第46話「王の影」
王都ヴァルハルゼン――。
北方の霧に包まれた石造りの街は、朝を迎えてもなお薄暗く、北方の都市らしい冷気が石畳を這っていた。
城門の上では衛兵たちが交代の号令を掛け、遠くからは鍛冶場の鉄槌の音が響いている。
だが、城の奥――王の居館にだけは、別の静けさがあった。
白大理石の床を踏みしめ、書記官たちが次々と羊皮紙を運び込む。
重臣たちは半円に並んで低く囁き、机の上には封をされた書簡が山のように積まれていた。
その中に、一通の報告書が差し出される。
「グリモー・ハルデン侯爵よりの報告にございます!」
伝令の声に、王グラウベルトは手を止めた。
長く整えられた黒髪を揺らし、重い椅子の背にもたれる。
その瞳は、冷たい湖面のように濁りなく、しかし何の情も映していなかった。
王が封を切ると、広間の空気がぴんと張りつめた。
蝋封の割れる乾いた音が、やけに大きく響く。
――隠し砦、山賊に襲撃され壊滅。
――銀毛の獣の介入あり。
――正体不明。
読み上げられる内容に、文官たちは小さくざわめいた。
王は眉一つ動かさず、ただ静かに指先で文面をなぞる。
「……銀毛の獣、だと。」
脇に控えていた老参謀が、一歩前に出た。
「陛下。それは聖獣かもしれませぬ」
王は低く鼻を鳴らした。
「聖獣、か。敗戦の言い訳としても下らん」
そう言いながらも、ほんのわずかに口元が引き結ばれる。
彼の脳裏には、古の記録の一節が浮かんでいた。
——“白き獣は真なる王を選び、その加護を受けし国は栄え、敵国は滅ぶ”。
王は乾いた笑みを浮かべる。
「王を選ぶ獣など、笑止千万だ。人が獣に選ばれるものか。」
老参謀は静かに首を垂れた。
「しかしながら陛下、伝承というものは往々にして、民の心に深く残るものでございます。存在が囁かれれば、兵の士気にも影響が――」
「結果を見せつければ良い。敵に聖獣がいたとしても、それに勝てばかえって士気は上がる」
グラウベルトは冷たく笑いながら言った。
「だが……障害になるようなら手を打たねばならんな」
立ち上がった王の背後、壁に掲げられた地図には、太い赤線で国境が描かれていた。
その先に広がる緑地――ラグリファル王国の領土。
彼はその一点を鋭い指先でなぞる。
「国境の補給路は整った。あと少しで準備は整う。」
「計画に変更はないのですな?」
「当たり前だ。言い伝えなんぞに振り回されてたまるか」
老参謀が深く頷いた。
「仰せのままに。」
その声を背に、王は視線を窓へ移した。
遠く雪を戴く山脈の向こうに、王の望む豊かな土地が横たわっている。
それを手に入れるため、ヴァルハルゼン王グラウベルトは謀略を巡らす。
「結局のところ、力を持つのは人だ。獣でも伝承でもない。」
冷たい光が玉座の金飾りを照らした。
***
侯爵領ハルデン――。
グリモー・ハルデン侯爵は、厚手の帳面を閉じ、長く息を吐いた。
机の上には空になった杯と、すでに封を終えた書簡の控えがある。
「王はまだ何も言ってこぬか?」
侯爵が問うと、傍らの執事は首を横に振る。
「まだお返事は届いておりません。ですが、いずれ――何らかの動きがございますでしょう」
「……やはり、そうか。」
侯爵は額を押さえた。
砦は既に移した。だが、王がそれをどう受け取るかは分からない。
隠し砦の存在を敵に知られたかもしれない、これは大きな失態だ。
執事は静かに言う。
「銀毛の獣――おそらく、古き聖獣の血を引く存在かと」
「やめろ、執事。そんなものは言い訳にならん」
「しかし旦那様。あの地に伝わる話を、ただの迷信と切り捨ててよいものでしょうか」
侯爵は黙り込む。
あの戦を任せた指揮官は、確かに信頼できる人物なのだ。
だがグラウベルト王に報告するには余りに不確かで、黙っておくには異質過ぎる。
彼はただ、もう一度小さく息を吐いた。
「……グラウベルト様のご不興を買わなければよいが」
***
その夜、王都ヴァルハルゼン。
王の間には蝋燭の炎がゆらりと揺れ、壁に影を落としていた。
「何事も、こちらの思惑通りに進んでいる。」
グラウベルトは地図の前に立ち、低く笑う。
「隠し砦が見つかったのはグリモーの落ち度だが……すでに移したと聞く。さほど支障はない」
老参謀が控えめに言葉を添えた。
「国境への輸送も問題ありません。兵の士気も上々にございます」
「よかろう。」
王は手を背に組み、静かに目を細めた。
「すべては、我が手の中にある」
外では風が吹き、黒い雲が月を覆い隠す。
北の国境に、悪意に満ちた危機が迫っていた。
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