第44話「氷の守護」

敵兵が弓を引き絞る。

リディアは、息を荒くしながらルナの前から退こうとはしない。

そんなリディアに、ルナは慈しみの目を向けた。


その瞬間、リディアの背後で淡い光が広がった。

ルナの瞳が青白く輝き、風が唸りを上げる。

遠くの山肌から黒雲が湧き、たちまち空を覆い尽くした。


――ひゅう、と風が鳴き、次の瞬間、氷の粒が大地を打った。

乾いた音が斜面を埋め尽くし、弓兵たちが悲鳴を上げる。

「な、なんだ!? 空が――」

「雹だ! 退け、馬を抑えろ!」


雹は、山賊の拠点の外側だけを正確に打ち据えた。

山賊の本陣には一片の氷も落ちてこない。

まるで空が敵と味方を選び分けているかのようだった。

ルナの毛並みに小さな氷片が散る。

その身は微かに震えていたが、瞳はまだ力強く輝いている。

リディアは思わずその背に手を伸ばした。


「ルナ……あなたが……?」

返事の代わりに、ルナは低く喉を鳴らした。

その音は、戦場の喧噪の中で不思議と温かく響いた。


前線では、ガロとヴォルドがすでに動いていた。


「今だ! 行け、押し返せ!」


ガロの声に呼応し、山賊たちが突撃する。

混戦状態の前線には、雹は降っていない。

だが、後ろで起こっている異変は伝わってきている。

侯爵の兵は浮足立ち、混乱は一気に広がった。


「深追いする必要はない!向かってくる敵だけを突け!」


ヴォルドの命令で、仲間たちは武器を構えて油断なく敵を見据えた。

雹に怯える敵兵もその言葉を聞き、逃げ出すものが増えていった。


リディアは辺りを見回し、怪我をしている者の様子を見ていった。

リディア自身も血を滲ませているが、大した傷ではない。


「大丈夫、もう少し……もう少しで終わるわ」


彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。

その頃には、敵の半数がすでに退き始めていた。


「くっ!やむを得ん!撤退だ!」


指揮官が叫び、隊列は雪崩のように撤退を始める。


その背を追うように、ガロが剣を肩に担ぎながら息をついた。


「ふん……逃げ足だけは早ぇな」


ヴォルドが悔しそうに言う。


「あの指揮官は倒しておきたかったが……」


「無理をすると犠牲が増えるぜ」


「それもそうだな」


二人が話している間も、ルナは雹を降らせている。

その雹は、今度は山を燃やそうとする火の勢い弱めていき、やがて完全に鎮火した。


雹が降りやんだ時、リディアはルナのもとへ駆け寄った。

ルナはまだ目を開けており、荒い呼吸をしていたが、意識は確かだった。


「ありがとう、ルナ。結局頼ってしまったわね……」


リディアが少し申し訳なさそうに言う。

すると、一緒に裏で戦っていた山賊が


「姐さんもその子を守ってたじゃないっすか。随分強くなったっすねえ」


と言ってくれた。

ルナもそれに同意するように小さく喉を鳴らし、その山賊に近づいて顔を舐める。


「わわ!かわいいっすねえ、こいつ」


山賊は、そう言いながらルナの頭を撫でる。

ルナはわずかに目を細めて、今度はリディアの顔を舐めた。

リディアも、心からの感謝と愛情をこめてルナの頭を撫でてやった。


「やっぱり姐さんに撫でられるのが一番気持ち良さそうっすねえ」


その山賊が、少し悔しそうに言う。

その言葉を聞いて、リディアの胸に温かなものがこみ上げた。


「あなたがいてくれてよかった。本当に」


白い吐息が重なり、空にはまだ薄い雲の名残が漂っていた。


***

――そして翌朝。

戦の報告を、グリモー・ハルデン侯爵が聞いていた。


「雹が一点にだけ降った……?」


指揮官の報告を聞きながら、ハルデン侯爵は眉をひそめた。


「山賊どもを避けるように降る雹?そんなバカな!」


失敗するはずのない兵力を与えたのだから、侯爵の苛立ちも当然だろう。

背後に控える執事が静かに言葉を添える。


「人間業とも天の仕業とも思えませんが……銀毛の獣と言うともしや聖獣かもしれませんな」


侯爵は口の端を歪めた。


「聖獣?何だそれは。負けた言い訳ではないのか」


指揮官は何も言い返せずうなだれているが、執事が助け舟を出す。


「その加護を得た者は国を守る盾となり、幾度もの戦乱から人々を救ったという言い伝えがございます。もしその銀毛の獣が聖獣なら……」


「ふ、国を守る……か。つまり我々の邪魔になるかもしれんのだな」


「ヴァルハルゼン王にお伝えしたほうが良いかと」


「隠し砦も移動させておこう。決起の時も近いことだし、もっと街道に近い方が良い。長くいるわけではないから兵糧とテントの移動くらいで良かろう。お主、敗戦の咎は追わぬ故責任を持って移動を遂行せよ」


「ははっ!」


指揮官は、赤い絨毯にひざまずいて誓った。

その赤が、まるで新たな血の幕開けを暗示しているようだった。

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