蒼紋ギルド〈シジル〉 ―剣士でいたいS級ヒーラーを守る王族戦士―
はな
プロローグ
訓練場の朝は、まだ冷えが残っていた。
乾いた土と鉄の匂い。斜めに差し込む陽光が、漂う砂埃を金色に染める。
遠くの空を、一羽の鳥が横切っていく。
木剣のぶつかる音だけが、薄い空気を震わせていた。
影が二つ。
砂の上でぶつかり合い、揺れ、また踏み込むたびに細かな砂が舞い上がり、光の中で散っていく。
ひとりは──
陽光を受けるたびに銀に近いプラチナブロンドが閃く、長身の青年。
磨かれた革鎧越しにもわかる無駄のない体躯。両手には訓練用とは思えないほど重い盾と剣。
構えに隙がなく、呼吸すら乱れていない。
ルシアン・アークウェル。
王都最古の名門、王族に連なるアークウェル家の嫡子にして、天性の《戦士》。
対する影は細い。
黒髪を無造作に束ねた少年が砂を蹴り、しなやかに踏み込む。片手剣を握る腕は細いが、その動きには芯があった。
盾はない。スピードにすべてを賭けた身軽な構え。汗が顎を伝い、砂へ落ちた。
リヴェン・ソラス。
下層街育ちの訓練生。《剣士》の適性を持つ──誰よりも速い。
再び木剣がぶつかり合う。
硬い音が訓練場に響き、周囲の視線が二人へ吸い寄せられる。他の訓練生たちの手が止まりかけていた。
「……ッ、重っ……!」
リヴェンは歯を食いしばる。
盾から伝わる圧は腕の骨にまで響き、手のひらが痺れた。
「言っただろう、ソラス。
戦士は力で押し切る。お前の速度だけでは崩れない」
挑発ではない。ただの事実。
それが余計に癪に障る。
「避けられるぜ。そしたら当てられんだよ!」
低く滑るように踏み込み、横腹を狙う。
速い。砂を蹴る音すら置き去りにする──だが。
ルシアンは盾ごと空気を薙いだ。
「……っ!」
掠めただけで体勢が崩れる。重装備のはずの相手が、まるで軽い。
風圧だけで肌がひりついた。
(なんで……重い武器持ってんのに、そんな動けんだよ)
距離を取ると、蒼灰色の瞳が冷静にこちらを射抜いていた。
焦りも油断もない。ただ観察している。
「速さは脅威だ。
だが速さだけでは、重さは超えられない」
「──試してみろよ」
剣先が細かく震えているのは恐れではない。昂ぶりだ。
血が熱く、視界が澄む。
ルシアンの口元が、わずかに吊り上がる。
「何度でも」
衝突。
速さと重さが正面からぶつかり、訓練場の空気が張り詰めた。
木剣の軋む音、砂煙、交錯する影。
そして──
「そこまでッ!!」
教官の怒号が飛ぶ。
二人は木剣を下ろすが、目だけは戦いを続けていた。荒い呼吸が白く煙る。
ルシアンは額の汗を指で払う。
その仕草にすら、育ちの良さが滲んでいた。
「明日だ。
認定試験で、お前の速さがどれほどか証明してみせろ」
リヴェンも負けずに笑う。
口の端を吊り上げ、真っ直ぐに見返した。
「上等だ、アークウェル」
光と影。
階級も実力も、すべてが違う二人。
この朝、ようやく同じ場所に立った。
***
翌朝。訓練校の中央広場には何十人もの新入生が集まっていた。
薄く朝靄が漂い、ざわつく声が石畳に反射する。
不安と期待が混ざった空気。吐く息がかすかに白い。
「なあリヴェン、俺のランクどう出ると思う?
