監察官と女将軍~蜜毒の盤上戦~

ぐるた眠

第1話 美貌の毒

 辺境の荒野は、乾いた風と砂塵の匂いが支配する。

 凛華リンファは分厚い皮手袋をはめなおすと、とりでの防壁に肘をつき、西の地平を眺めていた。


「将軍、まもなくです」


 副将が低い声で告げると、凛華は鋭い眼差しを東方へと移す。

 地平の向こうから、砂埃を立てた一団が近づいてきた。

 たった十数名。しかし凛華にとって一万の敵兵よりも厄介な存在だ。


「文官さまは、わざわざこの荒野まで遊びに来るほど暇らしい」


 凛華は皮肉を込めて吐き捨てた。

 彼らは「監察官」────軍制の不備や不正を調査するために都から派遣された集団だ。


 馬蹄の音が近づき、一行が砦の門前に到着した。

 最初に馬から降り立った男を見て、凛華たちは思わず息を飲む。


 そこに立つのは、荒野に咲いた一輪の白蓮花のような美青年。


 まとう衣は宮廷人が好む上質な絹で、砂粒一つ付着していないかのように清らかだ。

 顔立ちは玉を彫ったように整い、日の光を受ける肌は雪のごとく白い。


「遠路はるばる、ご苦労だった」


 凛華は形式通りの挨拶を冷ややかな声で告げた。


 青年は優雅に一礼する。


「辺境軍の監査に参りました、皓月ハオユエと申します。将軍殿におかれましては、この度の監査へのご協力、心より感謝申し上げます」


 声までが涼やかで美しい。

 だが眼差しに一切の感情の揺れがないのを、凛華は見逃さなかった。

 まるで精巧に作られた美しい道具のようだと思った。


「疲れただろう。今日は部屋でゆっくりと休むがいい。夜には簡単な宴を……」


「いいえ結構です。さっそくで申し訳ありませんが、将軍殿の指揮系統と、過去三年の軍費の出納帳簿を拝見できますか。末端の兵に至るまでの、すべての記録を」


 彼の眼光は鋭く、言葉は有無を言わせぬ圧力を持っていた。


「都の文官どのがそこまで仕事熱心だとは」


 凛華は驚き目を丸くする。


「恐れ入ります」


 それからの三日間、皓月はほとんど休息を取らずに監査を続けた。

 彼の仕事に対する熱心な姿勢は、凛華らの想像を遥かに超え、半ば執着のようでもあった。

 分厚い帳簿の束を徹夜で読み込み、数年前の支出記録のわずかな矛盾や、兵站経路における非効率な点を次々と指摘していく。


「去年の秋、この村からの馬草の調達記録ですが、相場より一割高です。その差額はどこへ?」

「十年前の軍規では、辺境では兵の飲酒を禁じていますが、現行の軍規では許されています。この改定の理由は?」


 その一つ一つは、辺境軍の実情を知らない者には指摘できない、実務の深い理解にもとづいたものだった。


「そなたのような文官が、なぜ辺境の軍事制度にここまで詳しい?若さに加えてその美貌だ。私はてっきり……」


 自分の若さを棚に上げ、率直な疑問をぶつける凛華。


 皓月は無表情に筆を置き、女将軍を正面から見据える。


「将軍殿。私はあなたを誘惑するためにここへ来たわけではありません。帝国の根幹を支える軍の仕組みをくまなく把握し、陛下にご報告申し上げるためです」


 その言葉には、少しの軽蔑と冷徹な戦略家の気配がにじんでいた。


「そ、そうか……。ところで陛下は息災か?」


「ええ。持病の腰も鍼治療が効いているようです」


「あの方は昔から心配症で困る。将軍となった私をいまだ娘扱いし、何かと理由をつけては都へ連れ戻そうとするのだ」


 凛華は笑いながら愚痴をこぼし、長い髪を指でく。


「……」


 皓月は何も答えず、ただ唇を引き結び、ふたたび書面へ視線を落とした。


 *


 その夜、凛華は部屋で、この数年で皇帝から届いた文を見返していた。


『凛華、怪我をしていないか』

『そろそろ帰ってこい。嫁の貰い手がいなくなるぞ』


 下女として宮廷に仕えていた頃、彼女の秘めたる才知に気づいた皇帝は、周囲の反対を押し切って軍に送り込んだ。

 幾多の逆境を乗り越え、将軍となった凛華にとって、皇帝は良き理解者であり、心配性な父親そのものである。


 その時、ふと窓の外に目をやると、皓月の姿があった。

 彼は月明かりの下、軍営の周囲の地形を何かの筆記具で書き留めている。


 凛華の中に警戒心がわき上がった。


(やはり監査など建前だ。あいつは軍営の不正をでっち上げ、私を都へ連れ戻すための口実にするに違いない)


 それらはおそらく皇帝の指示によるものだろう。


 あの美しい男は凛華にとって、美しい毒を携えた危険な花だった。

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