第4話 名簿の赤い印

同窓会の参加を押した夜から、眠りは浅くなった。

過去が静かに、しかし確実に息を吹き返し、私の首筋に冷たい呼気をかけてくる。


 ――けれど、逃げるつもりはなかった。


 帰宅途中のコンビニで買ったノート。

 表紙は黒。

 表題は何も書かない。

 ただのメモ帳に見えるように。


 今の私に必要なのは、“痕跡を残さないこと”。


 部屋の灯りを最小まで落とし、私はノートを開いた。

 机の上に置いたのは、十年前の卒業アルバム。

 開いた瞬間、胸の奥で小さく軋むような痛みが走る。


 写真の中で、みんなは笑っていた。

 私を囲む、あの輪。

 私を押しつぶした、あの空気。


 ページをめくるたび、心がひりつく。

 でも――視線が止まる場所は、決まっていた。


 いじめに加担していた者たち。

 その中心にいた佐伯優斗。


 私は一人ずつ、名前を書き出していった。

 ノートの黒いページに、細い赤のボールペンで。


 小さな丸印をつける。

 その赤はまるで、血のように見えた。


「……一人目」

 声が、驚くほど落ち着いていた。


 同窓会の名簿には、参加者の現在の職業や近況が丁寧に記載されていた。

 十年という歳月が、彼らを“普通の大人”にしているように見える。


 しかし――私は知っている。

 “過去は、忘れた者から腐っていく”ということを。


 名簿にはSNSのアカウントへのリンクも貼られていた。

 企業が管理する公式連絡だから、その情報は信頼できる。


 私は一人目の加害者のページを開いた。

 俯いた笑顔の、あの女子・綾香。

 昔は他人に影に隠れて私を笑い、机に落書きをしていたくせに。

 今は“真面目で誠実な私”を演じて、婚活中らしい。


 プロフィールには、

「誠実な方が好きです」

「嘘をつかない人が理想」

 と書いてある。


 ――笑わせないで。


 私はノートに細く線を引いた。

 その線が、ひどく冷たく感じられた。


 復讐は衝動でするものじゃない。

 感情で動けば、破綻する。


 だから調べる。

 弱みを探す。

 “真実”で彼らを崩す。

 そうすれば、犯罪にはならない。

 ただ、事実が彼らを壊すだけだ。


 その時、背後から小さな着信音が鳴った。

 スマホに届いたメッセージ。


 差出人は――紗良。


『結衣さん、今日無理してない?何かあったら、私に言ってね。』


 胸が少しだけ温かくなった。

 私は返信を打とうとして、手を止めた。


 あの頃の私なら、助けを求めて泣きついていたかもしれない。

 でも今は違う。


 紗良は“味方”だ。

 私が倒れそうになったとき支えてくれる存在。

 けれど――この復讐の渦に、彼女を巻き込むつもりはなかった。


『ありがとう。大丈夫。明日、また話そうね。』


 送信してスマホを置くと、静かな部屋に時計の針がやけに鋭く響いた。


 私は再びアルバムに視線を戻す。


 二人目。

 三人目。

 四人目。


 赤い丸が増えるたび、不思議と心が落ち着いていく。

 まるで十年前の自分が、少しずつ救われていくような感覚。


 そして最後のページ。


 写真の中央には、眩しい笑顔の少年がいた。

 佐伯優斗。

 クラスの中心で、皆から慕われ、教師の信頼も厚かった“優等生”。


 私の心を最後に折った、主犯。


 名前の横に、私は印をつけなかった。

 赤では足りない。

 この男には、別の色が必要だ。


 ゆっくりと、黒いペンでその名前に“×”を引いた。


 その瞬間、胸の奥で凍っていた何かが、確かに音を立てて割れた。


 復讐は始まった。

 もう後戻りしない。

 次は――動く番だ。


 私の十年越しの“卒業式”のために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る