気になって眠れなかったぜ」
隣で跳ね回るのは、赤毛の小柄なフィン・ハロウ。
対照的にジェム・レントンはあくびを噛み殺しながら淡いクリーム色の髪を揺らし、杖を握っている。
広場の正面には、古びた石版。
縁には古代語、中央には幾重もの傷跡──この学校の創立以来、何千もの新入生が触れてきた証だ。
朝日を受けて、石版は鈍く光っていた。
ここ、アルカディア訓練校は地図の《空白(ブランク)》へ向かう者を育てる場所。
大陸各地にぽっかりと生まれる《空白》。
地形が変わり、方位が狂い、魔力が渦巻く不可視領域。
そこへ足を踏み入れ、調査し、記録し、そして地図へ線を戻す者。
人々は彼らを《記録者(レコーダー)》と呼ぶ。
その素質を計るのが、この石版だった。
「特性って言われてもよ、ピンと来ねぇんだよな」
リヴェンは肩を回す。昨日の疲れが筋肉の奥に残っている。
だが胸の奥では別の声が響いていた。
(……下層街じゃ、考える暇もなかった。
速く動けなきゃ死ぬ。それだけの毎日だった)
ジェムが眠そうに肩をすくめる。
「大丈夫だよ。
リヴェンが剣に向いてなかったら、僕びっくりして今日一日起きてるよ」
「おい、ジェムが寝ないとか……死ぬ気かよ」
苦笑して視線を上げると、前列に──ルシアン・アークウェル。
背筋は矢のように伸び、貴族らしい静かな気品を纏う横顔は、まるで結果を知っているかのよう。
周囲の新入生が無意識に距離を取っている。
それが当然のように、彼は一人だった。
リヴェンは無意識に拳を握る。
(……あいつの隣に立つ)
成績も、力も、階級も。すべてが違う。
けれど──だからこそ、届きたい。
***
名前が呼ばれる順に新入生が石版へ向かう。
最初の一人が触れた瞬間、淡い緑の光が広がった。
「ヒーラー、ランクD」
小さな拍手。光はすぐに消える。
次、また次へ。光の色が変わるたびに歓声と溜息が入り混じり、広場の空気が熱を帯びていく。
「ジェム・レントン」
ジェムはのそのそ歩き、ぺたりと手を置いた。
──深い青の光が弾ける。
「魔法使い、ランクA」
フィンが跳ねる。
「ほら見ろ、ジェムは絶対やると思ってた! Aなんてすげーよ!」
ジェムはぽへっとあくびをしているだけ。本人だけが興味なさそうだ。
続いてフィン。
弓を背負う小柄な体が震えるようにして手をかざす。黄色い光が放たれた。
「アーチャー、ランクB」
「よっしゃあああ!!」
三人で笑い合った、その直後。
「ルシアン・アークウェル」
空気が変わった。ざわめきが止まり、視線が一点へ集中する。
広場全体が息を詰めた。
ルシアンは迷いなく石版へ手を置いた。
──轟音。
赤い光が石版を貫き、炎のように燃え上がる。熱すら感じるほどの圧倒的な輝き。
「戦士、ランクS」
広場が息を呑む。
赤の光は戦場の覇者の証。大陸全土でも滅多に現れない格。
「さすが……名門アークウェル家」
誰かのつぶやき。
ルシアンは振り返りもせず列へ戻る。表情ひとつ変えず、まるで結果を知っていたかのよう。
リヴェンはその背中だけを見ていた。
昨日、自分を圧倒した木剣の重さ。揺るがない眼差し。圧倒的な差。
《Sランク》とは、こういうことか。
胸が熱い。悔しさとも憧れともつかない感情が喉を焼いた。
拳の中で爪が掌に食い込む。
「リヴェン・ソラス」
名を呼ばれた瞬間、音が遠のく。
石版には無数の傷──空白に挑んできた者の痕跡。
(……剣士であってくれ)
速さと刃だけが、下層街で自分を生かした。
それを失うわけにはいかない。
手のひらを押し当てる。冷たい石の質感が指先に染みた。
次の瞬間、鈍い銀色の光が滲む。
派手に弾けるのではなく、ただ静かに。
「剣士、ランクC」
C。
剣士にはなれた。……けれど届かない。
視線を上げると、ルシアンがこちらを見ていた。
その瞳には何も映らない。評価も期待も失望すらも。ただ見ているだけ。
リヴェンは歯を食いしばる。
SとC。
その距離を、必ず埋める。
判定が終わり、広場がざわつき始めた頃、フィンとジェムが駆け寄ってきた。
「やっぱりリヴェンは剣士か~。かっこいいしー」
「Cでも全然いいって。俺だってBだし」
笑って頷きながらも、
リヴェンの視線だけは、離れていく背中に吸い寄せられていた。
ルシアン・アークウェル。
戦士、Sランク。名門の天才。
その背中に追いつくために。
いつか並び立つために。
リヴェンは拳を、もう一度強く握った。
朝の光が、広場を白く照らしていた。
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