第9話 主犯の崩壊

 その夜、優斗は眠れなかった。


 封筒の一行が、まぶたの裏に焼きついて離れない。


「卒業式の日、どうして笑ったの?」


 なぜそれを知っているのか。

 見られていたのか。

 誰が、いつ、どこで──。


 思考が堂々巡りし、ついには答えが出ないまま、夜が明けた。


 翌朝、彼のスマホに再びDMが届いていた。


「今日、話せる?」


 優斗は、気づけば「はい」と返信していた。

 逃げ場を失った動物が、自分から罠へ入っていくように。




 場所は、繁華街からすこし離れた通りの一角にあるカフェ。

 

 優斗は、ひどく汗をかきながら歩いた。

 耳鳴りがして、足がふらつく。


「なんで……俺がこんな……」


 誰に聞かせるでもなく呟き、ポケットの中で震える手を握りしめる。


 カフェのドア前に立つ。


 優斗は、ゆっくりと木の扉を押し開けた。




「……久しぶりだね、優斗くん」


 一番の奥から、静かな声が響いた。


 カフェの照明はあるけれど、薄暗い店内のボックス席に座り

 こっちを見ている女性。


結衣だった。


 十年分の距離を感じさせない。

 だが十年分の“変化”は、ひと目で分かった。


 あの頃の、弱くて、触れたら壊れそうな少女ではない。


 影をまとい、揺るぎない意志を秘めた目だった。

 静かだが、底が見えない。


「……結衣?」


 優斗の声は震えていた。


 結衣の元へゆっくり歩み寄り、ボックス席の外で立ち止まった。


「来てくれたんだね」


 その微笑みは、優しさの形をしていた。

 だが、優斗は直感した。


 これは“あの笑顔”ではない。


 これは、

 自分たちを追い詰めた者の笑顔だ。



「座って」

「なんで……なんで今さら俺に会いたいんだよ……!」


 優斗の声は裏返り、怯えが滲んでいた。


 結衣は、まるで傷付いた少女を諭すようにゆっくり言った。


「ずっと聞きたかったの。あの日、どうして笑ったのか。」


「……見てたのか……? あの時……」


「ええ。聞いてた。全部」


 優斗は崩れ落ちそうになった。

 結衣は続ける。


「あなたの“優しさ”は嘘だった。操るための餌だった。

 あなたはそう言ってた。」


「ち、違う……あれは……! ただ、みんなが……空気が……!」


「“空気”のせいにする?」


 結衣の声が、一瞬で冷えた。

「蓮も、諭も、綾香も、紗耶香も。みんな同じことを言ってたよ。

 “自分は悪くない。周りが悪い”。」


 優斗は後ずさった。


「ち、違う……違う………俺は……俺はそんな……!」


 しかし結衣は一歩踏み込み、優斗の目を真っ直ぐに見つめた。


「じゃあ、ほんとうは?」


 その問いは、逃げることを許さない刃だった。




 優斗の呼吸が乱れ、額から冷や汗が流れ落ちる。


「俺は……俺は……ただ……みんながやってるから……」

「“ただ”ね。」


 結衣は静かに笑った。


「その“ただ”が、誰かの十年を壊すんだよ。」


 優斗の喉がひくりと震えた。


「ご……ごめん……」


結衣はにこやかに顔を寄せる。

「違うよ。謝ってほしいんじゃない」


 結衣の声が急に、深い底から響くように変わる。


「あなたが、怖がればいい。

 あなたが、怯えればいい。

 あなたが、自分の心に飲まれればいい。」


 その瞬間、優斗は理解した。


 綾香も、蓮も、紗耶香も、諭も──

 結衣は“壊した”のではない。


 彼ら自身が抱えていた弱さや罪悪感を、

 結衣が鏡のように“表面化”させただけなのだ。


 そして今──

 結衣は優斗の“鏡”になっていた。


「優斗くん。本当に聞きたいのはただひとつ。」


 結衣は優斗の目の前まで顔を近づけ、目線を合わせた。

「あの日、私をどう思ってた?」


 優斗の顔がゆがみ、唇が震えた。

「……お前なんか……どうでもよかった……」


 一言漏らした瞬間、優斗の表情が変わった。

 言った本人が、最も驚いていた。


 それが“本音”だったから。


 結衣はゆっくりと微笑む。

「うん。それが聞きたかったの」




 その時、結衣はポケットから一枚の紙を取り出した。

 優斗の胸へ、そっと置く。


「ここに書いてある場所、知ってるよね」


 優斗が震える手で紙を見ると、

 彼の自宅の住所

 そして

 家族が普段いる時間帯

 が書かれていた。


「な……なんだよ……これ……!」


「私は何もするつもりはないよ。」


 その言い方は、優しくて、なおさら恐ろしかった。


「でもね。“あなたの後悔”がこれからどう変わるかは、あなた次第」

 結衣は冷たく言い放つ


 優斗は叫んだ。

「やめろ!! なんでだよ!! お前、なんでそんなこと──!」


 結衣はそっと囁いた。

「十年前、あなたが私にしてくれたことを返してるだけよ」

 優斗の顔をやさしく手で撫でながら・・・しかしその手は氷のように冷たい。


 彼はゾクッと背中に氷を流し込まれた感じがした。


 その瞬間、優斗の心の中で何かが崩れた。


 罪悪感。

 恐怖。

 後悔。

 自己嫌悪。


 それらが渦のように巻き込み、理性を吹き飛ばした。


 優斗は頭を抱え泣き叫んだ。


「ごめん……ごめん……ごめん……!!」


 結衣は、その姿を静かに見つめるだけだった。




 優斗の嗚咽を背に、結衣はゆっくりとカフェを後にした。


 外は、澄んだ冬の風が吹いていた。

 街の灯りは遠く、星だけが静かに光っている。


 結衣は初めて、長く深い息を吐いた。


「……これで、やっと終わり」


 その表情は、復讐を果たした者のものではなかった。


 ただ、ようやく“十年前の自分”を手放せる人間の顔だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る