまま、ジージを見上げる。
あの日、赤い髪の女に抱きしめられたとき、俺の時間は一度止まった。
家族を失った六歳の俺の心は、その瞬間から、感情を閉ざすことで自分を守ろうとした。
でも、今。
ジージの背中を見上げながら、胸の奥のどこかで、何かがゆっくりと動き出していた。
それが、この先どんな形に変わっていくのか。
そのときの俺は、まだ知らなかった。
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