第1章 取り巻きのいない午後 第1話 完璧な令嬢
ローゼン家の朝は、静かに始まる。
まだ陽の昇りきらぬうちから、使用人たちが廊下を行き交い、銀器の磨かれる音が響く。
カーテン越しに差し込む光が、部屋の中を淡く照らし、天蓋付きのベッドの上で私は目を覚ます。
「おはようございます、ヴィオレッタ様」
侍女のクラリッサが、柔らかな声でカーテンを開ける。
朝の光が、部屋の中を満たしていく。
私は、ゆっくりと身を起こし、寝台の端に腰を下ろした。
「……おはよう、クラリッサ」
「本日のお召し物はこちらをご用意いたしました。春の陽気に合わせて、淡い藤色のドレスでございます」
「ありがとう。着せてちょうだい」
クラリッサの手を借りて、私はドレスに袖を通す。
鏡の中の自分は、今日も完璧だった。
整えられた銀紫の髪。
血のように赤い瞳。
背筋を伸ばし、微笑みを浮かべるその姿は、まさに“ローゼン家の令嬢”そのもの。
けれど、その瞳の奥にあるものを、誰も知らない。
私自身でさえ、もうよくわからなくなっていた。
朝食の席では、父と母が並んで座っていた。
父は新聞を読み、母は紅茶を口にしている。
私は、静かに席についた。
「おはようございます、お父様。お母様」
「おはよう、ヴィオレッタ。今日も美しいわね」
「……ありがとう、母上」
母の目は、私の姿を一瞥しただけで、すぐに視線を逸らした。
それが、いつものことだとわかっていても、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
朝食の間、会話はほとんどなかった。
ナイフとフォークの音だけが、静かに響く。
私は、完璧な所作で食事を終え、ナプキンをたたんだ。
「それでは、午後の茶会に備えて、支度をしてまいります」
「ええ。イザベルたちも来るのでしょう?」
「はい。いつも通りに」
母はうなずき、再びカップに口をつけた。
その仕草は優雅で、冷たかった。
私は、立ち上がり、部屋を後にした。
廊下を歩くと、使用人たちが一斉に頭を下げる。
私は、微笑みを浮かべながら、静かにうなずいた。
誰もが、私を「完璧な令嬢」として扱う。
それが当然だと思っている。
私も、そうでなければならないと思っていた。
けれど、心の奥では、いつも何かが欠けていた。
誰かと笑い合った記憶が、思い出せない。
誰かに本音を話したこともない。
私の言葉は、いつも飾られていて、誰にも届かない。
それでも、私は今日も仮面をかぶる。
それが、私の役割だから。
午後になり、中庭のテーブルに紅茶が運ばれる。
白いクロス、銀のポット、繊細なカップ。
すべてが整えられた完璧な空間。
けれど、取り巻きたちは、まだ来なかった。
私は、ひとりで紅茶を注ぎ、カップを口に運んだ。
香りは上品で、味も申し分ない。
けれど、どこか味気なかった。
風が吹き、庭の花が揺れる。
鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。
私は、そっと目を閉じた。
――完璧な令嬢であれ。
その言葉だけが、胸の奥で響いていた。
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